ビング・クロスビー、ボブ・ホープ、ドロシー・ラムーア主演による「珍道中」シリーズの三作目です。
珍道中シリーズは、1940年から1962年までに、8作作られていますが、このトリオで作られたのは、1952年の6作目「バリ島珍道中」まで。
本作以外の邦題タイトルには全て「珍道中」というタイトルに付いていますが、本作だけは原題の直訳になっています。
これは、本作がこのシリーズで一番最初に公開された作品だったためのようです。
シリーズのスタイルは、この時代にヒットしていた冒険活劇映画をパロディがベースになっています。
そしてビング・クロスビーの美声をフーチャーしたミュージカル映画としての側面。
ヒロインのラムーアを巡ってクロスビーとホープが恋のさや当てを繰り広げるロマンティック・コメディとしても楽しめます。
そして、なんといってもシリーズの白眉は、製作会社のパラマウントを笑い飛ばす楽屋落のギャグの数々。
これがなかなか楽しいんですね。
この時代のアメリカのコメディ映画は、僕が名画座をハシゴしていた大学生時代でも、なかなか見れませんでした。
テレビの映画劇場ではやっていたかもしれませんが、当時はあまり艶っぽくない映画は観ていませんでした。
僕がこの「珍道中」シリーズを意識したのは、80年代当時、イラストレーターの和田誠さんが書いた映画エッセイの傑作「お楽しみはこれからだ」を読んでからです。
和田氏の名調子で、シリーズの気の利いた名セリフやギャグが紹介されるのですが、確か本作からのネタもあった記憶です。
これが楽しくて、このシリーズはそれ以降、見る機会があれば見逃すまいぞと思っていたんですね。
本作を鑑賞後、この文章のネタ探しにネット検索をしていたら、自分がかつてこのブログで書いた文章がヒットして驚きました。
1966年の「スパイダーズ バリ島珍道中」の映画鑑賞ブログでした。
これは、本家本元の本シリーズの「バリ島珍道中」をベースにして作られていたからでしょう。
そこで、僕はこのシリーズの、「アラスカ珍道中」を観たと書いているんですね。
自分のことながらこれには首をひねってしまいました。
恥ずかしながら、その記憶がありません。
でも、その文章には、映画冒頭のパラマウントのオープニングを茶化したギャグに付いて触れています。
どうやらこれは、和田誠氏の「お楽しみはこれからだ」に紹介されていたネタを覚えていて、そのブログに転用したのだと思われます。
だとしたら、観たというのはウソ。誠に申し訳ない。
しかし、あるいは本当に観ていたものを忘れてしまっているという可能性もあります。
調べてみたら、残念ながら、この珍道中シリーズで、DVDを持っていたのは本作のみ。
どこかで、鑑賞する機会があったら確認してみることにします。
船で密航していた二人が、モロッコにたどり着き、ラクダの背に乗って、歌いながら街へ向かいます。
二人がいい調子で歌っているのが本作の主題歌でもある"(We're Off on the) Road to Morocco"
この歌の歌詞がなかなか傑作です。
作詞は、ジェニー・バーク。
こんな楽屋落ち丸出しのフレーズがあります。
♩
8:5の確率でドロシー・ラムーアに会える
♩
これ以上言うと映倫に引っかかる
♩
盗賊が現れても怖くないぞ
パラマウントとは五年契約だから守ってくれる
映画の主題歌としては、おフザケも甚だしいノリではありますが、これがこのシリーズの味になっているのは間違いのないところ。
芸達者のビング・クロスビーとボブ・ホープの当意即妙のアドリブが、映画ではそのまま使われることも多いとのこと。
僕くらいの英語力では、なかなかそれを全て楽しむことは出来ませんが、雰囲気くらいはわかります。
こんなシーンもありました。
砂漠の真ん中で、網と縄でぐるぐる巻きにされて放置された二人が、次のカットでは、シレッと普通に砂漠を歩いています。
ボブ・ホープが、ビング・クロスビーに問いかけます。
「どうやって袋の縄を解いたんだ?」
するとビング・クロスビーが、カメラ目線になってこう言います。
「観客にはちょっと説明できない。」
この辺りは、御都合主義のハリウッド製冒険活劇を、完全に笑い飛ばしたギャグですね。
このシリーズには、このような第四の壁を破った楽屋落ギャグが度々登場して、笑わせてくれます。
ラストは、また冒頭のようにイカダに乗ってニューヨークに帰ってきた一行。
ボブ・ホープが歓喜の雄叫びをあげると、すかさずビング・クロスビーが茶々を入れます。
すると、またボブ・ホープ。
「これはアカデミー賞がもらえる演技だぜ。」
この人は、後にアカデミー賞の司会の常連になった人。
1978年のアカデミー賞の授賞式の冒頭では、その年の目玉であったジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」にひっかけて、司会者としてこう一言。
「今夜が、本当のスター・ウォーズ!」
個人的にはこのシーンを思い出して、ニンマリとしてしまいました。
本作は、すでにパブリック・ドメインになっている作品ですので、これくらいのネタバレはご容赦を。
主演トリオの他に、本作にはよく知っている俳優が一人出演していました。
ドロシー・ラムーア演じるシャルマー姫の許嫁の王子カシムを演じていたアンソニー・クインです。
この人の作品は、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」で大道芸人ザンパノを演じた以降のゴツいタフガイの彼しか知らなかったのでちょっと驚きました。
1952年に作られた「道」を遡ること10年前の、27歳の彼はなかなかイケメンの色男でした。
Wikiをしてみると、この人は、1940年の本シリーズ第一作目「シンガポール珍道中」にも、キャスティングされていました。
機会があれば、これも観てみたいところです。
ラクダの下顎と目玉だけをアニメにして喋らせたり、なにかとノーテンキな悪ふざけ満載の本作。
ラストのドタバタは、ドリフターズのギャグに通じるものがありますね。
とにもかくにも、この作品が作られたのは、アメリカが我が国と太平洋戦争を始めた翌年だということはお忘れなく。
日本が国を挙げて、「欲しがりません。勝つまでは」と、ほとんどのエンターテイメントが制限されてしまっていた悲壮感あふれる時代にあちら様はこの余裕です。
改めて思いますね。
どう考えても、勝てるわけなかったよなあ。アメリカには。
土佐日記は、平安時代の歌人・紀貫之によって書かれた日記文学です。
934年(承平4年)に土佐守として赴任した貫之が、5年間の任期を終えて帰京するまでの船旅の様子を、侍女の視点から記しています。
なかなか凝った構成で、著者の遊び心が感じられます。
国司の重責を果たし終えた紀貫之が、京都の家に戻るまでの道中を、いっちょ日記にでもして楽しんでやろうかという開放感が感じられます。
肩の力を抜いたユーモアあふれる文体には好感が持て、思わず1000年前の平安時代にタイムスリップさせられてしまいました。
これだけの時間を隔てても変わることのない人間関係の悲喜こもごも、家族への情愛、自然への畏怖が、それぞれの場面で詠まれる短歌に凝縮され、世界的にも唯一無二の日本文化の奥深さを感じさせられました。
土佐日記は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という書き出しで知られています。
これは、「男が書くという日記というもの、女も書いてみようと思って書くのである」という意味。
簡単に言ってしまえば「成りすまし」というわけです。
今の感覚で言えば、ハンドルネームに近いかもしれません。
この書き出しは、当時としては非常に斬新な表現でした。
なぜなら、日記は本来、男性が公的な記録として書くものであり、女性が私的な感情を吐露するものではなかったからです。
地方国家公務員として、漢文による公的記録と5年間向き合ってきた彼が、当時の女性たちが使っていたかな文字を駆使することによって、その堅苦しさから解放されて、素直な気持ちを表現したいという思いに駆られたのでしょう。
公務のストレスから解放された彼が、本来持っていた茶目っ気とユーモアを、この日記に爆発させています。
貫之はこの書き出しによって、従来の男性中心的な日記文学の枠組みを打破し、男性の身でありながら、女性の声を文学に表現することに成功したといえます。
事実、「土佐日記」は後の女流文学に大きな影響を与えました。
特に『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品には確実に、大きな影響を及ぼしています。
さらに、本作には、日本語の文体に漢詩や和歌を埋め込む技法など、さまざまな文学的技法が用いられ、日本の古典文学の歴史においても重要な位置を占めているわけです。
紀貫之は、平安時代前期の歌人、官僚、学者だった人物です。
いわゆる三十六歌仙の一人。この時代の生粋の文化人ですね。
藤原北家良房の孫で、歌人・紀友則の兄。
幼い頃からその才能を発揮し、「学問の神様」としても有名な藤原道真にも師事しました。
優れた歌人として知られており、特に『古今和歌集』の編纂に大きく貢献しています。
彼の歌風は、優美で繊細な表現と、自然や情景を巧みに描写する点が特徴。
思ひ出は 花よりも猶 あだなりと 誰か教へし 春の夜の夢
古今和歌集では、なかなか秀逸な、恋歌を読んでいます。
さて、国府のあった大津から一行が出発する際には、送別会のラッシュが続きます。
