昨夜寝る前に、ひさしぶりに「青空文庫」を開きました。
すでに、パブリック・ドメインになっている作品に限りますが、昔の作品が無料で読めるのは魅力です。
つらつらとタイトルを眺めながら、目に止まったのが本作。
7ページ程度の超短編です。
よだかという醜い鳥が、それゆえに周囲から虐げられて、絶望しています。
鷹には、その名前を変えなければ掴み殺すぞと脅されます。
このまま生きていても辛いだけだと思ったよだかは、やがて夜空に向かって飛んでいき、燃え上がって星になる。
物語はたったこれだけ。
彼を慰めてくれる弟分のカワセミもいます。しかしその言葉は彼には虚しく響くだけ。
よだかは、自分が食べてしまう虫もいることを考えれば、自分が鷹に殺されることもいたしかたなかろうと達観してしまいます。
ならば、最後はあの夜空に飛んで行って星になろうと考え、それを実行するわけです。
この童話は、小学校の教科書にも乗せられていた時期がありました。
当時の文部省の指導要綱は、どんなものだったのでしょうか。
ちょっと推察してみます。
よだかは、醜い姿や名前を理由に仲間から嫌われ、孤独に生きていました。
しかし醜さも立派に個性。
その個性は受け入れ、自信を持って生きましょう。
よだかは、太陽や星にぶつかって死ぬことを決意します。
これは、よだかが自分の人生に意味を見出すための最後の挑戦でした。
この物語を通して、子供達は困難に立ち向かう勇気を持つことを伝えましょう。
よだかは、夜空の星々を見て、自分の小ささを知ります。
この物語を通して、子供達は自然の雄大さを感じ、自然への畏敬の念を持つことができます。
まあ、ざっとこんなことでしょうか。
しかし、今の感覚で読むと、どうしても頭をもたげてくるのが外見差別の問題です。
差別やいじめ、そして、お世辞にもイケメンではなかった宮沢賢治の死生観など、美しい文章で隠されてしまう、決して綺麗事ではない問題がどうしても脳裏をよぎります。
よだかは、明らかに、外見による差別や仲間からの排斥を象徴している存在と言えるでしょう。
これは、差別やいじめによって傷ついた者が、社会に適応し、仲間と共存することの難しさを物語っています
よだかは、最終的には太陽や星にぶつかって死ぬことを決意します。
これは、生きづらさから逃れるための自殺という選択肢を提示していることも明らか。
しかし、学校の教科書で、自殺を肯定するわけにはいきません。
なので「星になること」を困難に立ち向かう勇気と、無理やり解釈している気もします。
ですから、もしも今この教材を、学校教育で扱うなら、差別やいじめ、自殺といった問題を考えるための教材として有効活用すべきかもしれません。
この童話を読んで、ハイボールを飲んで寝たら、こんな夢を見ました。
大きな鼻にコンプレックスを持っていた友人からこんなことを言われるんですね。
「おまえはいいよなあ。こんな大きな鼻じゃなくて。俺なんかこいつのせいで、好きな女の子に告白もできない。」
大きな鼻はなくても、こちらだってけっしてイケメンというわけではありません。
とりあえず友人ですので、ここは慰めるわけです。
「鼻の大きさなんて関係ないと思うよ。好きな女の子って誰なんだ ? おまえが告白できないなら、俺が聞いてやろうか。」
ところが、その友人に告げられた名前はクラス一番の美人。しかも、こちらも密かに憧れていた女子でもありました。
夢の中の僕は彼女にこう聞きます。
「あいつがおまえのこと好きなんだってよ。あんな鼻しててよくいうよなあ。まったく。」
すると彼女は悲しそうな顔をして、僕にこういうわけです。
「好きよ。少なくともあなたよりは・・」
この場面で、夜中に目が覚めてしまった僕は、その後味の悪さに、すぐには寝られませんでしたね。
朝起きてみると、幸い本日は雨模様。
畑にはいけないので、「よだかの星」を、再読して、しばし考えてしまいました。
風景にしろ、芸術作品にしろ、美しいものには人一倍反応するという自覚が昔からあります。
とりわけ美人には目がありません。
自分がこれだけ映画好きになったのも、日常ではお目にかかることのない美人を堪能する娯楽として認知していたからだと思っています
自分の容姿など棚に上げて、常にクラス一番の美人にお熱を上げていた学生時代がそれを如実に物語っています。
但し、身の程は知っていましたので、本人にそれを告白した記憶はありません。
親しい友人にも、それを告白したことはありません。
もちろん、だからといってストーカーまがいのことをしたことはありません。
あくまでも、密かにおもっているだけ。
要するに、ふられることで自分が傷つくことを回避するための自己防衛本能だけはあったわけです。
但し、全く努力をしないわけでもありません。
告白は出来なくても、その彼女を、みんなの見ている前で笑わすことぐらいのことは出来るわけです。
当然、いざという時にお披露目できるように、ギャグのネタの仕込みには余念がないわけです。
中学生時代には、まだクラスでも出来るものが少なかったバク転バク宙の練習は必死にしました。
そして、それが出来るようになると、彼女の視界に入っていることを確認した上で、ところかまわずお披露目するわけです。
あくまで。わざとらしくなく。
