「いつ戻れるのか」「戻れないかも」。
そんな不安の中での避難所生活が始まって3日目。
この避難所に集まった人たちの、大半は原発事故から逃れて来た○○村の人たち。
こういう非常時の中でも、人々は、残りわずかな、それぞれの食料や、生活品を分け合っている。
極度の疲労とストレス。
老人の避難者の中には、毛布にくるまったまま、起き上がれない人も多い。
そんな老人たちに、声をかけ、すすんで世話をする主婦たち。
比較的気丈な老人たちの中には、親にかまってもらえない子供たちの相手を引き受けている人もいる。
こういう場所で、隣になったのも何かの縁。
プライバシーは守れなくても、人々は互いに、心を通わせることで、暗くなりがちな避難所生活と闘っていた。
そんな避難所の片隅で、ミネラルウォーターのペットボトルを片手に横になっているのが老人がひとり。
じっと目をつぶっている彼にひとりの主婦が声をかける。
「おじいちゃん。大丈夫。」
静かに目を開ける老人。
「寒かったら、毛布あるわよ。」
老人は、主婦の顔をじっと見ている。
「え。どうしたの。おじいちゃん。そんなにじっとみて」
「田中です。」
「え?」
「田中ですよ。おたくの部屋の向かいに住んでいる田中です。榎本さん。」
「・・・」
老人に、榎本といわれた主婦は、そういわれても老人の顔を思い出せない。
自分は、確かに「榎本」。
しかし、403号室の向かい、410号室にある表札が「田中」であることはすぐに思い出せた。
「え?田中さん。向かいの?」
ゆっくりとうなづく老人。
自分の部屋の向かいの田中さんは、元小学校の校長先生で、しばらく前に奥さんに先立たれて、今は一人暮らしをしているというのは、仲のいい主婦友達から聞いて知っていた。
しかし、彼女は、自分の部屋の向かいに住む田中老人の顔を知らなかった。。
いや、この同じマンションのどこかでは、一緒になったこともあるのかもしれないが、それが向かいの田中老人とはわからずにいた。
「ごめんなさい。全然知りませんでした。」
田中老人は、この避難所に来てから、はじめて微笑みながら、主婦にこういった。
「はい、はじめまして。」
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