露地栽培の百姓をやっていると、雨が続けば、読書の方が進みます。
今回図書館で読ませてもらった本は、ビクトール・E・フランクル博士の名著「夜と霧」です。
原題は、『それでも人生にイエスと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する』というオーソドックスなもの。
「夜と霧」は、和訳された際につけられた日本だけのタイトルのようです。
これは元々、ナチスドイツの極秘オペレーションに付けられていた名前で、日本語で言えば「夜陰に乗じて」くらいの意味。
占領地の政治活動家やレジスタンスを秘密に拉致するのがその作戦で、収監者は、忍び寄る夜霧の中で、跡形もなく消え去るというところから命名されています。
しかし、この名前を痛烈に思い出させるのは、1955年に公開されたアラン・レネ監督による、ナチスドイツのホロコーストを告発する30分程度のドキュメント映画のタイトルでした。
日本では、1972年になってようやくノーカットで公開されたのですが、僕はこれを見ています。
何かの映画と併映だった記憶ですが、その映画のことは忘れて、こちらの映画の方だけが鮮烈に記憶に残りました。
特に、死体の山をブルドーザーで穴に埋めるシーンは、衝撃的でした。
この映画が、作られたのが1955年でしたから、大戦終結後の1946年に書かれた本書はその原作なのだとばかり思っていました。
本書にはフランクル博士の収容所体験を通して、ナチスの残虐性が、リアルに告発されているのだとばかり思っていたんですね。
しかし、これはとんでもない思い違いでした。
本書は、心理学者の目を通じて、極限状況に置かれた人間の心理状態と、如何にその絶望の中で、希望を見出して生き抜いていくかを克明に綴った「哲学書」ともいうべき一冊です。
ゆえに、本書でフォーカスされているのは、収容所内の個人一人一人。
「人間を垂直に歩く動物から、わずか1kgの灰にしてしまう事業」に対する告発は、本書には一切出てきません。
そればかりか、「ユダヤ」という言葉さえも封印されています。
フランクルはこう言います。
「罪は、集団ではなく個人にある。ときに個人の中にも両者が併存する。だからどんな国でもホロコーストを起こりうる。」
フランクルは本書で、欲望中心の生き方から使命中心の生き方へ変わるべきであると言います。
つまり生きる価値は、自分の外部にではなく、内部に求めるべきというわけです。
1944年のクリスマスから新年の一週間で、収容所内に大量の死者が出たといいます。
自殺ではありません。
生きる気力を失ったまま死んでいった人たちです。
なぜか。
収容所内に、クリスマスの恩赦で家に帰れるかもしれないという「噂」が広まったんですね。
しかし、クリスマス当日が来ても、それは実現されませんでした。
それまで、その「希望」だけにすがって生きる気力を振り絞っていた多くの人たちは、そこで気持ちの糸がぶっつりと切れてしまい、一気に生きる気力を喪失して、ベッドに横たわったまま死んでいったというわけです。
フランクルは、「恩赦妄想」が極限に増大した上での絶望は、「感情消滅」を産むと言っています。
極限状態の中では、根拠のない希望を外部に求めることの危険性を、フランクルは指摘します。
そして、フランクル自身は、その希望を自らの「内部」に求めています。
彼は、母国オーストリアの聴衆の前で、心理学者として、収容所で体験したことを講演している自分をイメージしたというんですね。
収容所内で、自分に降りかかる全ての心理的、肉体的苦痛は、全てこの講演のためのネタになるんだというメンタリティを持って、彼は精神の均衡を保っていたわけです。
その上で、フランクルは、人間には3種類の価値があると説きます。
まず一つは、「創造価値」。
人は誰も、何かを創造する事で、人の喜びを作って行くことが出来るというわけです。
作家やアーティストなどが、すぐにこの価値を生み出す人として頭に浮かびますが、建築家や料理人、ちょっと広義に捉えれば、子育てする母親だって、立派にこの価値を生み出していると言えます。
その次は、「体験価値」。
