この映画は、いつかは見なければと思っていた映画のうちの一本です。
なかなか録画するチャンスには恵まれず、我が家のDVDの在庫にもなかったもの。
Amazon プライムの有料コンテンツで見つけました。
基本アマプラは、会員無料特典作品しか見てこなかったのですが、たまにはいいかと思い400円を払ってゲット。
こんな時代になってしまっては、TSUTAYA も GEO も商売にならないだろうなあなどと感慨にふけりながら、ポップコーンとソイラテを横において鑑賞いたしました。
監督は、アラン・レネ。
この人の作品で一番最初に見たのは、短編のドキュメンタリー「夜と霧」でしたね。
ナチス・ドイツのホロコーストを描いた作品で、見たのは高校生の頃。映像的にはかなりしんどい作品でしたが、歴史の勉強のつもりで見ています。
長編デビュー作品は、日本を舞台にした「二十四時間の情事」。
原題は「ヒロシマ・モナムール」で、これは日本人男性とフランス人女性の情事を、広島の原爆と被せて描くというシュールな作品。
この人は、そのキャリアを見ても、実験的な映画に挑むのが好きな監督といえそうです。
本作は、長編2作目となる作品ですが、その演出はかなりアバンギャルドです。
そしてかなり難解。
この映画はファンタジーか?
それともホラーか?
いや、もしかしたらSF?
映画の冒頭を見せられただけで、いろいろな思いが脳裏を錯綜します。
しかし、難解なのは映像表現であってストーリーはいたってシンプル。
ロココ調の宮殿のようなホテルに、正装の紳士淑女が集っています。
彼らに名前はありません。
このホテルにいる1人の女を、男が訪ねて行きます。
男は、あなたとは、去年マリエンバートで出会い、恋に落ちたということを告げます。
そして、一年後にこのホテルで再会することを約束したと。
しかし、女はそれは覚えていません。
男はその詳細をただ女に訴えるだけ。
ホテルには、女の亭主もいて、彼は去年の二人の情事に、おそらく気づいています。
さて、二人の不倫関係はどうなるのか・・
文章にしてしまえば、たったこれだけの物語です。
Wiki によれば、脚本のアラン・ロブ=グリエは、黒澤明監督の「羅生門」にかなり触発された語っています。
「羅生門」といえば、人間のエゴイズムと真実の曖昧さを、極上のエンターテイメントに昇華させ、「世界のクロサワ」を世に知らせしめた大傑作。
アラン・ロブ=グリエは、この映画のために4本の脚本を用意します。
男の視点、女の視点、女の亭主の視点、そして現代です。
彼はそのシナリオをシーンごとに刻み、シャッフルして、話のつじつまが合うように繋げていきました。
監督曰く、この映画は「非常に緻密に計算された作品で、曖昧さのかけらもない」
確かにそうかもしれません。
しかし、それが理解できるのは、この作品を作っている本人たちだけだろうという気はしてしまいます。
もちろん、この映画を何度も繰り返してみれば、監督の言う事は理解できるかもしれません。
でも、この映画を繰り返し見ようとするのは、立場上「わからない」とは言えない映画評論家の方々や、相当コアな映画ファンだけでしょう。
少なくとも、この映画を初めて見た人には、シナリオ設計上の緻密さが理解される事はなく、映画を見終わって残るのは、そのあまりにも独特すぎる映像表現の印象だけだろうと思われます。
僕が初めてこの作品に触れたのは、おそらく中学生の頃です。
当時は過去の名作をダイジェストで紹介するような映画紹介番組があったんですね。
今ならその役目はYouTube番組が担っています。
その中に、この映画の紹介もあり、その時の解説者が何を言っていたのかはもう忘れてしまいましたが、その映像だけは強烈に脳裏に刻み込まれました。
まるでマネキン人形のように、静止したまま動かないホテルの紳士淑女たち。
主人公が振り向くたびに入れ替わる衣装や背景。
哲学的でさえあるホテルの内装や庭園のシンメトリーな風景。
映画の中身などまるでわからなくても伝わってくるのは、まるで異次元空間に誘い込まれたような異様な空気感でした。
