テレビを見るという習慣がなくなりましたので、時事ネタの収集は、基本YouTube動画を利用しています。
2月24日に、衝撃のロシアによるウクライナ侵攻が始まって以来、畑仕事をしながらラジオ代わりによく聞いている(画面は見れないので)動画も、一斉にこの問題にシフトしており、百姓にも、国際情勢のただならぬ雰囲気は伝わってきます。
両国をめぐる政治情勢は、背後で蠢く欧州各国やアメリカの事情も絡まって、何やら当時国以外の国際社会の事情が色濃く反映されているようです。
この戦争が始まる前の専門家たちの意見は、いろいろとキナ臭い空気があるにはあるが、さすがに戦争に突入することは、ロシアのプーチン大統領もギリギリ思いとどまるのではないかという楽観的な意見が多数派だったようにに思います。
しかし、そんな期待を嘲笑うかのように戦争は始まってしまいました。
いざ始まってみれば、プーチンは、この決断をするのに、それなりの時間をかけて、熟考に熟考を重ねて、そのタイミングを測っていたことが窺えます。
彼が考えていたことは、ロシアが侵攻を開始するにあたって、NATO軍が動くかどうか。
プーチンは、それを確認するかのように、ロシア軍をウクライナの国境付近に配備するという威嚇行動に出ていました。
ウクライナ軍も国境に兵力を集めてロシア軍と対峙。ウクライナ情勢は、一触即発のピリピした空気に包まれていました。しかし、しかしこれに対しNATOは静観の構えを見せます。
少なくとも、ロシアに対する表立った抗議声明は出していません。
なぜか。
実はアメリカにも、欧州にもこの問題には、出来れば首を突っ込みたくないというお家事情がありました。
ソ連崩壊後の一強時代に「世界の警察」宣言をしていたアメリカには、すでにその余力がなくなっており、オバマ大統領のリバランス宣言から、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を経て、バイデン大統領になって、ついにアフガン撤退が実行されました。
つまり、経済の疲弊を招くだけの国際紛争への干渉に、アメリカの国民世論は「ノー」といっていたわけです。
中間選挙に向けて、点数を稼いで起きたいバイデン大統領は、そもそもアメリカになんの国益ももたらさないこの戦争に対して、ウクライナのために、ロシアと戦うという選択をしても、自分の支持率にはなんのプラスにもならないということを理解していました。
欧州各国とロシアの間には、エネルギー問題が横たわっています。
現在EUは、ロシアからパイプを引いている天然ガスや原油に、全エネルギーの4割程度を依存しています。
かなりの強権を発動して、天然ガス利権を握っているプーチンは、ある意味では、ヨーロッパ各国のエネルギー供給源を抑えることで、その首根っこを掴んでいます。
NATOの介入となれば、ロシアからの天然ガスの供給がストップされます。そうなれば全ヨーロッパのエネルギー需要はすぐにパニック状態。
ロシアがウクライナに対して侵攻しても、NATO軍は動かないというと踏んだプーチンは、そうなれば当然次に行われるはずの経済制裁についての準備を進めています。
プーチンは2月4日に、中国の習近平国家主席と、中ロ首脳会談を行うために、北京に飛びます。
この話し合いでは「世界秩序を再編する」というような表向きの会談内容が報道されていましたが、おそらくは、欧米諸国からの経済制裁に対する対応策として、中国からの援助だけはしっかりと取り付けておきたかったというのが会談の主旨だったのでしょう。
そして、ここまで周到に足固めをした上で、北京冬季オリンピックの閉幕を待って、2月22日に、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の独立を承認したプーチンは、その2日後に満を持してウクライナ侵攻にゴーサインをだしたわけです。
それでは、なぜプーチンが、ウクライナに侵攻したのか。
「ロシアには、その選択しかなかった」と彼は演説していますが、概ね一般的な見解としては、ロシアとNATO加盟国が、国境を接することを嫌ったプーチンが、その緩衝地域に位置するウクライナを、ロシア寄りの国にしておきたかったという思惑です。
ウクライナは、NATOへの加盟を申請していましたが、これがプーチンにとっては許し難い、由々しき問題でした。