人が過去に経験した全てのことは、この世のどんな力も奪えないとフランクルは言います。
そして、極限状態の中においても「感動できる力」。
これも、フランクルは人間が人間たるべき価値だと言います。
収容所の蚕棚のよう粗末な寝床に疲れ果てて寝ていたフランクルたちに、誰かが「外に出てみろ」と叫びます。
外に出てみると、そこには周囲を黄金色に染めて沈みゆく日没の絶景がありました。
誰もが息をのんで、その自然のグラデーションに感動したのです。
極限状況の中でも、「感動できる力」は、人間なら誰にも備わっているはずです。
いじめで自殺した14歳の少女の日記というのを昔読んだことがあります。
彼女の日記の中身は、学校での出来事が全てでした。
そこには、「花鳥風月」、つまり自然が、見事なほど抜け落ちていたんですね。
おそらく、彼女のまわりにだって、夕焼けはあったろうし、美しい夜空は見えたろうし、花も咲き、鳥もさえずっていだてしょう。
しかし、絶望の中で、呼吸をしていた彼女には、それは一切目に入りませんでした。
あるいは、幸せだった子供の頃の思い出もあったかもしれません。
フランクル自身は、収容所に送られる9ヶ月前に結婚したばかりの妻の幻影と、確かに会話をしたと言っています。
実際の彼女は、その時にはすでに死んでいたのですが、そのことは問題ではないとフランクルは言いいます。
要するに、その幻影との会話こそ、彼が妻を「心から愛した」という「体験価値」から生まれていたのだということです。
そして、最後が「態度価値」です。
もし仮に、上記二つの価値が自分に見つけられなかったとしても、自分の人生に対してどういう態度を取るかということを決定する最後の自由だけは、どんな状況のどんな人にでも残っているというわけです。
これが「態度価値」です。
要するに、自分の人生にどう向き合うかですね。
「運命」は、人生からのギフトだとフランクルは言います。
運命は、人の数だけある。
つまり、ふたつと同じ運命は存在しないのなら、それはその人生は、その人だけに与えられたギフトというわけです。
キリスト教文化に根ざした欧米社会の知見では、ギフトの送り主は「神」という物言いがされそうですか、ユダヤ人であるフランクル博士は、このワードを決して使いません。
送り主は、あくまでも「人生」です。
自からも、ロゴセラピーという精神療法の有効性を唱える博士が、心理学者としての立場から、「神」を退けて、冷静に分析していることが伝わります。
過酷な収容所の中にも、憔悴しきった人たちに優しい言葉をかけ、自分に与えられた僅かなパンの一切れをそんな人たちに与える人が複数存在したことを、フランクルは本書で指摘します。
たとえそれがどんな状況であれ、彼らから、その「態度」を決定する自由意志を奪い去ることは、誰にもできないというわけです。
印象に残ったエピソードとして、こんな場面がありました。
収容所の生活に絶望して、こんな毎日が果てしなく続くのなら、死んだ方がマシだという二人の男が、フランクルの元にやってきました。
彼らに対して、フランクルはこう言います。
「たとえあなたが人生に絶望したとしても、人生は決して、あなたに何か期待することをやめない。」
この言葉を聞いて一人の男は、自分を必要としている子供のことを思い出します。
そして、もう一人は、書きかけの論文があることを思い出し、自殺することを思い止まります。
どんな人の人生にも、意味はあるとフランクルは言うわけです。
読んでいて一つ気がつきました。
本書には、「にもかかわらず」という表現が随所に出てきます。
収容所の絶望的な日常の中で、ガス室に送られるか、過酷な労働を強いられている収監者たちの中には、正常な精神を維持できず、病んでいく人も大勢いたでしょう。
しかし、それでも、そんな状況「にもかかわらず」、希望を失わず、いつか解放されることを信じて、精神の均衡を維持できた人も確実にいたんだということ、もっと言ってしまえば、そんな状況だったからこそ、神々しいばかりの境地にたどり着いた人さえいたんだということを、フランクル博士は伝えたかったような気がします。