「馬のはなむけ」という餞別を意味する言葉が出てきますが、この頃には、実際に馬ではなく、普通の餞別そのものをこう言っていたようです。
著者はそれを承知で、船旅であるのに、馬をはなむけに持ってくるのかと軽口を叩いていますね。
任官を解かれて都へ帰ることを祝ってくれる仕事仲間たちの好意は嬉しかったかもしれませんが、どうやら、彼(彼女)は素直には喜んでいないようにお見受けします。
海賊がウヨウヨしている海路への不安もあったでしょう。
あんたたち、送別にかこつけて、酒を飲むことを楽しみたいだけだろうと言う皮肉もこもっていたかもしれません。
びっくりしてしまうのは、こういう時に当時は子供にも酒を飲ませていたようです。
酔っ払った子供が、足をクロスさせてへべれけになっているなんて描写もありました。
国府から一行は、船が出る港のある浦戸に到着します。
当時の船は木造船です。
平安時代の絵巻物を見る限り、10人ほどの漕ぎ手を、楫取(かじとり)リーダーが指揮して進む帆船です。
船に乗り込んでいる人たちは、一度、海へ出れば、自分たちの命をこの楫取りに預けなければなりません。
ところがこの楫取りがなかなかの曲者。
この人物が実際にいたのか、それとも紀貫之の創作によるフィクションの人物なのかは分かりません。
ただ、こういう問題人物を配置することで、物語が俄然面白くなると言う事は計算していたかもしれません。
この楫取は、一行が意気消沈しているときに、その場の空気も読めずに、終始意味不明の鼻歌を歌い続けたりします。
こんなエピソードもありましたね。
航行中、突然の突風が吹いてきて、船が波間に揺れ始めます。
すると楫取りがいいます。
「住吉明神の怒りを沈めるために、何か大切なものを海に投げてくだされ。」
そこで、神事やお祓いに使う幣を投げるのですが、嵐は収まりません。
「もっと大事なものを」
そう言われて、やむなく当時としてはかなり貴重な鏡を投げ込むのですが、なんとこれで嵐は、ピタリとおさまってしまいます。
そこで読まれたのがこんな歌です。
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
神様。こんなもので、怒りが静まるなんて、よほど欲の皮が突っ張っているとお見受けするみたいなことでしょうか。
著者は、嵐はやがておさまると分かっていた楫取のパフォーマンスではなかったかと疑っている気さえします。
もしかしたら、このクセのある人物に著者は自分自身を投影していた可能性もあります。
日記の中には、この海路に出没している海賊たちへの恐怖心が度々話に出てきます。
平安時代、瀬戸内海は海賊の活動が盛んな場所でした。
特に、三島村上氏と呼ばれる海賊団が有名で、彼らは来島・能島・因島を拠点に、瀬戸内海を支配していました。
これらの海賊は、単なる略奪者というよりは、海のスペシャリストであり、海上の安全や交易・流通を担う重要な役割を果たしていたとされています。
そんな時代背景を受けて、「土佐日記」には、海賊の脅威に対する記述が見られます。
船頭たちが神仏に祈りを捧げる様子や、海賊に追われる恐怖を表現した歌が記されています。
これらの記述は、当時の海賊の存在がいかに身近な脅威であったかを物語っています。
三十日。雨風吹かず。「海賊は夜歩きせざなり」と聞きて、夜中ばかりに船を出、阿波の水門を渡る。夜中なれば、西東も見えず。男女、からく神仏を祈りて、この水門を渡りぬ。
海路で最も海賊と遭遇する確率の高い鳴門海峡を渡る夜の一行の緊張感が伝わってくる描写です。
海賊は、夜には現れないと言う定説を信じて、あえて危険な夜間に畿内に入ろうとする一行。
船に乗っているものは、皆、手を合わせて神に祈るのみと言うわけです。
このように、平安時代の瀬戸内海は、海賊による支配が常態化しており、その影響は政治や経済にも及んでいたことが伺えます。
そして、文学作品にもその影響が色濃く反映されていたのです。
この海賊は、中世には村上水軍として名を馳せます。
そして、それは、豊臣秀吉の時代、1588年(天正16年)に海賊停止令が発布されるまで続くことになるわけです。
京の都から土佐へ下向するときに、国司と女房の間には子供がいました。
しかし都へ戻るこの船の中にその子供の姿はありません。
土佐での5年間の間に、夫婦はこの子供を病で失っています。
この日記には、折に触れ、子供をなくした夫婦の哀歓の情が度々秀逸な短歌となって表現されています。
子をこひし 人の恋しきは 夜ぞ更けて かたぶく山里の つらぬきとぬ
I
この短歌は、紀貫之が土佐で勤務中に、地元の夫婦が子供を亡くした悲しみを歌ったものです。
夜が更ける中、山里に響く夫婦の悲嘆や涙が、作者の心にも深く共鳴しています。
子供の死によって破れた親の心情や、それが周囲に及ぼす影響が、この短歌によって感じられます。
見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや
55日間の長旅を経て、荒れ果てた京都の自宅にたどり着いた著者は、最後は、自分が侍女に扮していることもかなぐり捨てて、親として、我が子を失った悲しみの心情を吐露した短歌を詠んでこの日記を終わらせています。
土佐日記は、ユーモアと皮肉、遊び心が光る作品です。
作者は、短歌で鍛え上げた様々な表現技法を用いて、旅の喜びや悲しみ、そして人生の様々な側面をユーモラスに描き出しています。
これらの描写は、作品をより魅力的なものにするだけでなく、時代を超えて読者に深い共感を与える効果も果たしています。
求めしもおかず。ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎、もし思ふやうあらむや。
押鮎は土佐の名産品ですが、「押鮎をの みぞ食ふ」ではなく「押鮎の口をのみぞ吸ふ」と表現しているあたりがクセモノ。
もちろん、人々は本当に押鮎の口だけをチューチュー吸っていたわけではないでしょう。
つまり頭からかぶ りつく様子をキスに見立てているわけです。
さらに作者は、「こんなことされ れば、押鮎だってヘンな気を起こしはしないかしら?」と悪ノリしているわけです。
侍女と言う女性目線から書き出した日記ではありますが、著者の脇は非常に甘いわけです。
その目線のほころびは、当時の読者にも十分に理解できたはずです。
しかしそれを承知でも、そのユルさが、かえってこの作品の魅力になっている事は確かなようです。
紀貫之と言う人物のユーモアのセンス、懐の深さ、皮肉っぽい視線、人としての情愛。
そのすべての様子が絶妙なハーモニーを奏でて、この作品を極上のエンターテイメントにしているように思います。
旅の道中を面白おかしく描いて江戸時代に大ヒットした十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」のユーモア小説としての原点は、この土佐日記にさかのぼるのかもしれません。
土佐日記には、紀貫之のダジャレがふんだんに出てきます。
今で言うところの親父ギャグですね。
教科書にも、載るような古典の名作に、オヤジギャグがふんだんにあると言うのは、僕のような不良老人にはなんとも喜ばしい限りです。
もしも、紀貫之が現代に生きていたら、間違いなくYouTuberをやっていたと想像します。
その独特な世界観とユーモアのセンスを発揮して、平安時代の歴史や文化を、自身の体験談を交えてわかりやすく解説。
教科書では学べない、当時の生活や人々の暮らしを、ユーモアを交えて紹介。
全国各地を旅しながら、風景や文化、グルメなどを紹介。
旅先での出会いやハプニングも満載。
和歌: 和歌の歴史や作法を、現代風にアレンジして解説。
視聴者と一緒に和歌を作ってみようなんてコーナーもあるかもしれません。
日本文学の古典ではありますが、堅苦しいと敬遠するものではありません。
現在の視点から見ても、十分に共有できる日本文化の奥深さが詰まっていますね。
スマホも、パソコンも、インターネットもない時代でも、人々は、いかに文化的であったかが伺い知れる作品です。
古典を楽しむなら、Amazon でポチっとするのではなく、是非図書館にお出かけください。
借りてきても、料金はかからないトサ。
安藤広重の江戸風景画を見ていたら、江戸時代のイラストを描いてみたくなりました。
描くなら、やはり映画からでしょう。
さて何の時代劇がいいかなと思って、DVDの在庫から引っ張り出してきたのが本作です。
大映の座頭市シリーズの第12作目。
WOWOWでまとめて録画したものがありました。
主演はご存知勝新太郎、監督は三隅研次です。
さて、イラストを描く立場から一言。
時代劇のセットと言うと、例えばNHKの大河ドラマなどを見ると、確かに当時の様子を再現する時代考証などはしっかりしているように思えるのですが、どうしても「作り物」感が否めません。
撮影技術の向上もあるのでしょうが、要するに、綺麗すぎてリアルじゃないんですね。
テーマパークのアトラクションのようで、まるで生活感がにじみ出ていないわけです。
ところが、この頃の大映京都撮影所の時代劇セットには、使い込まれた経年感がしっかりとあって、旅籠の壁や障子、畳の色に至るまで時代に馴染んでいる感じです。
大映撮影所は、1927年に日活太秦撮影所として作られたものが、1942年に名称変更されたものです。
ですから、本作の撮影時点で、すでに、40年近い撮影所としての歴史がありました。
その歴史の風格のようなものが画面からはにじみ出ています。
