2022年11月13日 日曜日
コロナ禍で2年見送られていた川越の伝統行事が3年ぶりに復活。
2022年11月13日 日曜日
コロナ禍で2年見送られていた川越の伝統行事が3年ぶりに復活。
10月30日の日曜日。
好天にも恵まれて、地元川越グリーンパーク自治会主催の「ふれあいフェスタ」が開催されました。
僕が自治会の役員をやっていたのは、もうかれこれ20年以上も前のことですが、ビデオ撮影はそれ以降もフェスタの度に依頼されていました。
新型コロナの影響で、2020年、2021年は開催されませんでしたので、今年は3年ぶりの開催になりますが、今回もお声がかかりましたので、畑作業はお休みして、一日中2台のビデオカメラを駆使して、お祭りのステージと場内の様子を撮影いたしました。
蓋をあけてみれば、過去最大の人出だったと思います。
5000人以上が住むマンモス団地が川越グリーンパークですが、多くの人が潜在的に「ふれあい」を求めていたのかなあという印象です。
フェスタの最後は出し物は、「お楽しみ抽選会」なのですが、当たった抽選券と引き換えにもらえるものは、ラップや洗剤や食用油(一番高価なものでもお米5kg)といった決して高くはない日用品ばかりなのですが、それでも会場は、黒山の人だかり。
当たった人は、うれしそうに品物を受け取っていましたね。
サラリーマン現役の頃は、撮影した素材のビデオ編集はどうしても遅れがちでしたが、今回は思い切って翌日も丸1日かけて、セッセとパソコン・ワーク。
動画の編集まで一気にやっつけましたので、紹介します。
ずっと続けてきたビデオ編集ですが、今回気が付いたことが二点。
今の我々にとっては当たり前になっていてて、もはや違和感さえわかなくなっているのですが、出演者も住民の皆さんも、きちんとマスクをしているんですね。
今回の動画を作るに当たって、サクッと過去動画も確認してみたのですが、比べてみるとハッキリとわかります。
来年になって、はたしてこのコロナ騒動が終息しているかどうかはわかりませんが、2022年のフェスタだけは、動画に映っている人たちを見ただけで、「ああ、あの年か」とわかるような気がします。
冷静に考えてみれば、これはかなり異様な光景ではあります。
そして、もうひとつ気が付いたことは、団地住民の高齢化です。
時期的にはちょうどハロウィンで、若い人たちは地元のお祭りよりは、ねっと刺激を求めて渋谷あたりに繰り出しているのかもしれませんが、やはり会場で目立っていたのは高齢者と小さな子供を持った家族連れですね。
我が団地も、独居老人が相当数に増えているという話はよく耳にします。
かくいう自分自身も気が付いてみれば、いつのまにかその独居老人の一人になっていました。
若い頃は地元の活動には見向きもしないで、仕事にかこつけては逃げ回っていたものですが、この年齢になってくると、やはりこのような地元のイベントには、ささやかながらも協力しておいた方が、住み心地の良さにはなにかと影響してくるだろうなと思うようにはなりました。
動画制作は、若い頃からの道楽でしたので、やること自体は楽しませてもらえるのですが、ただサラリーマン時代のように、道楽に湯水のようにお金をかけるということは、もはや出来ない身にはなりましたので、今しようしている機材が使えなくなるまでは、声をかけられれば、こういったイベントにもお付き合いしようと思う次第。
動画編集はかなりパソコンを酷使します。
現在使用中のパソコンも、かなり怪しくなってきましたが、今回はなんとか完成。
よろしければ、お楽しみください。
さて、昭和59年です。
昭和50年代もいよいよ最後の年。
勤めていた会社が倒産してしまったので、この年はとりあえず実家の本屋を手伝っていましたね。
小さくても、一応株式会社でしたので、小遣い程度の給料はもらいました。
それに、肩身は狭いながらも、食事はさせてもらいましたので、またモラトリアムに戻った感じです。
友人たちからは誘いの電話もありましたが、派手に遊べる身分ではないことは自覚していたので、この時期は自粛して、せっせと読書に励んでいました。
もちろん、読んでいたのはお店の商品ですから、お金はかかりません。
人生で一番本を読んだのが、やはりこの時期だったと思います。
当時の本屋は、東京販売という本の問屋から商品を仕入れます。