ホロコーストを起こす悪魔も人間ならば、弱っている人に自分の最後のパンを与えるのも人間であるということ。
この両面は、実はどんな人にも備わっているもの。
だからこそ、フランクル博士は、自らが虐待された被害者である「にもかかわらず」、ナチスドイツという集団に対する批判や告発を避け、自分が目にした、収容所の一人一人の心理にフォーカスして本書を執筆しています。
フランクル博士はこう言います。
「本当の悪とは、システムを無批判に受け入れること」
ハンナ・アレントが、「エルサレムのアイヒマン」の中で、ユダヤ人大量虐殺の実行部隊としてナチスに貢献したアイヒマンの裁判を傍聴して、どう見ても残虐非道なナチス親衛隊中佐というよりは、どこにでもいる小市民にしか見えない彼の風貌に驚きながら、彼に対し「凡庸な悪」という言葉を使っています。
アイヒマンには、大犯罪を犯したという罪の意識はなく、ただナチスの公僕として、自分に与えられた仕事を忠実に粛々と遂行しただけの意識しかなかった。
もちろん、彼は裁判後に処刑されますが、人としてのモラルをシャットアウトし、ただ無批判に、システムを受け入れた彼には、やはりそれに値する悪が存在するということです。
今の霞ヶ関には、この「凡庸な悪」が、安倍・菅政権の9年間で、官僚たちの間に、静かにじんわりと根付いてしまっように思います。
人事を掌握され、自分たちの将来を政権トップに握られてしまった官僚たちは、「態度価値」を放棄し、モラルハザードを受け入れ、「システムに批判」することもなく、ただひたすら政権に忖度し、ご機嫌を伺うだけの輩と成り果てました。
彼らは、「悪者」というよりもただの「弱者」だけなのかもしれないという気もしますが、
やはり彼らは、これを理解できる知性は持った上で、現状に対し目をつぶり「凡庸な悪」を受け入れてしまった時点で、「悪人」と断罪されても仕方がないということでしょう。
先述のタイトルで、終戦直後の1946年に発刊された本書は、1953年に、当時ドイツに留学していた霜山徳爾目に留まります。
この本に感銘した彼は、すぐにフランクル氏に会いに行き、親交を深めていくことになります。
やがて、彼が翻訳した旧版が、1956年に日本で発売されました。
これは、アメリカよりも早く、最初に翻訳版を出したアルゼンチンに次ぐ2番目の国となっています。
出版元のみすず書房は、この本を売るために、この前年に公開されたホロコースト告発映画「夜と霧」のタイトルを流用します。
そして、フランクル博士による本文の他に、強制収容所の様々な写真やデータも付け加えています。(僕が読んだのはこちら)
その効果もあって、本作は大ベストセラーになり、読み継がれていくことになります。
しかし、ナチスによるホロコーストは、歴史的事実として、それはそれとして認識しつつ、本書はやはり、極限状態における、人間の心理を分析したルポルタージュとして読むべきでしょう。
2002年になって、池田香世子の翻訳による新版が発刊されました。
よりフランクル博士の意志に近い形で、若者にも読みやすくした内容とのこと。
本書は、今では世界的なロング・ベストセラーになり、各国で読み継がれている名著になっていますが、日本では、東日本大震災の後で、ブームがあったと言います。
大震災の被害に遭い心に傷を負った人たちが、フランクルの言葉「救い」を求めた結果なのでしょう。
今や、新型コロナ禍は、あの東日本大震災にも劣らない、世界的なディザスターになりつつあります。
それに加え、世界標準を無視した、日本政府の、国民に向き合わないトンチンカンな政策の為に、経済的に困窮し、コロナ陽性となってもなすすべなく自宅で不安の床についている人は数多くいると思います。
しかし、たとえどんな状況であっても、絶望し嘆く前に、人間にはやれることがあるということ。
そのことに気がつかせてくれるだけでも、本書を読む価値はあります。
もちろん、細々と野菜を作る貧乏百姓にも、生きる価値はそれなりにありそうです。
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