ロシアとグルジアが血なまぐさいことになっています。
北京五輪が開幕した8日に突発したグルジアの南オセチア自治州を巡る軍事衝突。
よりにもよって、「平和の祭典」の開幕日に、戦争をおっぱじめることはなかろうと思ってしまいます。
北京オリンピックには、もちろん、ロシアとグルジアの選手団も参加しています。
家族が戦火の中にいるはずの選手たちが、どんな思いで競技に参加しているのかと思うと、この戦争の責任者の罪は重いですな。
この戦争の責任者、ロシアの方は、もちろん、あのギョロ目のウラジーミル・プーチン。
グルジアの方は、サアカシュヴィリ大統領。
オリンピック競技の合間の、ニュース映像では、頻繁に顔を出していました。
ところで、柔道の男子90キロ級で優勝したのが、グルジアのチレキゼ選手です。
実はこの種目の準決勝で、チレキゼは、軍事衝突したロシアのペルシンと対戦しました。
この試合、たまたま見ていたのですが、両者は軽く手を合わせて試合開始。
結果は、チレキゼがベルシン抑え込み、一本勝ち。
もちろん、スポーツマンである彼たちに感情むき出しのぶつかり合いはありませんでしたが、チレキゼがグルジアの国名の入った背中のゼッケンを誇らしげに指さしていたのは印象的でした。
そして、その後の記者会見。組織委員会が「スポーツ以外の質問は認められない」と、この政治問題の質問を拒否する一幕がありました。
マスコミとしては、ここで、「おいしい」コメントを取りたいところだったのでしょうが、純粋にスポーツの技を競いに来ている彼らにとっては、いい迷惑でしょう。
13日は女子ビーチバレーでも、グルジアとロシアが対戦がありました。
この試合の前にはこんな場面がありました。
なんと、グルジアペアがロシアペアのコートに入り、笑顔で抱き合ったんです。
つまりそういうことです。
選手たちに政治紛争は関係なし。
そこには、同じ種目を競い合う相手への敬意と友情があるのみ。
両国戦争関係者は、南オセチア自治州がどうだこうだという前に、このシーンを心して見ろっつうの。
政治家として、空気がよめないやつは、それでもう政治家失格でしょう。
ちなみに、試合は大接戦の末、グルジアが2-1でロシアを降しました。
さて、次は北島康介。
この男は、やはりすごいですな。
競泳男子平泳ぎで2大会連続2冠をやってのけてしまいました。
世界中のメディアが絶賛しています。
五輪の平泳ぎ種目での2大会連覇は、北島が史上初と、勢いで書いてしまおうとしましたが、実はもう一人いらっしゃいました。
この方も実は日本人。
1928、32年に男子200メートルを連覇した鶴田義行さんです。
しかし、2大会連続で、しかも2冠ということになると、これは我らが北島康介だけ。
彼は、これで間違いなく、平泳ぎの歴史に永遠に残る、金字塔を打ち立てました。
表彰台に並んで、2位のブレントン・リカード、3位のユーグ・デュボスの間に挟まれた北島は、明らかに彼らよりも一回り小柄です。
どうでしょう。これが、なんともしれず、われわれ日本人の心をしめつけませんか。
「大きければいいってもんじゃないぞ。スポーツは」
どうしても、欧米の選手たちに比べて、体格で劣る日本人が、黙々と練習を積み重ね、技術とマインドで彼らに勝つ。
これを、この世紀の大舞台で、こうもわかりやすくやってくれてしまうと、本当に感無量です。
心から拍手を送りたくなります。
もともと平泳ぎという種目は、ある意味、日本のお家芸なんですね。
自由形やバタフライなどの他の競技とは違い、この種目で勝つためには、体力やパワーよりも、比較的「技術」が求められるという特殊性があります。
手足のバランスやリズムが微妙に崩れただけで、前への推進力にブレーキがかかり、タイムは大きく低下します。
かつての強豪が、充実した競技年齢に達したはずなのに、見る影もなくなるということが、平泳ぎでは頻発します。
つまり、平泳ぎという競技は、パワーアップすれば、それだけで速く泳げるというものでは決してないということ。
14歳で92年バルセロナに勝った岩崎恭子がそうでしたね。
彼女は、この「金メダル」の時の泳ぎを結局取り戻すことができず、体力を増したはずの96年アトランタでは惨敗。
これが平泳ぎの繊細さを、物語っています。
ですから、この微妙な泳法技術を2大会にわたって維持し、しかも、この一世一代の大舞台で結実させるメンタルコントロール持つことが、どれだけすごいことか。
北島と、北島チームといわれた、彼を支える専門家集団の、「金メダル」をとるためのノウハウは、今後のためにも、しっかりと引き継いでいってもらいたいものです。
200mで勝ったときの、彼のインタビューは、100mのときに比べてかなり落ち着いていましたね。
北島は、100mのときの、自分の涙のインタビューの録画を見て、きっと反省したのでしょう。
「あ、これかっこわりい。この次は、絶対にクールにいこう。」
彼が本当にそう思ったかどうかはわかりませんが、200mでの北島のインタビューは、アナウンサーが必死にあおっているにもかかわらず、落ち着いたもの。
いつものように、カメラには一瞥もくれずに、淡々と「世界新」を出せなかったことを悔しがっておりました。