近くにその支社がありましたので、時には直接そこに仕入れに行くこともありました。
そこには父親の代わりに行くことも度々あって、そんな時は、もっぱら「自分が読みたい本」ばかりを仕入れて帰ってきました。
本は、店頭に置いておいて、売れなければ返品することが可能です。
そして、売れなければ、どんどん新しいものと入れ替えが効くというありがたい商品です。
ですから、自分の趣味である映画や音楽のマニアックな本は、店頭に並べたら、すぐに自分の部屋に持っていって読書。
もちろん、付箋やメモ書きは出来ませんし、変な読みグセやシミも付けられませんので、そこは細心の注意を払います。
ですから、気に入ったフレーズがあると、読書ノートに、まめに書き出していましたね。
今でもその時のメモ帳が残っていますが、結構びっしりと埋まっています。
読み返してみると、自分の趣味以外の本でも、あの当時のベストセラーや、苦手な理数系や経済的の本にまで果敢にトライしているので、「勉強」する意思があったことは伺えます。
おそらく、この年に読破した本の量は、大学の5年間で読んだ本の量よりも多かったはずです。
インターネットもSNSも、まだない時代のことです
ある意味では、世の中と繋がる唯一のパイプが読書くらいのつもりでした。
よく考えると、この時の自分の状況が、今の自分と結構似ています。
まだサラリーマンは続けられたのにもかかわらず、農業をやりたくて、60歳をもって定年退職させてもらった身です。
まだ年金をもらえる年齢ではないので、贅沢などできないというのが、まずあの頃と同じ。
この騒動が終わるまでは、大好きな旅行にも行かず、カラオケも絶って、畑作業以外は、ひたすら図書館で読書しようと決めたのも同じです。
そして、そんな自粛生活でも、不思議とストレスはないというのもまたあの頃と同じ。
結局この年は、年末から、知り合いに声をかけられて、運送会社でアルバイトを始めることになります。
さて、音楽の思い出を中心に、カレンダーと睨めっこしながら、世の中の出来事とも絡めて、自分の記憶をたどりながら、一年ずつを振り返ることができましたが、この後はちょっと自信がありません。
この後で、勤め出した運送会社が再び倒産という不幸はありましたが、その後就職した会社では、とりあえず定年まで勤めることが出来ました
もちろん、いろいろな出来事はありましたが、不思議なもので、学生時代のように、この後の人生を一年ごとに明確に思い出すのはちょっと無理な気がします。
カラオケで、今でも歌える歌謡曲はいったいどれくらいあるのかという興味から始めたこのトライ。
それを年別で拾っていくことで、ついでにその年ごとの自分の人生とリンクさせて、思い出せるまま、好きなように書いていたら、いろんなことが時系列で整理されてきて、思わず楽しんでしまいました。
わかっていることは、この後の社会人としての30年では、カラオケで歌える曲も激減してくるだろうということです。
去年の紅白歌合戦は、久しぶりに録画したものを見てみましたが、知っていた曲のほとんどは、過去のヒット曲。
去年ヒットした曲で、聴き覚えのある曲は皆無でした。
学生の頃は、決して覚えようとしたわけでもないのに、結構歌える曲も多かったことを考えると、やはり人間は、年齢を重ねると共に、新しい曲に対応するという感性は劣化していくものだとつくづく思います。
老人は、ともすると「あの頃の曲は良かった」などというノスタルジックに走りがちです。
しかし、実際今巷で流行っている「歌謡曲」が、昔の歌に比べて劣っているなどということはないと考えるのが自然。
それが証拠に、僕が若い頃も、当時の大人たちはみんなそう言っていましたね。
要するに、それは聴いているこちら側の感性が、若い頃の音楽体験でフィックスしてしまっているということ。
ですから、今の曲を聴いている若者たちが、いずれ老人になった時には、同じことを言っているのだと思います。
結論。
このカラオケ道楽を続けていく上では、こちらの老化現象を防ぐ意味でも、たまには意識的に新しい曲を聴いて、自分のカラオケ・レパートリーに加えて行く努力くらいはした方が良さそうです。
ですから、これからは、自分の愛唱曲にばかりこだわるのではなく、頑張ってAKB48やあいみょんも聴いていくことにいたしましょう。
「年寄りの冷や水」上等。
そんなわけで、この年のヒット曲で、今でも歌えた曲は以下の通り。