その印象だけを頭の片隅に置いたまま、気がつけば半世紀が過ぎてしまいましたが、今回改めて全編を鑑賞してみてもその印象は変わっていませんでした。
ただ、こちらもその間には多くの映画を見てきて、色々と能書きは語れる位の映画リテラシーは身に付けておりますので辛口な意見を少々。
これは、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」を見た時にも感じたことなのですが、監督は意識的に映画を難解なものにしているだろうとピンときました。
「2001年宇宙の旅」は、1番最初のプロットではもっとわかりやすいSFエンターテイメントだったそうです。
実は、宇宙人が登場するようなプロットまであったとのこと。それは実際に撮影までされたそうです。
しかし、編集の段階に至って、キューブリック監督は映画が陳腐になることを嫌い、エンタメ性を徹底的に排除。
わかりやすい表現もバッサリとカットして、確信犯的に映画を難解なものに編集していったそうです。
こうすることで、キューブリック監督の斬新な映像は、それ自体が哲学的な啓示を表現しているような、深淵な映像体験に昇華しました。
もちろんこれは、アーサー・クラーク氏の監修による、それまでにのSF映画にはない革命的な宇宙表現が大前提にある事は言うまでもありません。
映像自体が陳腐なものであれば、この難解化作戦は間違いなく自爆します。
しかし逆に、それを下支えする映像がしっかりとしていれば、むしろ映画の内容は難解であればあるほど傑作と言う評価を受け、映像叙事詩として成立すると言うことを、キューブリック監督は心憎いほどに熟知していたと思われます。
難解な映画を、映画評論家たちはなかなか貶しにくいんですね。
アラン・レネ監督が、その意識を持っていたかどうかは想像するしかありませんが、本作は評論家たちの絶賛を受けて、ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しています。
黒澤明の「羅生門」もこの賞を受賞しているので、ベネチアの人たちは、この手の映画が好きなかもしれません。
本作でデルフィーヌ・セイリグのすべての衣装のデザインを担当したのは、かの有名なココ・シャネル。
シャネルと言えば、女性を締め付けるコルセットを廃止した自由で快適な服装を世に提案したデザインのイノベーターであり、女性がパンツスタイルを楽しめるようにした功労者です。
装飾過剰なデザインを避け、モノクロームを基調としたシンプルさとエレガンスを追求した彼女のスタイルは、本作のモノクロ映像には映えていました。
今回鑑賞したリマスター版制作には、シャネルが出資していると言いますから、本作はシャネルのイメージ戦略にとってまだまだ宣伝効果の高いコンテンツであると言うことなのでしょう。
この映画が作られた1961年と言えば、フランスではヌーヴェルヴァーグが全盛期の頃でした。
映画の中に自由と言うエッセンスを取り入れたムーブメントではありましたが、本作の印象は、個人的にはフランソワーズ・トリフォーやジャン=ルック・ゴダールのタッチとは少々異質なものを感じます。
しかし、そうはいっても本作からは、フランス映画の香りはプンプンと漂ってきます。
こんな小難しい映画は、エンターテイメントに特化したハリウッドではまず作らないでしょう。
作るとしたら、やはりフランス映画しかないだろうと思います。
アメリカ映画のファンは、よくも悪くも単純明快です。
フランス人には、どこか映画文化の発祥の国としてのプライドがあるように思われます。
もちろんプライドだけではなく、映画を見る目も、リテラシーもそれなりに備わっているのは確実。
黒澤明や小津安二郎、最近では黒沢清といった映画監督を、ある意味では、日本国内よりも高く評価してきたのはこの国でした。
そのプライドがあるからこそ、本作のような難解な映画を許容する度量もあるのだと言う気がします。
「この映画を楽しめるようなセンスがないと、まだまだお子様ですよ。」
アラン・レネ監督からはそう言われているような気がしてなりません。