アナウンサーとしては、出来るだけインパクトのある彼の「歴史に残る」コメントを引き出そうと必死でしたが、北島としては「そうはいかねえぞ」というところでだったでしょうか。
100mのときのインタビューでの「チョー気持ちいい」。
あれは、完全にアナウンサーに「言わされて」いましたよね。
さて、お次は、大番狂わせ。
僕も予想しなかった結末になったのが、柔道男子100キロ級の鈴木桂治。
2大会連続金メダルを狙いましたが、なんと1回戦でナイダン・ツブシンバヤル(モンゴル)に一本負け。そして敗者復活戦でも初戦でベンヤミン・ベールラ(ドイツ)に一本負け。
アテネの覇者は、今大会では惨敗でした。
すかさず、脳裏によぎったのは、井上 康生。
シドニーで、お母さんの遺影を持って、表彰台のテッペンに上がった彼が、アテネ大会では、まさかの準々決勝敗退。
そして、敗者復活戦でも、いいところなく呆気なく負けてしまったあの場面。
金メダルをイメージして集中していたトップアスリートが、「予想外の敗北」をしてしまったときの「脆さ」を目のあたりにしました。
僕らは、アテネ大会以降の彼が、あのまま、またこの舞台に立っていると思ってしまいがちですが、実はそうではない。
4年間の間には、いろいろな紆余曲折があったわけです。そんなこんなをすべて乗り越えて、彼はまたこの舞台に帰ってきています。
それが、あのちょっとした油断から食ってしまった、モンゴル選手の捨て身のもろ手刈りによる一本負けで、すべてが終わってしまう残酷さ。
しかしそれが、オリンピックといえば、オリンピックなのかもしれません。
中継のアナウンサーが、なんとか彼を弁護しようとするのをピシャリと抑えて、解説の篠原信一氏がこういっていました。
「これが、現段階の彼の実力なんです。」
篠原といえば、2000年シドニーオリンピック柔道男子100Kg超級決勝戦の、あの「疑惑の判定」で、フランスのダビド・ドゥイエ選手に優勢勝ちされ、確実と言われていた金メダルを取れなかったあの人。
その後のマスコミは、「限りなく金に近い銀メダル」と、彼を擁護する報道を展開しましたが、当の彼は、唇をかみながらもキッパリとこういっていました。
「これも、僕に実力がなかったから」
その彼が言うのですから、これは、かなり重みがあります。
鈴木選手には、可愛そうですが、これは、やはりその通りなのでしょう。
アナウンサーは、これを言われて、篠原氏の隣で、一瞬かたまっておりましたね。
さてお次。
フェンシング 男子フルーレ個人 で、日本人としては初めてのメダリスト誕生。
サムライの名は、太田雄貴。
決勝で、ドイツのクライブリンクに敗れて、銀メダルでしたが、これは立派でした。
おそらく、フェンシングという競技を、初めてテレビで見たという人も多かったのではないでしょうか。
彼は、日本フェンシング協会(それがあるのかとどうかは不明)からは、表彰モノでしょう。
かくゆう僕も、フェンシングという競技を、初めて見ましたが、なかなか面白かったですね。
フェンシングは互いに向き合った2人の選手が、細長いピストの上で向き合い、あの独特の構え(アンガルド)の姿勢から試合を開始します。
フルーレの選手は胴体から足の付け根までを覆う通電されたベスト(メタルジャケット)を着用。
相手選手を突くことによってセンサーが作動。電気回路が閉じることによりブザーが鳴り、審判に突きが有効であったことを知らせます。
この際、頭についているランプが点灯するのですが、このためでしょうか、試合場は電気が落ちていて異様に暗いんですね。ちょっと、スポーツとしては、不思議な雰囲気が漂います。
サーベルで突きあうというメチャクチャにアナログな競技なのですが、センサー感知というデシタルな判定方法で勝敗が決まるため、どことなく、「ナマ」のテレビゲームを観ているような気分にさせられますね。
まあ、それはともかく、オリンピックでは、この太田君のように、マイナーな競技から、まるで予想していなかったヒーローが生まれるのも、楽しみの一つ。
アテネ大会のアーチェリーで銀メダルを獲得した、山本博さんしかり。
シドニーオリンピックのテコンドーで銅メダルを獲得した、岡本依子さんしかり。
彼らは、マスコミからはノーマークでしたから、下手なプレッシャーがかからなかった分、伸び伸びと競技に集中できたゆえのメダル獲得だったかもしれません。
北島のように、「期待」というプレッシャーを力に変えられるような、強いメンタルを持っている選手は、やはりほんの一握り。
たいていの選手たちは、この「尋常ではない舞台」で、「尋常ではない精神状態」の中で、戦っているわけです。
期待するほうや、応援するほうに、もちろん悪気があるわけはないでしょうが、そんな大舞台で、緊張している選手たちに、できる限り普段の「自分の力」を出させてあげようと思うなら、あまり「面白おかしく」、そして必要以上に「感動な演出」を用意して、選手たちを盛り上げるのは考えたほうがいいかもしれませんね。
民法テレビの、バラエティ番組の延長のようなオリンピック番組を見ていると、つくづく思います。
「あんなに派手に盛り上げて、もし負けたらどうするんだろ」
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