1906年と言いますから、明治39年の作品ですね。
時代的には、日露戦争で快勝した日本がイケイケの時代。
富国強兵のスローガンの元、日本がアジアの諸国に先駆けて、近代国家への道をまっしぐらに進んでいた時代。
明治新政府が樹立して、江戸時代の身分制度は、名目上は廃止されていましたが、アメリカの奴隷制度廃止後も、南部での人種差別が根強く燻り続けた事情と同じく、日本でも身分による差別は、被差別部落問題として、特に地方を中心に長く尾を引くことになります。
江戸時代の身分制度は、よく知られた「士農工商」。
しかし、実情は、士とその下の農工商の間には、大きな隔たりがありましたが、農工商の間にはさしたる格差はなく、まとめて「平民」という扱い。
そして、実は、その平民の下に穢多及び非人というような被差別階層があったんですね。
この歴史は、平安時代からと言いますから、根深いものです。
本作が書かれた頃は、この階層の住民を「新平民」と言って、蔑んでいました。
その他にも出てくるこの賎民階層の呼び名は、「調里」であったり「ヨツ」であったり。
1959年生まれの僕には、どれも聞き馴染みのない隠語でしたが、ただ一つ「同和」という言葉だけは、小学校の道徳の時間に出てきた記憶が微かにあります。
「同胞融和」を省略して、同和問題ですね。
但し、僕が小学生時代を過ごした、埼玉県浦和市(現さいたま市)には、幸いかな、身近に部落差別を意識させる実例はありませんでしたので、あくまでも知識としての記憶しかありません。
「言われなき差別」ということになれば、むしろ映画で散々見てきた黒人差別や、ユダヤ人差別の方が意識下には刷り込まれていますので、どこかそれと置き換えて、本書を読み進めました。
本作の主人公は、瀬川丑松。
被差別部落の出身で、穢多という自分の出自を、ひた隠しにして、教師の職についている青年。
しかし、同じ出自を、堂々とカミングアウトして、解放運動を進める思想家・猪子蓮太郎に刺激され、丑松の心中は大きく動揺します。
彼だけには、なんとかその出自を告げようとする丑松ですが、それが出来ないのは、父からの厳しい教えがあるから。
「絶対に、被差別部落出身であることは、口外してはならぬ。」
しかし、猪子蓮太郎が、差別者たちによって殺害された事件をきっかけに、ついに丑松は自分の教え子達の前に立って、今までその身分を隠していたことを詫び、自分が穢多であることをカミングアウトします。
物語はこれがクライマックスになりますが、ふと心によぎったのは、今のLGBT問題。
やはり、同じく長い間差別の対象になっていた、性的マイノリティの人たちです。
もちろん、まだまだカミングアウト出来ずに、大きなストレスを抱えている人はたくさんいると思います。
本作の主人公は、最後にようやくカミングアウトすることで、抱えてきた苦悩からは解放されます。
しかし、それは差別から解放されるということではないということもまた事実。
被差別部落出身であろうと、LGBTであろうと、それがいわれなき差別であることは理屈で考えれば明白です。
しかし、これが厄介なのは、その差別意識というやつが、社会を形成して生きてきた人間の太古からのDNAとして、いまだに本能の中に残っているからです。
この本能と戦えるのは、もちろん理性のみ。
理性は学習することでしか、磨かれません。
そして、この武器を持てるのは、今のところ生物界では人間だけ。
どうかどちら様も、こういう格調高い文学に触れることで、そういう理性や知性を大いに磨いて、怪しき「差別」という本能と堂々と戦ってくださいませ。
敵はなかなか手強い。
理性を磨けない人には、ちょっと勝てない相手ですので。
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