Tonight (佐野元春)
Complication Shakedown (佐野元春)
New Age (佐野元春)
Visitors (佐野元春)
時間の国のアリス(松田聖子)
ピンクのモーツァルト(松田聖子)
飾りじゃないのよ涙は(中森明菜)
星屑のステージ(チェッカーズ)
つぐない(テレサ・テン)
メイン・テーマ(薬師丸ひろ子)
渚のハイカラ人魚(小泉今日子)
モニカ(吉川晃司)
恋人達のペイヴメント(アルフィー)
夢伝説(スターダスト・レビュー)
もしかしてPart2 (小林幸子&美樹克彦)
全48曲
さて昭和56年です。
レコードをあちこちから借りてくることで、カセットの本数を増やしていく音楽ライフを送っていた身にとって、強力な助っ人が現れました。
ちょうどこの前年あたりに産声を上げた「レンタル・レコード」です。
あの頃は、よくぞこの商売を始めてくれたもんだとワクワクしたものです。
FMでは、アルバムまるごとをノーカットで、MCをかぶせずにオンエアしてくれることはほとんどありませんでしたし、友人のレコードを借りるのでは、自分のコアな趣味まではフォローしきれません。
そのニーズを埋めてくれたのがレンタル・レコードでした。
一番最初に見つけたのは、通っていた大学の近くでした。
多分、それが黎紅堂だったと思います。
それから、通学途中の池袋で見かけ、あれよあれよという間に、そこそこの駅周辺には、雨後の筍のようにレンタルレコードが出来てきました。
僕は、京浜東北線の与野駅が最寄りでしたが、あの当時の学生定期は、途中下車OKでしたので、すぐに数件の店の会員カードをゲット。
一つ先の大宮には、かなり在庫の充実した「友&愛」があったので、車を飛ばして借りに行くくらいの元気がありました。
レコードは、大抵ジャンル別、アーティスト別に、立てて並べられています。
当然CDのように背表紙は見えませんので、目指すレコードを探すには、その列の前に立って、一枚一枚を指で掬い上げて、タンタンタンとチラ見していくわけです。
この技は、足繁くレンタルレコード店に通っているうちに自然に上手になりました。
借りてきたレコードを録音するときは、やはりかなり気を使います。
なにせ、アナログのレコードです。
傷でもつけたら、お店から何を言われるかわかりません。
とにかく、借りてきたレコードは、基本当日に録音したら、翌日には、さっさとす返すと決めていました。
音楽を楽しむのは、録音したカセットテープでしたね。
インターネットもサブスクもまだない時代です。
借りてきたレコードの収録曲は、すべてカセットのラベルに手書きでした。
本屋の息子の不思議なこだわりで、自分のコレクションは、印刷したラベルで並べたいという欲求が早くからありました。
ワープロが世に登場するのは、この2年くらい後でしたが、おそらく、かなり早い時期から、まだ高かったワープロを、かなり無理して購入した記憶があります。
これが、シャープの書院シリーズでした。
小橋克也氏の「ベストヒットUSA」は、この年にスタートしています。
洋楽の情報は、ほぼここからもらって、授業の行き帰りに、気になったアーティストの、アルバムをレンタルレコードで借りてくるというのがこの頃のルーティーン。
とにかく、気になればなんでも、借りてきて聞いていましたね。
アルバムを丸ごと録音したら、次は、ちょっと音のいいテープに、その中で特に気に入った曲を「BEST SELECTION」として抜き出して録音していきます。
これがカセット一本分になると、聞くのはもっぱらこっち。持ち出してウォークマンで聴いたり、車のカセット・ボックスに入れて、運転のBGMとして聴いていました。
この年は、寺尾聰の「ルビーの指輪」が大ヒットしましたが、この曲が収録されたアルバム「REFLECTION」も、大瀧詠一の「LONG VACATION」も、佐野元春の「SOMEDAY」も、もちろんレンタル・レコードで仕入れています。
山口百恵が前年に引退をして、それと入れ替わるように、歌謡界に彗星のように登場したのが松田聖子でした。
アイドル・ファンは既に卒業していて、特に彼女のファンということではありませんでしたが、彼女が歌う曲はどれも好きでしたね。
今回も全てきちんと覚えていました。
松田聖子は、歌謡曲におけるガールズ・ポップスの雛形を作ったという功績は評価していいと思いますね。