やはり、映画の需要がまだまだあって、時代劇をシステムチックに作れていた時代だからこその映像だと思います。
江戸時代の庶民文化の再現性は、大河ドラマや民放時代劇よりも、やはりこちらの方に軍配が上がるような気がいたします。
サイレント時代にも時代劇は作られていましたが、この頃はまだモノクロで粒子も荒く、セットもまだ出来立てだったでしょうから、江戸時代の質感までは伝わって来ません。
やはりセット自体を使い込んできた、後年の作品のセットの方が、味わいそのものはあるような気がします。
その大映撮影所も、時代劇作品の激減によって、1986年には閉鎖されています。
確かに、制作費をかければ新しいセットは作れるかもしれませんが、やはりスクラップ&ビルドで作られる時代劇セットでは、時間の経過が醸し出す味わいは作れないでしょう。
少なくともイラスト愛好家として、描いてみたいと言うムラムラ感は起きません。
さて、座頭市は盲目の按摩師です。
したがって、現在ではNGワードとされる差別用語が、セリフの中に頻繁に出てきますので、NHKや民放での再放送はかなり厳しいことになっているようです。
WOWOWで放映されたバージョンにも、映画の冒頭には断り書きがあります。
「この作品には不適切なセリフが含まれていますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み、当時の表現をあえて使用して放送します」
これを読んでしまうと、やはりどのセリフがそれに該当するのかはやはり気になってしまいます。
座頭市シリーズの場合、やはり定番となってしまう差別用語の代表が「めくら」。
これは映画中頻繁に出てきます。
市と敵対することになる相手たちは、大抵このセリフは破棄してますし、ときには「ドメクラ」なんて凄んでいる時もあります。
時には市の方が健常者に対して、「めあき」とか「めあか」とか言っている場面もあるのですが、これもNGになるのでしょうか。
あと、もう一つよく出てくるのが「カタワ」というやつ。
これ等は市自身が自虐的に自称していることもあります。
按摩稼業というものは、ある程度、世間に媚びていないと成り立たない商売でしょうから、こういう物言いをする事は多かったのでしょう。
今風に言えば、身体障害者と言うことになるのでしょうが、これでは、いくら公序良俗は踏まえているとは言え、時代劇の映画のセリフとしてはいかにも不自然です。
実は本作の映画の冒頭で、座頭市自身が自分のことを「身体障害者」だと言っているシーンがありました。
とても、江戸時代にあった言葉とは思えなかったので、これは気になりました。
「体の不自由な者」位ならいざ知らず、身体障害者と言う物言いは、いかにも現代的過ぎます。
意識してこの言葉を使ったのかどうか、本作の脚本を書いた伊藤大輔に真意を聞いてみたい所です。
その意味でもう一つ気になったセリフが「破傷風」という言葉でした。
果たして、この病名を江戸時代の人たちが使っていたかどうか。
これはちょっと気になってしまったので、AIで調べてみました。
結果は以下の通り。
日本では、明治時代に入って西洋医学が導入されると、その翻訳として「破傷風」という言葉が使われるようになりました。
それ以前は、「テタヌス」という言葉も医学的な文脈では使用されていました。
しかし、娯楽映画のセリフとして「テタヌス」というのもどうかと思います。
やはりここは、江戸時代では使われていなかった言葉ではあっても、観客が理解しやすいように、あえて破傷風と言う言葉を使うのは脚本テクニックとしてはありと考えるべきかもしれません。
『座頭市地獄旅』は、座頭市が、江ノ島での祭りや湯治場での出会いを通じて、様々な人々との交流や対立を繰り広げる物語です。
船旅の途中でイカサマ賭博を見破り、やくざたちを手ひどくやりこめた座頭市は、江ノ島で按摩の仕事に精を出します。
このヤクザの中に、藤岡琢也がいました。
後のテレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などでおなじみになった人です。
こういう人を見つけると思わずニンマリしてしまいますね。
さて、船内での一件から馬入一家の者たちとトラブルになり、そのもめごとに巻き込まれた幼女が破傷風にかかってしまいます。
市は自分のせいだと感じ、南蛮渡来の霊薬「透頂香」を手に入れるため、湯治の地・箱根へと赴きます。
そこで、将棋好きの浪人・十文字糺と出会い、友情を深めていきますが、やがて二人の間には決定的な対立が生じます。
十文字を演じている本作のゲスト俳優は、ニヒルの悪役でお馴染みの成田三樹夫。
成田と言えば、日活の「仁義なき戦い」シリーズのインテリヤクザの役が強烈な印象ですが、それ以前は大映で悪役スターとして活躍していました。
主演の勝新太郎とは、大の飲み友達で、2人は大映時代は毎晩のように飲み歩いていたそうです。
本作で成田の演じた浪人は、いつも将棋を指していましたが、成田自身も、将棋は、プロ級の腕前で、NHKの番組で解説もこなしていたとのこと。
座頭市を慕う旅芸人のお種を演じたのは岩崎加根子。
この人も大映の専属女優だった人ですが、子供の頃よく見ていたガメラシリーズや、大魔神シリーズ、妖怪シリーズには出演していなかったので、失礼ながら個人的にはあまりなじみのない女優でした。
映画の中に、座頭市が周囲の気配に聞き耳を立てると言うシーンがありました。
カメラは、座頭市の真っ赤になった耳をクローズアップ。
すると、この耳がヒクヒクと動くんですね。
この芸ができたタレントとして、E.H.エリックを思い出します。
この人は司会者として有名なタレントでした。彼の実の弟が岡田眞澄です。
勝新太郎は、この芸ができれば、自分の座頭市の役作りに大きく貢献すると直感し、猛特訓の末、この技を獲得したとのこと。
勝新太郎と言うと、天性の天才俳優で、あまり努力とか勉強とかはしていない遊び人の印象が、個人的にはあるのですが、ここぞと言うときには、やることはやる人だったようです。
座頭市のことを色々とネット検索してみたのですが、面白い記事を1つ見つけました。
日本以外で、座頭市シリーズに熱狂している国があるそうです。
それはなんと、地球の裏側のキューバです。
キューバで座頭市シリーズが受けている理由には、いくつかの要因が考えられます。
まず、キューバ革命後、アメリカとの国交が断絶されたことにより、アメリカ映画の輸入が制限されました。
その結果、日本映画が多く輸入されるようになり、座頭市シリーズがキューバの人々に広く親しまれることになったようです。
また、座頭市の盲目でありながら抜刀術の達人というユニークなキャラクターも大いに貢献していた模様。
勝新太郎氏の破天荒で憎めない人柄や、居合や殺陣などのアクションシーンが、キューバの観客に新鮮な驚きと興奮を提供した可能性はありそうです。
座頭市シリーズが持つ正義とは何か、弱者を守るとはどういうことかといったテーマが、キューバの社会情勢と共鳴した可能性はあります。
文化的な背景や時代の流れが、座頭市シリーズのキューバでの人気に影響を与えていると考えられます。
座頭市シリーズも輸入を止められたら、ハリウッド映画が見られないキューバ人であれば、イタリア製のマカロニ・ウェスタンに飛びつきそうな気もしますね。
こういうのをキューバしのぎと言います。
高峰秀子は大好きな女優です。
今のところ日本の映画界ではマイ・ベスト・アクトレスです。
この先も映画は見ていくつもりですが、そろそろこの順位は終生ひっくり返りそうにないなと思い始めています。
それくらいこの人は女優としても、人としても魅力的ですね。(文筆家としても)
そんなわけで、彼女の出演作品で鑑賞可能なものは、死ぬまでに是非全作見ておきたいと思っております。
本作は、Amazonプライムで見つけました。
彼女が25歳の時の作品です。
デコちゃんが、最も溌溂として、キラキラしていた頃ではないでしょうか。
女優生涯にわたって、どんな役でも、その時の年齢に応じて達者にこなしていた彼女ですが、本作のコメディエンヌ及びミュージカル女優ぶりもなかなか堂にいったもの。
個人的には、彼女の魅力に浸れればそれで文句はないのですが、この作品は他にもいろいろと見どころ満載でした。
まずは共演女優が旬の人でした。
彼女の部屋の居候役で親友のお春を演じていたのがブギの女王笠置シズ子です。
現在放送中のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」のヒロインのモデルともなった伝説の歌手が彼女。
本作においても、同名の主題歌や「ジャングル・ブギ」を披露してくれています。
この曲は黒澤明監督の「酔いどれ天使」でも歌っていましたね。
「うわーお、わおー」と歌うあの曲です。
もちろん同名主題歌を、高峰秀子とも歌っています。
そして、それだけではありません。
個人的には、それよりももっと貴重だと思ったのは、二人が居候を決め込む家の主人を演じている、五代目古今亭志ん生の落語が見れることです。
落語家協会理事を引退した元理事長新笑という落語家の役を、120%地のまま演じていました。
映画のラストでは、この志ん生師匠の名人芸がたっぷり見れるんですね。
YouTube動画で、録音モノはよく聞いていたのですが、この当時ですから、なかなか動画の志ん生師匠の記録は残っていません。
動く志ん生師匠は、彼の落語のファンにとってはたまりません。
口の中で、舌を回しながらのあの独特の名調子。