つまりプーチンの起こしたこの戦争の目的は、速やかに首都キエフを制圧して、NATOへの参加を画策していた現職のゼレンスキー大統領を退陣させ、そこに親ロシア派の政府を樹立させること。
そのための手段として、プーチンは戦争を選択したわけです。
軍事力に勝るロシアは、破竹の勢いでウクライナに侵攻していきます。
しかし、軍事力において圧倒的な格差があろうとも、自国を侵略の手から守ろうとするウクライナ軍は、国民と協力してロシア軍と戦います。そんな士気の高い国民たちの抵抗にあって、ロシア軍は意外にも手を焼いているというのが、ウクライナ情勢の現状です。
戦争が長引けば、国際世論が高まることを懸念するプーチン大統領は、迅速に戦争を終わらせるために、核兵器使用もチラつかせています。
畑作業をしながら、耳に入ってくるニュース・ソースをまとめてみると、現在のウクライナ情勢は、この辺りまでは、まあなんとか理解できました。
前置きが大変長くなりましたが、そこで、図書館で見つけてきた本がこれです。
社会学者ロジェ・カイヨワ著「戦争論」。
同タイトルで、カール・フォン・クラウゼヴィッツが1832年に発表したものもあるのですが、こちらは、上中下巻の全3冊からなる大作でしたので恐れをなしてスルー。こちらよりも新しく、比較的コンパクトな本作を選びました。
ちょっとここらで、戦争について、真剣に考えてみようというわけです。
本書が執筆されたのは、第二次世界大戦が終結した数年後。
カイヨワは、大戦中にアルゼンチンに渡っており、この戦争のため、母国フランスには帰国出来なくなっていました。
彼は、戦火に見舞われたヨーロッパを憂いながら、異国の地で、なんで戦争というものが起こってしまうのかということを、歴史学、人類学、哲学の見地から検証し、世界に向けて警鐘を鳴らしました。
カイヨワによれば、「人は戦争に惹きつけられる生き物」ということになります。
そして、彼はそのメカニズムを、じっくりと考察していきます。
面白かったのは、「祭り」と「戦争」が、実は人間社会においては、同じニーズを持っているという指摘でした。彼はそれを、本書で「聖なるもの」と表現します。
カイヨワは、両者の共通点をこう指摘しています。
「祭り」と「戦争」は、どちらも、日常の単調さを打破する熱量のあるイベントである。
しかし、どちらも非生産的で、実際に行われるのは消費することだけ。
その共通点は、どちらも日常の道徳や規律が解除されるということ。戦争においては人を殺すという行為すら正当化される。
そして、参加するものに一種の恍惚状態を与えるので、それを知ってしまった人は、再びそれを求めるようになる。
人間という生き物は、合理性だけでは動くようにはできていません。時として「祭り」や「戦争」が、「聖なるもの」として機能し、人間社会を調整してきたというわけです。
つまり、多くの人が「祭り」の熱気と非日常性に惹かれていくと同じように、人間には「戦争」へ傾いていく本能レベルの傾向性もあるのだということ。
今世界中でロシアを非難する「戦争反対」の声が上げられている中で、少々声も小さくなりがちですが、カイヨワは、人類の歴史を考察した上で、そう断言します。
それでは、戦争とは何か。
彼はこう言います。
「戦争は、破壊のための組織的企て」
戦争は、もちろん喧嘩とは違います。
戦争には、兵器の開発が欠かせませんし、軍の組織化とは切り離せません。
つまり、戦争は文明の発達と共に、成長するという宿命を背負っているわけです。
従って、戦争は皮肉にも、それを発展させてきた人間に対して、野蛮で破壊的な牙を剥きます。
未開の部族間同士の抗争であった「原始的戦争」は、異民族を征服するための「帝国戦争」に進化し、さらに封建時代には、戦争のプロである騎士階級の争いになり、やがてフランス革命において、ナポレオンが民衆から兵士を募る徴兵制度を始めたことで、人類史上初めての「国民軍」が組織されるようになります。
ここから、戦争は一気に「国民戦争」という新しいフェーズに突入していきます。
産業革命によって都市化が進むと、人々の間にナショナリズムが形成され始め、戦争の主体は、次第に国家となっていきます。
そして、19世紀になり、ヨーロッパ諸国による植民地支配の時代を経て、1914年にいよいよ人類は、第一次世界大戦という悪夢を経験するに至ります。「国民戦争」は、「全体戦争」へと拡大するわけです。
「全体戦争」は、国家同士の総力戦となります。