この後に出てきたアイドルは、みんな彼女のスタイルの亜流に見えたものです。
田原俊彦や近藤真彦あたりも、ヒット曲は多いのですが、まともに聴くのは、ちょっと辛くなってきたのがこの頃です。
さて、この年にヒットした曲で、歌えたのは以下の通り。
シャドー・シティ(寺尾聰)
出航-さすらい(寺尾聰)
ナイトライフ(佐野元春)
SOMEDAY(佐野元春)
ダウンタウン・ボーイ(佐野元春)
さらばシベリア鉄道(大瀧詠一)
I LOVE YOU(オフコース)
セーラー服と機関銃(薬師丸ひろ子)
もしもピアノが弾けたなら(西田敏行)
ウエディング・ベル(シュガー)
全45曲
さて、昭和55年です。
この年は、西暦1980年ですから、いよいよ、この年から80年代のスタートです。
僕が音楽メディアとして愛用していたのがカセット・テープです。
当時、カセット・テープには、いろいろなグレードがあって、録音するものによって、その品質を変えていました。
1番安価なのは、ノーマル・ボジション・ タイプ。
これは、自分の弾き語り生歌や、音源の古いモノラル録音の曲に使用。
音源のしっかりしたステレオ録音のものはハイ・ボジション・タイプを使いました。
お値段も少々アップ。
レコードの録音は、主にこのタイプです。当然、ハイボジションのカセット・テープが一番本数は多くなります。
そして、これはという貴重な録音をするときは、値段も張りますが、多少気張ってクローム・タイプを使用。
そんなふうにし使い分けていましたね。
後に、メタルタイプという超高音質録音可能テープも発売されましたが、このタイプを使った記憶はほとんどありません。
とにかく凄まじいペースでカセットの本数は増えていきましたので、あまり高価なテープは使えませんでした。質よりも量という感じ。
最終的には、バイト代を貯めて、念願のオープンリールのデッキを購入することになるのですが、オープンリールはテープ幅が広い分、やはり音質は最強でした。もちろん値段も張ります。
この頃にはだいぶ曲数も増えていた自作の楽曲の正式録音などにはこれを使用しました。
オープンリールですと、長時間録音も可能ですので、FM番組をまるっと録音して、カセット・テープにダビングできるようになると、カセットの数はまた一気に増えていきました。
それと並行して、洋楽志向も幅を広げはじめ、ジャズ、ソウル、フュージョン、イージー・リスニングなど、いろいろなジャンルにも興味を持ち始めたのもこの頃です。
クラシックだけは、意識して聴くようになるのは、もう少し後でした。
そんなわけで、大学を卒業する頃には、所有するカセットテープは、軽く1000本は超えていました。
特に「カメラのさくらや」でアルバイトをしていた時期は、社員価格でカセット・テープが購入できましたので、バイト代は惜しげもなく、これにつぎ込んでいました。
その代わり、あまり誉められた話ではありませんが、レコードはほとんど買っていません。
好きなアルバムやヒット曲は、全てカセットに録音。
ですから、あの当時、友人ができるとまず真っ先に聞いたのがこれ。
「ところで、どんなレコード持ってるの?」
それで、ビートルズなら、海賊版も含めておよそ2000枚などというツワモノの自慢話を引き出せたらしめたもの。
ニンマリ笑った翌日から、大量のカセットテープを携えて、その友人の自宅へ何日も通ったりするわけです。
あるいは、所持しているレコードを丸ごと借りてきて、自宅で録音してから返すなんてこともしょっちゅうやってました。
普通なら、自分の興味があるレコードだけを選んで借りればよさそうなものですが、ある時期からは、録音本数が増えていくことが快感になり始めるんですね。
これがオタクの悲しい性です。(この頃はまだオタクなんていう言葉はなかったかも)
とにかく、借りられるレコードがあったらなんでも録音していましたので、その時に一回聴いたきりで、そのままオクラ入りというカセットもかなりたくさんありました。
さて、そうやって増やしていったカセットを、それでは一体どうやって聴いていたか。
この年の頃には、若者文化に革命が起きていました。
実は、この年の前年、SONYがウォークマンを販売開始しているんですね。
これが若者の間で大当たりしましたから、SONYに続けとばかり、各音響電気メーカーが続々と新製品を発表して競い合っていいました。