ラストでそれはたっぷり観れるのですが、個人的にはそれよりも面白かったのが、志ん生師匠が一人稽古をするシーンです。
演目は「疝気の虫」。
これはなかなか貴重です。思わずニンマリしてしまいました。
『銀座カンカン娘』は、1949年に公開されています。
同名の主題歌も、戦後最大のヒット曲になっています。
この映画は、東宝が配給し、新東宝が製作したもので、監督は島耕二。
脚本は中田晴康と、黒澤明の師匠でもある山本嘉次郎。
物語は、落語家新笑が引退し、妻のおだい(浦辺粂子)と子供たちとささやかな生活を送っているところから始まります。
そして新笑の恩人である娘のお秋(高峰)と、お秋の親友であるお春(笠置)がこの家の二階に居候。
新笑の甥の武助(灰田勝彦)は会社の合唱隊を組織し、お春は声楽家志望、お秋は画家として芸術家になることを目指しています。
しかし、現実は厳しく、文無しの彼女たちは絵の具もピアノも買うことができません。
お秋はある日、犬のポチを連れて散歩をしているとひょんなことから映画の撮影に参加することになります。
ところが主演女優が噴水の中に落ちるシーンを拒否し、急遽代役を探すことに。
しかし女優のスタントが見つからない状況を見て、お秋は一計を案じます。
彼女は急遽お春を呼び寄せスタントに推薦。
お春は主演女優の代わりに、池にドボンというスタントを演じて、出演料をゲット。
二人は一緒にエキストラ参加していた白井(岸井明)に誘われて、一緒に銀座のバーで歌って稼ぐことになります。
三人による銀座の流しは次第に客を増やしていきます。
この調子なら欲しいものが買えると希望に胸を膨らませていた矢先、新笑が立ち退きを要求されるという事態が発生。
そこで、「カンカン娘」を歌って、10万円を稼ぎ出すことを決意します。
そこに合唱隊を解散させられてしょげていた武助も加わり、四人は銀座で稼いだお金を新笑に差し出します。
そして同時に、お秋と武助の交際も進展し、お秋は武助との結婚を決意。
その報告の席で、二人の門出を祝い、新笑が一席披露して、めでたしめでたし。
今まで色々な日本映画を見てきましたが、落語で終わる映画なんて、ちょっと見たことがありません。
ミュージカル映画のような冒頭でしたから、これは最後もみんなで歌って踊って大円団になるものだとばかり思っていましたね。
しかしそれが、そうではなく名人古今亭志ん生の名調子の後で、エンドマークとなるわけですから、ちょっとビックリしてしまいました
映画では高峰秀子、笠置シズ子ばかりでなく、当時の人気歌手灰田勝彦も得意の喉を披露。
ストーリーよりも、徹底的にエンタメに舵を切った、歌謡曲と落語のハイブリット娯楽映画と言えるかもしれません。
同名主題歌「銀座カンカン娘」も大ヒット。
作曲は服部良一。
この人は笠置シズ子に数多くブギの名曲を提供した人です。
作詞は佐伯孝夫。
映画では出演者3人で歌っていますが、高峰秀子単独のシングルとしても発売され、当時のレコード売上は50万枚を記録。
この楽曲は後年、多くの歌手によってカバーされ、その名は日本中に広まりました。
「銀座カンカン娘」の「カンカン」とはなにか。
当時流行っていたカンカン帽から取っているとも言われていますが、映画の中で出演者は特にこの帽子をかぶってはいません。
Wiki によれば、これは脚本を担当した山本嘉次郎による造語とのこと。
当時、進駐軍を相手にしていた女性たちはパンパンと呼ばれていましたが、これに対する抗議がこめられているようです。
昭和24年といえば、僕の生まれる10年も前のことです。
クラシック映画オタクとしては、いにしえの庶民の文化にはどうしても目がいってしまいます。
東京近郊の丘の上から見下ろす二両編成の電車。
武助の勤め先のビルの屋上から見る終戦から四年経った東京の街並み。
そして商店街の八百屋の店先。
野菜の値段などは、思わず気になって、画面を止めて確認してしまいました。
新笑の家で気になってしまったのは、夫婦が揃って吸っているきざみ煙草ですね。
今時これを吸っている人はいないでしょうが、実は母方の祖父がこれの愛好家でした。
きざみ煙草に不可欠なのはキセルと火鉢です。
火鉢は、エアコンも電気ストーブもなかった頃の昭和中期までの家庭にはどこにもあったと思います。
中に灰を入れ、平らにならし、その中央に五徳を置きます。
暖房の元になるのは炭ですね。
これにコンロや七輪で火をつけます。
炭に火がしっかりついたら、火箸を使って火鉢に移動。
五徳の上には、やかんが乗ったり、餅焼き網が乗ったりしますが、その横にはきざみ煙草が入った箱が置いてありましたね。
祖父の吸っていた銘柄は「桔梗」でした。
これをキセルの先っぽに詰めて、マッチで火をつけて吸い込むというスタイル。
そして、灰になったら、火鉢の中にポイと捨てるのですが、子供心にはくわえ煙草よりもその風情が粋だと思ったものです。
映画の中では、四角い火鉢でしたが、実は祖父の住んでいた離れには、火鉢ではなくて、囲炉裏が掘ってありました。
天井や柱は、長年囲炉裏から上がる煙と煤で黒光りしていたのを覚えています。
囲炉裏は今では、よほど田舎の山奥にでも行かない限りお目にかかれないかもしれません。
懐かしい昭和の風情にホッコリしてしまいました。
そんなわけで、わずか69分たらずの映画なのですが、結構楽しませてもらいました。
そうそう、これだけは言っておかないといけないかもしれません。
高峰秀子も笠置シズ子も、もちろんよかったのですが、この映画の中で、名だたる俳優陣を差し置いて、もっとも名演を披露したのは、実は飼い犬のポチです。
その名演ぶりは、是非映画をご覧になってご確認ください。
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少々クラシック映画寄りの映画鑑賞になっていたので、比較的新し目のミステリーが観たくなりました。
そこで、Amazon プライムのラインナップから選んだのが本作です。
最近とは言っても、もう19年前の作品ですから、若い人から見れば、すでにクラシックかもしれません。
ちなみに、ここ30年くらいの現代モノ作品で、時代が古いか新しいかを見分ける方法があります。
それは携帯電話ですね。
登場人物が使う携帯電話のフォルムで、いつころの作品かはだいたいわかるようになりました。
本作では、まだガラケーが使用されていますので、「おお、あの頃か」と理解できるわけです。
通話が終わると、パタンとたためるのは、今から思えばなかなかオシャレでした。
本作の原作は「レイクサイド」。著者は東野圭吾。
ミステリー作家としては、今でも現役のトップランナーです。
物語のテーマは、中学受験戦争。
湖のほとりの別荘に集まった三組の親子。
いずれも、中学受験を目前に控えた子供を持つ親たちです。
家族その1。柄本明、黒田福美。
家族その2。鶴見辰吾、杉田かおる。
そして、主人公に役所広司。その妻に薬師丸ひろ子。
この二人は別居中で、娘の受験のために仲のいい夫婦を演じることになるという設定です。
そこに招かれた塾講師に豊田悦史。
反対に招かざる客が、主人公の愛人で、本作の被害者でもある女性カメラマンの眞野裕子。
この人だけ知らなかったのでWiki してみたら、元サッポロビールのキャンペンガールだそうです。
映画の中では、美しいヌードも披露してくれます。
物語は、ほぼこの別荘周辺で展開していくので、舞台劇の味わいがあります。
広義に捉えれば、クローズド・サークルであり、ある意味では密室劇と言えるかもしれません。
合宿中、会社の所用で別荘を離れていた主人公が戻ると、自分を訪ねてきた愛人が頭を鈍器で殴られて殺されています。
そして、全員が観ている前で、妻である薬師丸ひろ子が「私が殺した」と告白。
被害者が夫の愛人というわけですから、動機としては非常にわかりやすい。
当然主人公は愕然とします。
しかし、観ている方は、物語はまだ中盤ですから、主役の一人である薬師丸ひろ子のこの告白には必ず裏があると勘ぐります。
話の展開的には、少なくとも、彼女の他に真犯人はいるだろうと推測してしまいます。
ここで思い出しました。
彼女の過去の主演作品の中で、本作同様「私が殺しました」と、物語の途中で告白する作品がありましたね。
1984年の角川映画「Wの悲劇」です。
こちらでは、女優の卵を演じていた薬師丸ひろ子が、劇中劇のヒロインを演じ、母親役の三田佳子の罪を引き受けるという展開でした。
現実の方でも、この舞台劇とシンクロするような事件が描かれ、薬師丸ひろ子が女優開眼した映画として作品としても記憶に残っています。
本作では、それから20年を経て、今度は母親役を演じるようになった彼女が同じような展開に。
もし推察どおり、薬師丸ひろ子が仮に犯人ではないとすると、犯人はいったい誰か。
色々な仮定が頭を巡り出します。
(まあ、ここまではネタバレではないでしょう)
主人公の役所広司はハズれるとしても、残りの俳優陣は皆んなヒトクセあって、誰が犯人でもおかしくありません。
見渡して、まず真っ先に怪しいのは、塾講師の豊田悦史。
俳優としてのネームバリューから言っても、真犯人を演じるにはおかしくないキャスティングです。
面構えも犯人向き。
しかし、ミステリーとして、もっとも怪しい人物がそのまま犯人というのでは芸がありません。
いくらなんでも、彼ではないだろう。
映画オタクとしては、ストーリーとは全く関係のないところで、下衆な推理をしてしまうのは苦笑い。
三組の夫婦は、子供達のために殺人の隠蔽をすることを決意します。