高校時代には、アコースティック・ギターを必死に練習しました。
一応のコードが抑えられるようになると、一生懸命オリジナル・ソングを作ったりしましたね。
英語の成績は良くありませんでしたが、映画の中の気の利いたセリフは一生懸命覚えましたし、かっこいい発音はマネしました。
すべてはモテたい一心。あこがれのマドンナたちの気を引くためです。
特別女子の心を動かすような美しい容姿や才能に恵まれなかった男子にとって、こういう努力は欠かせません。
意中の人の気を引くために出来ることは、なんでもやった気がします。
しかし、世の中は残酷です。
こちらのそんな姑息な努力をあざ笑うように、目の前でそんな美女たちをかっさらっていく男子がいるわけです。
彼らには、こちらを問答無用で黙らせてしまう、生まれもっての天賦の魅力がありました。
悔しいけれど、それが現実でしたね。
どう逆立ちしても「勝てねえ〜。」と心底思ってしまうわけです。
ああ、もう少し自分がイケメンだったらなあと何度思ったことか。
そんな青春時代を送って参りますと、美人に対する憧れは、鬱屈しながらも募るばかり。
そのストレスは、深層心理の地下深く潜行し、気がつけば部屋中に美人映画女優のポスターを貼り散らかす、助平爺に成り果てる現在に至るわけです。
ルッキズムは、外見至上主義と訳されます。
通常は、外見による差別が社会には浸透しているという文脈で、否定的に意味合いで使われます。
しかし、そもそも、人間が美しいものに惹かれるという性質は、DNAレベルで本能に備わっている機能です。
これは誰でも感覚的に理解できると思いますが、美しいものを見ると、脳内の報酬系は活性化されます。
報酬系とは、快感や喜びを感じる神経回路です。
人間はドーパミンなどの神経伝達物質が放出されると、幸福感や満足感を得ることが出来るように作られているわけです。
そして、同じ美しいものでも、景色や芸術とは違い、美しい異性を見たときは、そのあとのリアクションが少々違います。
まず、脳の中の活性化する部位が違います。
美人を見たあとで、活性化する脳の部位は、腹側被蓋野と側坐核です。
個人的にも初めて聞く単語ですが、AI がそういいますので、そう書きます。
つまりこういうことです。
美しい女性を見たときの脳の反応は、生物学的な繁殖戦略と関連しているということ。
人間は、魅力的な異性と交配することで、健康な子孫を残す可能性が高くなるということを遺伝子レベルで学習しているということです。
一方、芸術や景色などの美しさは、直接的な繁殖行動には関係ありませんので、脳の反応も比較的穏やかです。
美人は、健康や繁殖能力の高さなどの、生物にとって重要な情報を保有している可能性が高いといえます。
美人はモテるわけですから、自分の生存にとって有利な遺伝子を持つ異性を選ぶオプションの範囲も広がります。
選択肢が広がれば、より健康的で、美しく、いろいろな能力に長けた遺伝子も収集できる可能性は高くなります。
優れた遺伝子を確保し続ければ、その種は繁栄するわけですから、美人を見たらときめく反応は、まさに男子の繁殖戦略としての機能だということです。
美人やイケメンは、一般的に経済的にも恵まれている傾向があります。
例えば、美人やイケメンの方が、同じ職業で同じ経験を持つ人々よりも高い収入を得ることが多いというデータがあるそうです
我々の社会は基本的に、美人やイケメンが有利になるように出来ているわけです。
こんな実験結果が報告されています。
被験者は子供達。
二つの意見を、一人の大人が子供達に伝えます。
そして、どちらの意見が正しいと思うかと子供達に聞いてみたところ、その結果は50パーセントずつに分かれました。
今度は、同じその意見を二人の大人が別々に伝えます。
大人の一人は、誰もが美人だと評価するオネエさん。
そして、もうひとりは、そうではないオネエさん。
同じように、どちらの意見が正しいと思うかと子供達に聞くと、同じ内容であるにもかかわらず、今度はなんと美しいオネエさんがいった意見の方が正しいと答えた子供達が多かったとのこと。
なんとも残酷な実験をするものだと閉口しましたが、残念ながらこれが人間の正直なリアクションなんですね。
「美しい人が言っていることは、そうでない人が言っていることよりも正しい」
この非論理的なロジックが、ルッキズムの蔓延している社会では、まかり通ってしまうわけです。
このように、美しいということは、生存していく上では、概ね基本的に有利に働いていると考えていいでしょう。
しかし、美しいといっても、うかうかとはしていられません。
人間の社会はなかなか複雑です。
美しいものが優位な社会があたりまえに確立されてくると、今度はそうではない者のリベンジが始まります。
つまり妬みですね。
このパワーがある程度の大きさまで醸成されてしまうと、今度は美しいものたちが、その多数派から「いじめ」という反撃を食らうことになります。
ネット上のSNSで日常的に散見できる、有名タレントなどへの誹謗中傷による炎上は、まさにこれに当たるでしょう。
ある意味では、美しいものにとっても、そうではないものにとっても、なにかと生き辛い世の中になってしまったことは否めないようです。
話がだいぶ脱線してしまいました。