「カメラのさくらや」でバイトしていた時期は、そのラインナップは毎日のように見ていました。
そして、「ヨシっ」と決めて、貯めたバイト代でウォークマンを購入することになります。
ですから、僕のウォークマン・デビューがちょうどこの頃。
この秘密兵器で、何を一番最初に聴いたのかは今でもはっきり覚えています。
ちょうどこの年にデビューしたばかりの佐野元春のファースト・アルバム「バック・トゥ・ザ・ストリート」でした。
駅のホームで、イヤホンを耳に挟んで、プレイボタンを押したら、飛び込んでくる彼の威勢のいいカウント。一曲目の「ナイト・スウィンガー」です。
とにかく初めての経験でしたので、これはさすがにビックリ。
思わず音が漏れていないか、周囲をキョロキョロ見渡してしまったのをよく覚えています。
そして、この前年には車の免許取得していましたので、やはりカー・ステレオですね。
まだマイカーなど持てる身分ではありませんでしたので、実家の車を度々拝借していいました。
1600CCのカローラでした。
デートの時などは、お気に入りの曲を集めたカセットテープを編集して、ドライブのBGMにしていました。
ユーミンやサザンや、山下達郎などは、女子ウケがいいことは承知していたので、そのために聴いていたフシがあります。
勝負のかかったデートの時などは、ここぞというタイミングでムードを盛り上げるために、カセットボックスには、ちゃっかりとジャズなども忍ばせていました。
さて、この年のヒット曲で、今でも歌えた楽曲は以下の通り。
道化師のソネット (さだまさし)
防人の唄 (さだまさし)
雨の慕情 (八代亜紀)
YES-NO (オフコース)
アンジェリーナ(佐野元春)
ジャズマン (サザン・オールスターズ)
いなせなロコモーション (サザン・オールスターズ)
順子(長渕剛)
DOWN TOWN (エポ)
不思議なピーチパイ(竹内まりや)
釜山港へ帰れ(チョー・ヨンピル)
This is song for Coca-Cola (矢沢永吉)
愛の嵐(山口百恵)
みちのく一人旅(山本譲二)
ジェニーはご機嫌ななめ(ジューシー・フルーツ)
帰ってこいよ(松村和子)
ゴーイング・バック・トゥ・チャイナ(鹿取洋子)
ハッとしてGood! (田原俊彦)
さよならの向こう側(山口百恵)
TOKIO (沢田研二)
裸足の季節(松田聖子)
ガラスのジェネレーション(佐野元春)
全56曲
よる年並みですので、もちろん老眼鏡のお世話にはなっています。
幸いなことに、まだ遠くはかなり見えますので、免許更新の時の計測では、裸眼で両眼とも1.2。
しかし、近場がいけません。
もう読書は、老眼鏡なしでは出来ません。
老眼鏡の度数は、市販のものは1.0〜3.5までありますが、現在使用中のものは、度数で言えば1.5。
初めて使用してから、10年程度経ちますが、今でも1.0から、一段階あがっただけです。
もしかしたら、度数をあげればもっとクリアに視界が開けるのかもしれませんが、それで安易にその度数を上げていってしまうと、視力もそれに共なって悪くなっていくような気がして、なんとかこの度数で踏みとどまっています。
これでも、今のところ本は楽に読めますので、とりあえずは問題なし。
もっぱら購入してくるのは、ホームセンターで売っているもの。
980円から、高くても1980円のものを使用しています。
よく言われるのは、「目に合った」老眼鏡をしていないと、目はどんどん悪くなるというもの。
しかし、眼鏡屋でオーダーメイドすると、その値段は一気に10倍近くに跳ね上がります。
そんなお高いメガネなんて、所有物は、徹底的に酷使するスタイルで生きてきた者としては、おいそれとは手が出せません。
自慢ではありませんが、物を大事に扱わないことにかけては、昔から筋金入りです。
そんなわけですので、メガネは、よく壊しますし、よく失くします。
そしてその度に、買い直すわけですから、到底高価なモノなど持てるわけがありません。
しかも、使っていたメガネは、用が済めばどこへでもポイと置いてしまう癖がありますので、いざ使おうとするとき、手元になくて、イライラすることも度々。
そもそも、こちらとしては、メガネが鼻の上に乗っかってるのが、鬱陶しくてしょうがないわけです。