それぞれ事情あれど、子供の将来を思う親心は一緒。
彼らは一致団結します。
この計画をリードしていくのが医師であり、この別荘のオーナーでもある柄本明。
この人の場合は、ちょっと年齢が気になったのでWikiしてみました。
1948年生まれとのことですから、撮影時で57歳。
中学お受験の息子がいるわけですから、単純計算で45歳の時の子供というわけです。
妻役の黒田福美は、1956年生まれですから、撮影時で49歳。
37歳の時の子供ということになりますが、今時はこれくらいの高齢出産はありかもしれません。
歳をとって授かった子供は可愛さもひとしおといいますから、この事件にもうまく絡まります。
もう一組の家族は、鶴見辰吾と杉田かおる。
思い出しました。
この二人は、過去にもドラマでカップルを演じていましたね。
15歳同士で、子供を作ってしまうという、当時としてはかなり衝撃的な設定でした。
そのドラマは、1979年の「3年B組金八先生」第1シリーズ。
覚えている人も多いかもしれません。
その二人が、25年後には、中学受験を控えた子供の両親を演じるというのもなかなか感慨深いものがあります。
共演といえば、主人公の役所広司と黒田福美の共演映画も思い出しました。
伊丹十三監督が1985年に製作した「たんぽぽ」という作品です。
ラーメン・ウエスタンと銘打った伊丹監督の嗜好を前面に押し出した食道楽映画です。
二人は、ストーリーとは全く関係なく登場するヤクザと情婦の役。
卵の黄身をキスをしながら口移しするシーンは、そこらのAVよりもよっぽど艶っぽかった印象です。
などなど色々な雑念がよぎってしまっうのはオールド映画ファンの悲しい性でしょうか。
映画の展開ですが、案の定、薬師丸ひろ子の殺人告白から、ストリーは二転三転。
最後にはオチもついて、楽しませてくれました。
ミステリー映画としては合格ではないでしょうか。
子供を溺愛するために次第に常軌を逸していく親たち。
その中で、主人公の役所広司だけが、正論を主張していくのですが、その彼もまた次第にその渦の中に飲み込まれていきます。
塾講師のトヨエツが、三組の親たちに向かってこう言い放ちます。
「子供は親の背中を見て育つんですよ!」
江戸時代の浮世絵、明治維新以後の光線画など、木版画の歴史をさかのぼってきました。
個人的な興味をそそられているのは、美人画、風俗画ではなく、なんといっても風景画です。
当然、その後の大正昭和期の木版画の盛衰も大いに気になるところ。
写真でもなく、絵画でもなく、どうして木版画の感触になんでこれほど惹かれるのか。
とにかく良いものは良いというしかなく、これは説明のしようがありません。
個人的に、うすうすと思っている事は、これが日本が世界に誇るアニメ文化の源流になっているのでないかという予想です。
そこで今回はこの本を図書館で見つけてきました。
大正昭和期の木版画は、特に新版画と呼ばれ、国際的にも認められている日本固有の文化ジャンルにもなっているそうです。
この分野は、明治生まれの一人の版元の登場から始まるんですね。
明治の末から大正期のはじめにかけて、ひとりの版元が、近代以降衰退した浮世絵版画の再興を夢見ていました。その名を渡邊庄三郎といいます。
同時代の絵師・彫師・摺師と組み、木版本来の美質に立ち返った新作を構想し、試行錯誤の果てに、新しく画期的な造形の開拓に成功しました。
以来、伊東深水や川瀬巴水らと組んで数多くの作品を世に送り、それらは国内外で高く評価され、愛好されて行くようになります。
ちなみに、伊東深水の娘にあたるのが朝丘雪路です。
大正期の末以降は他の版元も参入し、「新版画」と呼ばれる新しい木版画のジャンルが確立されていきます。
筆風は画家それぞれですが、いずれもみずみずしく、光や湿度の限りないニュアンスとともに当時の景色を伝えてくれます。
個人的には、明治時代の光線画よりも、描写が繊細かつ表現力が豊かになった印象です。
江戸時代の、浮世絵は、富士山や遊女、役者など、多様な日本の象徴を描いています。
北斎や広重などの絵師だけでなく、彫師や摺師、版元も含めた分業システムによって、これらの作品が生み出されました。
「新版画」は、この伝統的な浮世絵版画を現代に再現したものといえます。
渡邊庄三郎は、新しい下絵を木版化することで、浮世絵のタッチを取り戻そうとしました。
その中でも、特に風景画は新版画で最も多く制作されたジャンルです。
そんな中で、伊藤や川瀬の他にもたくさんの画家が登場しました。
高橋松亭、フリッツ・カペラリ、チャールズ・バートレット、吉田博、笠松紫浪、橋口五葉などが新版画の発展に大きく貢献しています。
新版画は、近代的な視覚が確立された時代に始まっています。
近代的な視覚情報とはつまりカメラのことです。
写真の台頭により、浮世絵には、情報源としての役割は失われていきました。
大衆が木版画に求めたのは、純粋な「絵」としての鑑賞に耐えられる芸術性でした。
新版画は、西洋の新しい芸術の影響も受け、多様な表現が駆使出来るようになります。
新版画では、微妙な時間や季節、天候を表現し、見る人に既視感やノスタルジーを感じさせる作品を生み出されていきます。
しかし、この時期の東京は、近代化に伴う都市化が急ピッチで進んだり、大震災などもあり、風景の変化が著しく、郷愁を誘う風景が激減していき、新版画の対象を狭めていきました。
大正時代になると、画家が彫刻や摺刷に関与することで、次第に従来の浮世絵とは異なる作品が登場するようになります。
これらの作品は、特にアメリカでその人気を確立していきました。
浮世絵版画が国外で高く評価されたように、新版画もまた主に海外市場を対象としていました。
渡邊庄三郎氏が新版画を始める前には、新作を軽井沢で外国人観光客に試しに販売し、その反響を肌で感じています。
現在、アメリカやヨーロッパの美術館には多くの新版画が収蔵されており、展示も頻繁に行われています。
日本国内の作品も次第に国外へと流出している状況です。
昭和16年、新版画は太平洋戦争の開戦により大打撃を受けました。
渡邊版画店も例外ではなく、制作は滞りました。
しかし、終戦後、版画は再び注目を集めます。
進駐軍関係者が競って新版画を購入したためです。
これ以上の日本の土産ものはないということだったのでしょう。
特に川瀬巴水と吉田博の作品が人気でした。
しかし、ほどなく職人の高齢化と後継者不足により、新版画の時代は終わりを告げました。
風景版画は、急速に変化する風景に追いつけず、昔ながらの風景は、瞬く間に東京から姿を消しました。
昭和32年に巴水が亡くなり、その5年後に渡邊も亡くなり、個人的には残念と言うほかはありませんが、新版画は実質的に終焉を迎えてしまいます。
しかし、新版画に新たな関心も寄せられているようです。
巴水や博の作品は、古き良き日本を懐かしむ世代だけでなく、若い世代からも注目されて来るようになりました。
実は僕が個人的に木版画に興味を抱いたのは、川瀬巴水の作品と出会ってからです。
新版画の風景は、現代のアニメーションをどうしても連想させます。
これが、僕のようなコテコテの漫画世代を惹きつける大きな理由だろうと推察しています。
僕は、漫画家のわたせせいぞうの大ファンで、彼の作品はほぼ所有していますが、全編オールカラーの彼の作品の心地よさを、この新版画にも感じています。
スタジオジブリの作品にはあまり詳しくありませんが、宮崎アニメの風景の原点もここにあるような気がしています。
渡邊庄三郎が創始した和紙と水性顔料の芸術は、西洋絵画や写真とは一線を画す日本固有の文化として、もっと認められて欲しいとは思いますね。
たくさんの新版画の作品群の中で、なんといっても、個人的なお気に入りは、東京の街のさりげない風景を描いた作品です。
田舎の風景ももちろん良いですが、まだ田舎にはこの時代と同じ風景が残っている可能性があります。
しかし、お江戸東京の場合は、大正から昭和初期の景色がそのまま残っているところはほぼ皆無です。
江戸時代や明治時代となればなおさらでしょう。
そして、僕自身がダウンタウン東京都大田区大森出身ですので、かすかに新版画に描かれた時代の名残が残っている東京の景色を体感していることも大きいかもしれません。
東(吾妻)錦絵という呼称が物語るように、錦絵は江戸生まれ、江戸育ちの美しい浮世絵版画です。
魅力的な新興都市・江戸の息吹を伝える土産としても珍重されたため、画題にも江戸がよく選ばれました。
明治時代に入ると、開化期の東京を光と闇の交錯するなかに描いた小林清親が登場します。
そしてその弟子にあたる井上安治の作品は、本ブログ別項で紹介した通り。
新版画でも東京は人気のモチーフであり、人が憧れ、集まり、暮らし、娯楽を享受し、産業の先端が集中する東京は多種多様な風物で溢れ、素材は尽きることがありませんでした。
新版画では、名所絵の定型を脱した近代的な視点で、見直され、多くの作品に結実しています。
「東京」を冠したシリーズは、新版画には実に多いのです。
浅草観音堂大提灯 笠松紫浪
亀井戸 東京拾ニ選 吉田博
雨の新橋 笠松紫浪
とはいえ明治以降の東京は、めまぐるしく転変する存在でもあります。
近代化により街はかつてない早さで姿を変え、今日確かにあっても、明日も存在するとは限りません。
そのため、移りゆくことを前提に江戸の面影を探し、江戸と変わらぬ東京の風景が描かれることになりました。
さて、暦は3月になっているのですが、昨夜は夜半から雪が降って外は雪景色になっています。
そこで、最後は、新版画の中のお気に入りの雪景色を紹介しておくことにします。