元に戻しましょう。
美しくなく生まれてしまったものが、美しいものと共存しながら、どう自らのアイデンティティを確立して生きて行くべきか。
宮沢賢治には悪いですが、醜いからと虐げられて、ヤケクソになって、空に飛んで行って星になるというのも、どこか負け組の自己美化の匂いがして、個人的にはあまり好きになれません。
醜いことはどうしようもないので、それ以外の部分で徹底的に自分を磨いて、経済力をつけ、美しい伴侶をゲットして、世間を見返すか。
しかしこれも、なにか了見がさもしいようで、結局ルッキズムの呪縛からは解かれていない気がします。
そこでよくよく考えてみます。
すると、あることに気がつくんですね。
確かに美しく生まれたものは、そうでない者に比べて、相対的に有利に人生を運べているかもしれません。
美しい伴侶を得て、それなりの経済力も持ち、社会的地位を得られているというデータも現実にはあるようです。
しかしそんな彼らが、はたして、相対的に最終的な幸福をゲットできているか。
ここのところは、実はそんなに単純なことではないぞという気がしています。
むしろ、そういう人生を送ってしまったからこそ、一般的な幸福からは縁遠くにってしまったということも現実として頻繁にある気がするわけです。
有名芸能人が転落する記事が、いつの時代にも大衆の興味を引くというのは、まさに他人の不幸が蜜のように甘いからこそです。
とにかく美しくあったがゆえに勝ち取った人生が、それゆえに修羅場となり、地獄に変わったという例は多く聞きます。
経済力があったから幸福であったか。
美人の伴侶をもったから幸せであったか。
よくよく考えればこればっかりは、そんな単純には測れないという気がするわけです。
つまり外見至上主義のルッキズム社会においては、競争を意識すると不利なことを実感するだけ。
なので、競争弱者はそんなことは無視して自分の好きなように生きろという話です。
悔しいけれど、自分の頭を越えて行く奴、自分の欲しい者を奪って行く奴は、無理してでも認めてしまえということ。
ここは「そんなの俺には全然関係ねえ!」と強がるだけ強がって、居直るしかありません。
どうあがいても勝てない相手には勝てないのですから、ジタバタするだけエネルギーの無駄です。
自分より美しい者は、みんな不幸になれと、ひねくれて妬むくらいは許しましょう。
あまりかっこよくはありませんが。
そしてこう考えてはどうでしょうか。
おまえに、美しさや豊かさで負けても、最終的な幸福量で負けていなければ、こちらの勝ちだぜ。
(少なくとも、四年前にいったブータンの人たちはそう言っていました)
そこで、今目の前にいる決して「美しくはない」伴侶の皺だらけの顔を眺めながら、昨日畑で採れた小松菜の胡麻和えを食べてはどうでしょう。
これはもしかしたら、かつてあなたの頭を越えていった勝ち組のあの方にはゲットできなかった幸福である可能性が高いと思うわけです。
そして、そういう幸せが現実にあるなら、むしろ下手に妬む相手などいない方が、その幸福の純度は密度が濃くなるというもの。
是非トライしてみてください。
美しく生まれなかったからといって、それで人生を諦めてしまうのは、この価値観の多様性が言われる時代に、あまりにも無策だろうという気がしてしまいます。
人生でキッスをした回数が多かったり、ベッドを共にした異性の人数が多いというのも、確かに幸福のバロメーターのひとつではあるかもしれません。
しかし、ちょっと見方を変えれば、キッスをした相手も、エッチをした相手も、人生でたった一人だけれど、その相手が今目の前にいるよというのも、立派に幸せの尺度になるかもしれません。
そしてこれは、もしかすると自分も相手も、決して美しくはないからこそ得られた幸福かもしれません。
ここをゴールに考えれば、美しい者が常に勝つわけではない人生も見えてきます。
反対にそうではない者が決して負けているというわけでもないというストーリーだって浮かび上がってきます。
まあ、ここまで書いてしまうと、そうではないあんた負け惜しみだろうと言われてしまいそうです。
恥ずかしながら、僕自身はすでに前期高齢者になっておりますが、一緒に一収穫した野菜を食べる相手はいません。
ただ、コタツを差し向かいに座って、母の作った料理を美味しそうに食べている父と、その顔を幸せそうに眺めている母の写真があるのみ。
二人はお世辞にもイケメンでも美女でもありません。
その二人も、すでに他界しております。
なんだか、短編童話の読書感想文のつもりが、いつのまにか、その本文よりも長いグタグタな文章になってしまいました。
結論です。
宮沢賢治の描いたよだかは、自分が醜いというだけで、結局世を儚んで星になってしまいましたが、やはりそれは少々早計だったんではないかと思う次第。
その選択をする前に、もっとトライしてみることはあったのではないかと思います。
Wiki でよだかの写真を確認しましたので一言だけ。
「おたく、そんなに醜いわけではないよ。」
おっと、外を見たら雨も風も収まって、いい陽射しがてできましたね。
明日は畑に出かけて小松菜を収穫してきます。
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