そんな持ち主に使われる眼鏡も心得たもので、時々ヘソを曲げて、どこかにプイと隠れてしまうんですね。
そこで、こちらは一計を案じます。
部屋のテーブルの上、パソコン・デスク、車の中、ナップサックの中等々。
眼鏡を使うであろうと思われる全ての場所に、あらかじめ一個ずつ眼鏡を置いておくわけです。
そして、持ち歩くことは極力避ける。
こうすれば、なくなることは激減するだろう思いきや、ところがどっこいそうは問屋がおろしません。
気がつけば、やはり、「どこかに置いた」メガネを探してイライラする時間は、いつになっても一向に減る気配なし。
ひどい時などは、頭の上にズリ上げたまま、メガネを探していたなんてこともしばしば。
恥ずかしながら、どこかへ消えたメガネの補充は、およそ2ヶ月にいっぺん程度くらいはあるかもしれません。
一体年間に、いくつの老眼鏡を買っていることか。
それを合計したら、最高級のメガネさえ、何個かは買えたくらいの金額になっているかもしれません。
老眼鏡は、僕にとっては、まさに消耗品です。
マッチ
100円ライターの登場以来、巷からはほぼ姿を消したのがマッチ。
アンデルセン童話の「マッチ売りの少女」なんて、今の子供達にはピンと来ないのかもしれません。
僕は、煙草を嗜みませんが、大学二年生だった19才の時、1年間だけタバコを吸っていた時期があります。
大学に行っても、授業は代返を頼み、近所の喫茶店で、友人たちとタムロしている時間の方がずっと長かったナマケモノ学生でしたので、一杯300円のコーヒーで、ダラダラと過ごすのには、やはり煙草は欠かせないアイテムでした。
一端のヘビー・スモーカー気取りの友人は、ジッポのライターなども持っていましたが、僕は、もっぱらマッチ派でした。
タバコは、当時の僕にとっては、嗜好品ではなく、完全なファッション・アイテム。
映画の中で、カッコよく使われていたのは、ライターよりも基本はマッチでした。
「カサブランカ」のハンフリー・ボガード。
「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンド。
「さらば友よ」のチャールズ・ブロンソン。
「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥール。
などなど、マッチの登場する名場面は、あげればキリがありません。
さてそのマッチですが、ほとんど購入した記憶がありません。
当時はほとんどの喫茶店で、「マッチありますか」と聞けば、無料で、店のオリジナル・マッチをくれたものです。
会計のレジスターの横には、「ご自由にどうぞ」と、小洒落たバスケットに入れられて並んでいたものです。
喫茶店は、大学界隈だけではなく、池袋、新宿、渋谷と足を伸ばしていました。
当時は、喫茶店過当競争の時代でしたので、モーニングを頼めば、トースト食べ放題のサービスなども当たり前。
喫茶店巡りは、完全に道楽の一つでした。
当然のように、喫茶店マッチのコレクションは、増えていき、部屋の机の引き出しの一つは、完全にこのコレクションで占領されていました。
当時は、友人に紹介されて、週一で渋谷でバレーボールをやっていた関係で、渋谷界隈の喫茶店のマッチが特に多かったのですが、パルコの近くのビルの地下にあった「詩仙堂」という喫茶店のマッチは、特にお気に入りでした。
デザインのセンスが、抜群でしたね。
そのマッチは使うのが勿体無くて、未使用のまま、保存していました。
ここで、初めて飲んだのが「アイスココア」。
たっぷりとクリームがトッピングされていて、450円とちょっと高かったですが、ここで飲む時は、これに決めていました。
ネット検索したら、まだ営業していてビックリしました。
マッチのデザインの写真もありましたが、これはさすがに昔のとは違っていました。
さて、クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」を見て、カッコイイと思ったのが、ちょっと長めのマッチを取り出して、靴の裏か何かで吸って火をつけるシーンです。
「荒野の七人」では、ユル・ブリンナーもやっていました。
あれは、普通のマッチではできません。
普通に出回っているマッチは、いわゆる「安全マッチ」と言われるもの。
マッチ棒の先についている頭薬を、マッチ箱の脇についている側薬部分で擦って火をつけるタイプです。