いいんですよ。これが。
歌川広重の「東海道五拾三次蒲原 夜之雪」を例に挙げるまでもなく、雪景色は浮世絵が得意としてきた画題です。
もちろんその伝統は新版画にも確実に引き継がれています。
その風情が愛されたことはもちろんですが、和紙の地色と質感が雪にふさわしく、そのまま生かせることも雪景色を多く描かせた理由でしょう。
特に積もった雪のこんもりとした、ふっくらとした感じは、浮世絵にしか出来ない表現です。
新版画でもこの技術は継承されており、たとえば伊東深水の「近江八景の内 堅田浮御堂」のような雪粒を不規則な四角で表す作品や、ざらざらと雪の舞う様子を表すものなどがあり、やはり表現の技法は増しています。
いずれも画家が描いたその場所は、おそらく身にしみる寒さだったはずですが、木と紙の温もりゆえか、それを感じさせません。
昨夜の雪のスナップ写真が、たくさんSNSに寄せられていますが、やはりそこに写っているのは都会の雪と言う「事件」であって、「風情」ではなさそうです。
堅田浮御堂 近江八景 伊東深水
雪の増上寺 東京二十景 川瀬巴水
中里之の雪 東京拾二題 吉田博
尾州半田新川端 東海道風景選集 川瀬巴水
京都三條大橋 橋口五葉
1963年に公開されたフランス映画です。
本作の目玉は、なんといってもアラン・ドロンとジャン・ギャバンというフランス映画界の2大スターが共演した作品であること。
二人の共演作は、全部で3本ありますが、本作が初共演です。
以後、1969年「シシリアン」、1972年「暗黒街の二人」と続きます。
いずれもフィルム・ノワール作品です。
監督は、「過去を持つ愛情」「ヘッドライト」などの、アンリ・ヴェルヌイユ。
この映画は、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞するなど、国内外で高い評価を受けました。
特にフランスでは、興行収入において、この年の大ヒット作「アラビアのロレンス」を抜いたといいますから、とんでもない大ヒット作です。
ケーパー・ムービーと呼ばれるジャンルの作品で、緻密な計画と緊迫感ある展開、そして、鮮烈な印象を残すラストが魅力な作品ですね。
犯罪映画ではありますが、殺人や、それに準じる暴力的なシーンが、ほとんどありません。
その意味では、かなりスマートな犯罪映画と言えるかもしれません。
特筆すべきは、ミッシェル・マーニュによる音楽です。
キャッチーなテーマ曲が、場面ごとにあったアレンジで展開され、映画を見終わったときには、誰の耳にも残っているはず。
基本的には、ジャズ・ナンバーで、フィルム・ノワールの空気感を良く出しています。
フィルム・ノワールでジャズというと、すぐに浮かぶのは、ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」。
ラッシュ・フィルムを見ながらの即興演奏が有名で、トランペットを吹いたのはマイルス・デイビスでした。
フランスのフィルム・ノワールに、モダンジャズがよく似合います。
ジャン・ギャバンは、年輪を重ねることで、その重厚な演技にますます磨きをかけ、魅力を増していった俳優です。
反対にアラン・ドロンの魅力は、なんといっても、クールな美貌と若さでしょう。
この新旧を代表するフランス男優が、その魅力がもっとも輝いたタイミングで共演したのが本作と言えます。
この名作は、フランス映画史においても重要な位置を占めており、ある意味では、フランス映画の伝統が、バトン・タッチされている映画といってもいいかもしれません。
映画のあらすじは以下の通り。
強盗の罪で5年間服役していた老ギャングのシャルル(ジャン・ギャバン)は、刑期を終えて出所。
シャルルの妻ジャネット(ヴィヴィアーヌ・ロマンス)は夫にはギャング稼業から足を洗って堅気になってほしいと願っていましたが、そんなこともお構いなしのシャルルは昔の仲間マリオ(アンリ・ヴァルロジュー)の元を訪ね、人生最後の大仕事としてカンヌのパルム・ビーチにあるカジノの地下金庫から10億フランという大金をごっそり奪い取ろうという作戦を立てます。
人手の欲しいシャルルは、かつて刑務所で目をつけていた若いチンピラのフランシス・ヴェルロット(アラン・ドロン)とその義兄ロイス・ノーダン(モーリス・ビロー)を仲間に引き入れます。
シャルルはまず下調べのためカジノに行き、極秘裏に地下の金庫へ運び込まれる大金の異動ルートを探り当てました
シャルルのアドバイスでフランシスは金持ちの御曹司に成りすまし、運転手役のロイスと共にカジノのあるホテルに向かい、カジノのダンサーであるブリジット(カルラ・マルリエ)を口説いて親しくなり、一般客が立ち入ることのできないカジノの舞台裏へ出入りする口実を掴みます。
カジノのオーナーが売上金を運び出すタイミングを確認し、犯行日時を決定。
作戦決行当日、フランシスはブリジットのステージを観たのちカジノの舞台裏に侵入。
空気ダクトを伝ってエレベーターの屋根に身を潜め、オーナーと会計係が売上金の勘定をしているところを襲撃。
覆面を被り、マシンガンを手にしたフランシスはオーナーらの前に姿を現し、会計係に鍵を開けさせてシャルルを引き入れ、まんまと大金10億フランを奪ってバッグに詰め込み、ロイスの運転するロールスロイスで逃走することに成功。
金はあらかじめ用意していた脱衣場に隠し、シャルルとフランシスはそれぞれ別のホテルに泊まって警察の目をやり過ごしてから、回収する計画でした。
作戦は大成功かと思われました。
しかし、作戦は思わぬ方向へ進んでいきます。
フランシスの写真が新聞に掲載されてしまい、彼の素性が知れ渡ってしまいます。
警察は彼を追跡し始めます。
一刻の猶予も亡くなった二人は、強奪した10億フランを山分けしようとしますが・・・
ビジュアル的な効果を最大限活かそうとしたラストは、必見です。
少々無理がある点は否めませんが、実に映画的なオチではありました。
1956年のスタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」のラストは、かなり意識したと思われます。
ちなみに、同じジャン・ギャバン主演のフィルム・ノワールで「現金に手を出すな」という作品もありますね。
これどちらも「現金」と書いて、「ゲンナマ」と呼ばせるので、参考までに。
アラン・ドロンは、映画界に入る前の十代の頃に、フランス海軍に志願して、第一次インドシナ戦争に従軍しています。
映画評論家の町山智弘氏の指摘によれば、この経験のおかげで、彼にはリアルな拳銃扱いが身についてしまっているということ。
本作にも、ジャン・ギャバンに、ライフルの扱いの手ほどきを受けるシーンがあるのですが、銃を扱うのが初めてという設定にもかかわらず、その扱いが手慣れていて、おもわず苦笑するというシーンがあります。
彼は、金持ちのボンボンという設定で、映画の中で、その所作をいろいろとジャン・ギャバンから手ほどきを受けるのですが、この人の場合、どこからどう見ても、「育ちがいい」青年には見えないというのも苦笑。
特に、煙草の所作がいちいち不良っぽくて、思わず見惚れてしまいました。
僕は煙草は吸いませんが、あれはちょっと真似してみたいかも。
日本でも彼の人気は高く、僕の子どもの頃は、「二枚目」の代名詞になっていました。
「ダーバン」のコマーシャルも一世を風靡し、ダリダとのデュエット「あまい囁き」も大ヒットを記録しています。
彼はまだ存命で今年89歳。
Wiki によれば、本年2月に自宅で、所持許可のない拳銃72丁と、3000発以上の弾薬や射撃場が押収されたとのこと。
映画俳優としては60年代から、70年代にかけて輝きを放った人ですが、残念ながらジャン・ギャバンのように、老いても尚魅力を放つという人生は送れなかったようです。
井上安治による明治初期の東京の風景木版画が、なかなか良かったので、時代をもう少し遡ってみようという気になり、今回は江戸の風景を描いた一立斎広重の浮世絵を集めた画集を図書館から借りて参りました。
この人は、江戸時代を代表する浮世絵師の1人ですが、僕が学生時代には、安藤広重と教わりました。
しかし、彼は62年の生涯で安藤広重と自ら名乗った事は1度もありません。
一立斎広重というのは、この連作浮世絵を制作した時期の、彼の最晩年の名前です。
現在は歌川広重と言うのが一般的な呼び方になっているようです。
では、まずこの人の生涯をざっくりと追ってみます。
歌川広重が生まれたのは、幕末も近い寛政9年。1797年です。
彼は、本名を安藤重右衛門といい、幼いころから絵心がありましたが、火消しの家に生まれたため、絵師になるのは容易ではありませんでした。
彼は、歌川豊広に入門して歌川広重と名乗り、役者絵や美人画なども描きましたが、師の死後は風景画に専念しました。
彼は最初はなかなか認められませんでしたが、東海道や江戸の名所を描いた「東海道五十三次」が当時の旅行ブームに乗って大ブレイク。
葛飾北斎と並ぶ、風景浮世絵の第一人者として、一遊斎、一幽斎、一立斎などの号を変えながら、生涯にわたって絵を描き続けました。
「名所江戸百景」が制作されたのは、1856年のこと。
彼の作品は、日本だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも高く評価され、ゴッホやモネ、ドガ、ルノワールといった西洋画家にも大きな影響を与えました。
死没は安政5年(1858年)。
享年62歳でした。