マッチの起源は17世紀のヨーロッパです。
比較的低音度で発火する性質の黄燐を利用して作られましたが、当初のマッチは、自然発火してしまうという欠点がありました。
これでは危ないので、改良されたのが赤燐マッチです。
この赤燐で擦らないと、マッチ棒だけでは発火しないようにしたわけです。
これが、いわゆる「安全マッチ」。
しかし、どこで擦っても火がつく便利さも捨てがたく、こちら仕様で改良されたのが「硫化燐マッチ」。
西部劇などで、頻繁に登場するのは、このタイプです。
このタイプのマッチは、日本ではなかなか手に入らないかったのですが、これを上野のアメ横にあった米軍グッズの店で発見。
これを、しこたま買い込んで、家で密かにカッコよく、タバコに火をつける練習をしたものです。マッチ棒の頭薬の先に、発火剤みたいなものが付いていましたね。
何事も、カタチから入るタイプでしたので、タバコの持ち方や吸い方も、マッチを散々無駄遣いして、そこそこ研究しましたが、元々がそれほど好きではなかったようで、長くは続きませんでした。友人たちには、よくこう言われたものです。
「おまえのは、吸ってない。ふかしているだけ。」
結局タバコは、1年間だけでやめてしまったので、マッチとの付き合いもそれきりになりました。
マッチといえば、もう一つ、祖母の思い出があります。
小学校二年までは、東京の下町で祖母と暮らしていたのですが、商店街でしたので、結構近所付き合いがあったんですね。
当時は、お裾分けを上げたり、もらったりも多かったのですが、いただいたお裾分けの器をきれいに洗って返すときに、なぜか祖母はその中に、マッチ棒を数本入れていたんですね。
子供心になんだろうと思ったものですが、これはずっと後になって判明いたしました。
これは、マッチに燐と共に使われている「硫黄」を「祝う」と引っ掛けた語呂合わせだったようです。
なかなか粋な習慣でしたね。
100円ライターは、確かに安価で便利ですが、やはり風情にかけます。
昭和ノスタルジーと言われそうですが、喫茶店でタバコを吸うなら、やはり、ライターではなく、マッチがマッチしています。
高峰秀子のエッセイ「コットンが好き」を、読んでいたら出てきたのがこの写真でした。
これに、一目惚れして、すぐにAmazon に飛んで行き、手頃なものを見つけて購入したのがこちら。
660円でした。
これなら、読書をするテーブルや、パソコン・デスクの端においても邪魔になりません。
仏具店に置いてあるような仏壇とセットのようなものでは、どこか葬式臭くなりますが、これなら普通にインテリアとして楽しめそうです。
去年ブータンに行った時には、お世話になった民家でも、訪れたチョルテンでも、至る所でこの香りが漂っていました。
マニ車を回しながら、経文を唱える老人たちの傍から立ち登る白い煙。
もうあれから、1年半が経ちました。
一本立てれば、およそ30分の香りと煙のミニ・レビュー。
これを脇に置いて、読書に勤しめば、そこそこ集中できそうです。
たちまち、「線香臭い」爺さんになってしまうかもしれませんが、カルバン・クラインやアルマーニなどという柄でもありませんので、それで上等。
購入してきたのは、白檀の香り。
まだまだ自粛生活は続きそうですので、部屋に癒しを。
こういうのを、センコウ投資と言います。
今は亡き父親の、昭和歌謡直筆歌詞カードが出てきました。
実は我が父は、毛筆の腕が達者でした。
よく、表彰状の文を頼まれて書いていたのを思い出します。
カラオケ黎明期の頃は、まだ8トラックのテープが主流で、モニターなどはありません。
歌詞カードのクリア・ファイルを広げながら、歌っていたんですね。
どこで仕入れてきたのか、我が父はその8トラックのカラオケ・マシンをドンと、本屋の二階の作業場において以来、煙草を咥えながら、夜な夜な練習しておりました。
練習の成果は、商店組合の会合の打ち上げで披露していたようです。
実は、その父親の直筆の歌詞カードを、すべてスキャンして保存してあったんですね。
DNAの引き継ぎが、あまりうまくいっていなかったようで、息子は父親に比べて、とんでもない悪筆で、早々に、ワープロ、パソコンに逃げますが、カラオケの方は、父親よりも多少は達者に歌えるようになった次第。
というわけで、何曲かは歌えそうな曲がありましたので、父親の歌詞カードでコラボしてみました。