葛飾北斎の大胆な構図による風景画は、その奇抜さゆえに、大衆に飽きられるのも早かったようです。
それとは対照的に、広重は、正確な破綻のない透視図法や、新しい画派である円山四条派の写生画風を積極的にとりいれ、浮世絵を離れた新しい画風を確立していきます。
新鮮味を失わず、それでいて刺激の少ない温厚な広重の画趣は、江戸庶民の心をつかみ、この分野の浮世絵師としての名声を、不動のものにしていきました。
特筆すべきは、この時代の浮世絵師が完全に人気商売だったことです。
浮世絵が木版画と言うスタイルを取った理由は、大量複製して、広く江戸庶民たちに販売するためです。
これが、西洋絵画とは決定的に違うこと。
1人の画家が、最初から最後まで筆を握る一点集中主義の西洋絵画とは違い、浮世絵の場合は、絵師、彫師、刷師が分業制で、庶民にも手の届く安価な複製を大量に刷って販売するわけです。
従って、庶民に人気のない絵師はどんどんと消えて行き、人気の絵師だけが生き残ってゆく実力の世界です。
つまりは、芸能界のようなもの。
そんな浮き沈みの激しい世界で、広重は最晩年まで、コンスタンスに売れ続けていたわけですから、彼の感性で切り取った多くの風景画は、江戸庶民の心情の琴線に訴え続けたということでしょう。
とにかく、買い手にウケてナンボの世界ですから、芸術的と言うよりは、多分に商業的な背景を内包して進化していった文化だったという気がします。
世界でも類を見ない庶民目線の芸術が江戸で花開いた事は、現在の日本のアニメのクオリティーが世界最高水準であることと無関係ではないと思います。
いろいろな連作風景浮世絵シリーズを世に送り出してきた広重ですが、彼が最も愛した風景は、江戸だったようです。
この「名所江戸百景」は、彼の最晩年の作品ですが、まさに円熟の極地。
そこに描かれる、自然と人工物のバランスの良さ、そこに絶妙に配置された人物たちの表情の豊かさは、見れば見るほど惹きつけられてしまいます。
カメラなどはなかった時代です。
広重の目に焼き付いた風景は、彼の感性を通し、新たな命を吹き込まれて、当時の空気を今に伝えてくれています。
気に入ったやつを5枚ほどご紹介。
既にパブリックドメインなので、問題はないでしょう。
南品川鮫洲海岸
鮫洲は京浜急行線の駅ですが、僕は子供の頃、その近くの平和島に住んでいました。
深川洲崎十万坪
鳥の視線からの構図が斬新。ヒッチコックの「鳥」を思い出します。
月の岬
左端の障子の向こうにいる遊女のシルエットのなんと色っぽいことよ。
大はしあたけの夕立
西洋絵画では絶対に表現できない浮世絵ならではの雨の描写。
黒澤明は映画「羅生門」で、土砂降りの雨を表現するために、墨汁を混ぜた水を散水機で降らしたと言いますが、案外、この絵がヒントになっていたかも。
山下町日比谷外さくら田
手前の人物は描かずに、持っている羽子板だけを描く構図のなんと斬新なことよ。
この人が現代に生きていたら、旅行系のyoutuberになっていたかもしれません。
宮﨑駿になっていたかどうかは、ウタガワしいですが。
図書館で見つけた本です。
挿絵に一目惚れしてしまいました。
これを描いているのが、井上安治という明治時代初期の版画家です。
リサーチした結果は以下の通り。
彼は師である小林清親の画風を引き継ぎ、新しい浮世絵のスタイルである「光線画」を生み出した。
1864年に江戸(現在の東京)の浅草生まれ。
父は錦織問屋で、彼は幼少期から絵に親しんでいる。
安治のスタイルは、木版画の技法を用いて、明治初期の東京の風景をスケッチしていくというもの。
夜の街に輝くガス灯の光や影のうつろいを、版画と言う制約の中で繊細に描写している。
まだカメラが一般的ではなかった時代に、明治初期の庶民の生活と東京の風景を記録的に描いている。
特に「東京名所絵」は、はがきサイズの版画で、明治の東京の姿を伝える格好のお土産品として人気だった。
彼は26歳でこの世を去ったが、国内よりも海外に多くのファンを持っているのが、特筆すべき点。
まぁざっとこんな感じ。
活動期間は数年しかありませんでしたから、夭折の天才画家と言うところでしょう。
西洋の絵画は、概ね写実主義で、陰影や遠近法を用いて、対象物をリアルに描いているのに対して、日本の浮世絵や木版画は、写実的ではない代わりに、徹底的にデフォルメされたデザインや構図を大胆に取り入れたインパクトがある作品が多い印象です。
いわゆるジャポニズムと言うやつですね。
室町時代の水墨画にも通じる話ですが、西洋絵画が可能な限りいろんなものをキャンバスに隙間なく描き込む足し算の画風なのに対し、日本の場合は、圧倒的に隙間や余白も残した引き算の画風になっていると考察しています。
この歴史的な文化の足跡は、20世紀の日本で大きく花開くアニメ文化に、多大な影響を与えているのは、間違いないでしょう。
西洋絵画の最終的完成形には、基本デッサンのスケッチ・ラインはほぼ残りません。
油絵の具やテンペラが層になって塗りたくられている印象です。
しかし、木版画には、きちんと線が残ります。
これが状態の絵が、絵画ではなく、イラストというのだと、個人的には勝手に解釈していますが、子供時代に漫画オタクだった身としては、このスタイルが断然馴染みます。
我が家には、わたせせいぞうや鈴木英人といったお気に入りのイラスレーターの作品が今現在、所狭しと部屋の壁に貼ってありますが、写真よりもこちらの方が断然気にいっています。
西洋の画家で、唯一我が家のギャラリーに貼ってあるのは、ロートレックが描いたMoulin Rougeのポスターだけです。もちろんLINEはしっかり残っている絵です。
映画のポスターもあちこちに貼ってありますが、クラシックのポスターの方が好きですね。
なぜかと言えば、往年のクラシック映画のポスターは、写真ではなく、専門画家の肉筆による力作が多いからです。
昔のポスターは、タイトルやクレジットの文字まで手書きです。
今回、井上安治の木版画風景画に、不覚にもコロリと参ってしまった背景には、おそらくそんな自身の個人的嗜好が、大きく影響しているだろうと推察する次第。
ちなみに、浮世絵も実は木版画です。
絵師の他に、彫師、刷師という専門職人がいて、順次彼らの手を経て、1枚の浮世絵が完成するわけです。
これは、明治以降の光線画も同様で、この浮世絵木版画の伝統的な手法に、新たな「摺り違い」「ニス引き」といった技法を開発して、繊細なグラデーションの表現も可能にした新生木版画が育ってきたわけです。
井上安治は、絵はがきサイズの四つ切り版をキャンパスにしていました。
彼が作画対象に選んだ明治初期の東京の様子は、実に、このサイズにジャストフィットしている印象です。
そこで、彼が描いた150年前の東京と、現在の東京を比べてみることにしました。
現在の東京の絵は、ネットから拾った写真を、レタッチアプリで、絵画風にアレンジしています。
まずは日本橋です。
構図的には、江戸橋よりから日本橋を見ています。
右岸には魚河岸。
左岸には、赤レンガ造りの三菱会社の七ツ倉。
洋風建築として人目を引いた日本橋、電信支局の建物が描かれています。
戦後は首都高速に覆われたり、水質汚濁が進んだりして、環境面で多くの問題を抱えてきました。
ゴミは排水が川に流れ込み濁水と悪臭に周囲の住民は悩まされました。
しかし現在は、河川環境の改善が進み、日本橋側の水質は徐々に改善されており、魚や水鳥たちも見られるようになっています。
橋面には、「日本国道路元標」というプレートが埋め込まれています。
これは御茶ノ水になります。
神田川に神田上水の水路が架かっている絵です。
水道橋方面から描いているとすれば、左側は湯島台。右側は駿河台と言うことになります。
この地にあったお寺の境内に湧く名水を、時の将軍に献上したのが、この地名の由来とのこと。
現在は、中央線と地下鉄丸ノ内線が交差する駅として、景観も一変し、湯島聖堂も建てられ、東京医科歯科大学や明治大学キャンパスが近くにあることから、学生の街へと変貌しています。
上野駅です。
明治16年に上野熊谷間、翌17年に上野高崎間が開通しています。
赤レンガの駅舎がこれに伴い建築され、落成されたのが明治18年7月。
上野駅を語るときに、その代名詞のように出てくる有名な短歌あります。
ふるさとのなまりなつかし停車場の人ごみの中に、そをききに行く
歌を詠んだのは石川啄木。
停車場と言うのはもちろん上野駅のことです。
以来、上野駅は東北への玄関口として、たくさんの人を迎え、また送り出してきました。
そこには他の終着駅にはない特有の匂いと哀感が漂います。
浅草仲見世です。
浅草広小路の雷門から仁王門までの、およそ250mの参道が仲見世です。
右側には五重塔の相輪が頭を出しています。
当時の東京市は、ここにレンガ作りの店舗を建設し、1棟を数個に分割して貸し付けています。
安治の絵は、その直後に描かれたものでしょう。
関東大震災や戦争中の空襲でレンガ造り店舗はスクラップ&ビルドを繰り返しましたが、現在はこれを補修して使用しています。
日夜人通りが多く賑やかで、特に縁日などの人手の盛りには、向こう側の店が、お互いに見えないほどの混雑ぶりなのは周知の通り。
外国人観光客には最も人気あるスポットになっています。
昔からクラシック映画を見るのが好きなんですね。
その大きな理由の1つが、当時の風景や風俗を歴史的見地から楽しめると言うことにあります。
「ゴジラ-1.0」で、今や時の人となった感のある山崎貴監督の作品で「三丁目の夕日」がありますが、その目玉はなんといっても、監督得意のVFXで、昭和30年代の東京の風俗を、現代に再現する特撮部分です。
もちろん、これはこれで見るべき価値のある映像なのですが、これは、紛れもなく現代の映画になってしまっていて、クラシック映画ではありません。
どんなに上手に再現しても、やはりノスタルジーの部分に作り物の印象が入ってしまうのは否めません。
当時の風景を、当時の技術で切り取ってこそ、歴史的価値があると言うもの。
その見地から言えば、井上安治が当時の最先端技術であった光線画という手法で切り取った、東京のスケッチは、僕のようなクラシック文化ファンを、おおいにワクワクさせてくれます。
安藤広重や歌丸などの浮世絵師たちによる、現実離れした構図や、シンプルで大胆な色彩やラインは、ゴッホやモネなどの西洋画家たちにも多大な影響を与えているのは有名な話です。
おそらく、このあたりの文化的伝統が、日本のアニメ文化に大きな影響を与えて、世界中から賞賛されている大きな理由になっている事は想像に難くありません。
実は白状しておきますと、昔から浮世絵の美人画や草花などの静物画にはあまり魅力を感じていませんでした。
おいおい、いくらなんでもやり過ぎだろうというのが率直な感想でした。
ところがこの木版画の技術をベースにした光線画には、一気に惹かれて驚いています。
しかもそれが、風景画に限ってのことなんですね。
とにかく、眺めているとまったりとしてしまいます。
そろそろ、部屋に貼り散らかしてある絵を全取っ替えしてみたくなりました。
図書館で見つけた本です。
挿絵に一目惚れしてしまいました。
これを描いているのが、井上安治という明治時代初期の版画家です。
リサーチした結果は以下の通り。
彼は師である小林清親の画風を引き継ぎ、新しい浮世絵のスタイルである「光線画」を生み出した。
1864年に江戸(現在の東京)の浅草生まれ。
父は錦織問屋で、彼は幼少期から絵に親しんでいる。
安治のスタイルは、木版画の技法を用いて、明治初期の東京の風景をスケッチしていくというもの。
夜の街に輝くガス灯の光や影のうつろいを、版画と言う制約の中で繊細に描写している。
まだカメラが一般的ではなかった時代に、明治初期の庶民の生活と東京の風景を記録的に描いている。
特に「東京名所絵」は、はがきサイズの版画で、明治の東京の姿を伝える格好のお土産品として人気だった。
彼は26歳でこの世を去ったが、国内よりも海外に多くのファンを持っているのが、特筆すべき点。
まぁざっとこんな感じ。
活動期間は数年しかありませんでしたから、夭折の天才画家と言うところでしょう。
西洋の絵画は、概ね写実主義で、陰影や遠近法を用いて、対象物をリアルに描いているのに対して、日本の浮世絵や木版画は、写実的ではない代わりに、徹底的にデフォルメされたデザインや構図を大胆に取り入れたインパクトがある作品が多い印象です。
いわゆるジャポニズムと言うやつですね。
室町時代の水墨画にも通じる話ですが、西洋絵画が可能な限りいろんなものをキャンバスに隙間なく描き込む足し算の画風なのに対し、日本の場合は、圧倒的に隙間や余白も残した引き算の画風になっていると考察しています。
この歴史的な文化の足跡は、20世紀の日本で大きく花開くアニメ文化に、多大な影響を与えているのは、間違いないでしょう。
西洋絵画の最終的完成形には、基本デッサンのスケッチ・ラインはほぼ残りません。
油絵の具やテンペラが層になって塗りたくられている印象です。
しかし、木版画には、きちんと線が残ります。
これが状態の絵が、絵画ではなく、イラストというのだと、個人的には勝手に解釈していますが、子供時代に漫画オタクだった身としては、このスタイルが断然馴染みます。
我が家には、わたせせいぞうや鈴木英人といったお気に入りのイラスレーターの作品が今現在、所狭しと部屋の壁に貼ってありますが、写真よりもこちらの方が断然気にいっています。
西洋の画家で、唯一我が家のギャラリーに貼ってあるのは、ロートレックが描いたMoulin Rougeのポスターだけです。もちろんLINEはしっかり残っている絵です。
映画のポスターもあちこちに貼ってありますが、写真を使ったポスターよりも、クラシックのポストの方が好きですね。
なぜかと言えば、往年のクラシック映画のポスターは、写真ではなく、専門画家の肉筆による力作が多いからです。昔のポスターは、タイトルやクレジットの文字まで手書きです。
今回、井上安治の木版画風景画に、不覚にもコロリと参ってしまった背景には、おそらくそんな自身の個人的嗜好が、大きく影響しているだろうと推察する次第。
ちなみに、浮世絵も実は木版画です。
絵師の他に、彫師、刷師という専門職人がいて、順次彼らの手を経て、1枚の浮世絵が完成するわけです。
これは、明治以降の光線画も同様で、この浮世絵木版画の伝統的な手法に、新たな「摺り違い」「ニス引き」といった技法を開発して、繊細なグラデーションの表現も可能にした新生木版画が育ってきたわけです。
井上安治は、絵はがきサイズの四つ切り版をキャンパスにしていました。
彼が作画対象に選んだ明治初期の東京の様子は、実に、このサイズにジャストフィットしている印象です。
そこで、彼が描いた150年前の東京と、現在の東京を比べてみることにしました。
現在の東京の絵は、ネットから拾った写真を、レタッチアプリで、絵画風にアレンジしています。
まずは日本橋です。
構図的には、江戸橋よりから日本橋を見ています。
右岸には魚河岸。
左岸には、赤レンガ造りの三菱会社の七ツ倉。
洋風建築として人目を引いた日本橋、電信支局の建物が描かれています。
戦後は首都高速に覆われたり、水質汚濁が進んだりして、環境面で多くの問題を抱えてきました。
ゴミは排水が川に流れ込み濁水と悪臭に周囲の住民は悩まされました。
しかし現在は、河川環境の改善が進み、日本橋側の水質は徐々に改善されており、魚や水鳥たちも見られるようになっています。
橋面には、「日本国道路元標」というプレートが埋め込まれています。
これは御茶ノ水になります。
神田川に神田上水の水路が架かっている絵です。
水道橋方面から描いているとすれば、左側は湯島台。右側は駿河台と言うことになります。
この地にあったお寺の境内に湧く名水を、時の将軍に献上したのが、この地名の由来とのこと。
現在は、中央線と地下鉄丸ノ内線が交差する駅として、景観も一変し、湯島聖堂も建てられ、東京医科歯科大学や明治大学キャンパスが近くにあることから、学生の街へと変貌しています。
上野駅です。
明治16年に上野熊谷間、翌17年に上野高崎間が開通しています。
赤レンガの駅舎がこれに伴い建築され、落成されたのが明治18年7月。
上野駅を語るときに、その代名詞のように出てくる有名な短歌あります。
ふるさとのなまりなつかし停車場の人ごみの中に、そをききに行く
歌を詠んだのは石川啄木。
停車場と言うのはもちろん上野駅のことです。
以来、上野駅は東北への玄関口として、たくさんの人を迎え、また送り出してきました。
そこには他の終着駅にはない特有の匂いと哀感が漂います。
浅草仲見世です。
浅草広小路の雷門から仁王門までの、およそ250mの参道が仲見世です。
右側には五重塔の相輪が頭を出しています。
当時の東京市は、ここにレンガ作りの店舗を建設し、1棟を数個に分割して貸し付けています。
安治の絵は、その直後に描かれたものでしょう。
関東大震災や戦争中の空襲でレンガ造り店舗はスクラップ&ビルドを繰り返しましたが、現在はこれを補修して使用しています。
日夜人通りが多く賑やかで、特に縁日などの人手の盛りには、向こう側の店が、お互いに見えないほどの混雑ぶりなのは周知の通り。
外国人観光客には最も人気あるスポットになっています。
昔からクラシック映画を見るのが好きなんですね。
その大きな理由の1つが、当時の風景や風俗を歴史的見地から楽しめると言うことにあります。
「ゴジラ-1.0」で、今や時の人となった感のある山崎貴監督の作品で「三丁目の夕日」がありますが、その目玉はなんといっても、監督得意のVFXで、昭和30年代の東京の風俗を、現代に再現する特撮部分です。
もちろん、これはこれで見るべき価値のある映像なのですが、これは、紛れもなく現代の映画になってしまっていて、クラシック映画ではありません。
どんなに上手に再現しても、やはりノスタルジーの部分に作り物の印象が入ってしまうのは否めません。
当時の風景を、当時の技術で切り取ってこそ、歴史的価値があると言うもの。
その見地から言えば、井上安治が当時の最先端技術であった光線画という手法で切り取った、東京のスケッチは、僕のようなクラシック文化ファンを、おおいにワクワクさせてくれます。
安藤広重や歌丸などの浮世絵師たちによる、現実離れした構図や、シンプルで大胆な色彩やラインは、ゴッホやモネなどの西洋画家たちにも多大な影響を与えているのは有名な話です。
おそらく、このあたりの文化的伝統が、日本のアニメ文化に大きな影響を与えて、世界中から賞賛されている大きな理由になっている事は想像に難くありません。
実は白状しておきますと、昔から浮世絵の美人画や草花などの静物画にはあまり魅力を感じていませんでした。
おいおい、いくらなんでもやり過ぎだろうというのが率直な感想でした。
ところがこの木版画の技術をベースにした光線画には、一気に惹かれて驚いています。
しかもそれが、風景画に限ってのことなんですね。
とにかく、眺めているとまったりとしてしまいます。
そろそろ、部屋に入り散らかしてある絵を全取っ替えしてみたくなりました。