兵士たちは、銃器の弾と同じように消費され、戦場となる街では、住民たちが理不尽に蹂躙され、その前線に武器を調達することを最優先とするため、国の産業は火の車になっていきます
しかし、その反面で、カイヨワはこうも指摘します。
戦争をすると、実は経済活動は促進される。やがて、大量生産のために意図的に大量破壊が行われるようになる。
やがて、国家機構は、戦争から生まれ、戦争に育てられるようになる。
そして、大きくなりすぎた超大国によって、戦争はより巨大なものに成長する。
戦争で国民が犠牲になるほど、国家の力が強まるという現象が表出し、やがて国家による人々の統合支配が起こる。
こうなったら、国家は国民の意識をどうコントロールするかを考えるようになります。
この辺りからは、戦争に大きく関わってくるのがマスメディアでしょう。
「国民よ。銃を持って立ち上がれ。そして、国家のために死ぬことを誇りに思え。君たちは英雄だ。」
ラジオ、映画、テレビを通じて、戦時下の国民は次第に国家に洗脳されていきます。
全体戦争においては、命が大量に消費されるので、それに、意味を与え、意義づけをすることで、国家は国民を煽っていきます。
国家に命を捧げることこそ、国民の最大の美徳となるように、国家は国民を巧みにコントロールしていくわけです。
しかし、第二次世界大戦で、原爆が登場すると、ここで、戦争はまた新たなフェーズに突入します。
この殲滅兵器が開発されてしまうと、もはや戦争には、兵士自体に意味がなくなってしまいました。
この最終兵器の前では、人類全てが、ただ被害者になるだけ。これが戦争の真実となります。
しかし、世界各国は、競ってこの核兵器を、所有し始めます。
核兵器を持つことが、戦争への抑止力となる。これが、核兵器を持つ国の言い分です。
これで、事実上核保有国は、そうおいそれとは戦争ができない状態になります。
しかし、それでも戦争を止めようとしないのが、人類の悲しい性です。
この次に、世界が踏み込んでいったたのは、代理戦争でした。
朝鮮戦争やベトナム戦争がそれです。
自国を戦場にすることなく、アジアで対立する隣国同士を超大国がバックアップすることで、世界の超大国が事実上戦争に参加するわけです。
ベトナム戦争の様子はテレビで全世界に配信され、戦争反対のムーヴメントが世界中に広がります。
この代理戦争は、ソ連崩壊による冷戦終結を迎えて消滅しましたが、それでも人類に平和は訪れません。
その次に新たに現れた敵がテロリストたちでした。
2001年の9月11日の、アメリカ同時多発テロ事件により、世界は「対テロリスト戦争」にまき込まれていきます。
アメリカは、テロリスト殲滅を口実にアフガニスタンに侵攻します。
この戦争では、これまでの戦争常識がまるで通用しません。
宣戦布告もなければ、講和もありません。はじまってしまえば、誰も終わらせることができない泥沼が続くだけ。
テロリストはその姿が見えないので、狙われた国々は、国民全体を疑い、監視するという仕組みが出来上がっていきます。
テロリストとの戦争においては、ただ相手を何人殺害したかだけが延々と戦果として報告され続けるだけの不毛な争いとなるわけです。そこには、勝利も敗北もありません。
この果てしない戦争ループから、人類は逃れられることができるのか。
カイヨワは、そのための唯一の方法は、もはや教育しかないと本書を結んでいます。
人間の本能の中に、ただひたすら戦争へ傾倒してしまう呪われたDNAが埋め込まれている以上、これを起動させないための唯一のブレーキになるものは、理性しかない。
カイヨワはそういうわけです。
では、何を学べは、戦争へと傾いていく人間の悲しい性をコントロールできるのか。
それは、やはり人権ということになります。
地球上のすべての人間にある人権は、決して国家のものではないという、至極当たり前の教育がなされることが、放置しておけば、自然と戦争へと傾いていってしまう恐ろしい人間の本能に、毅然と「待った」をかける事のできる唯一のABSシステムに成り得るのだと、カイヨワは本書を締めくくります。
さあ、Mr.プーチン大統領様。
ロシアの国家元首として、さまざまな思惑もあろうかとは思いますが、ここはひとつ、1人の人間に立ち戻ってみてはいかがでしょうか。
若き日のあなたは、自分の国が崩壊していく様を目の当たりにしました。
アメリカと並ぶ超大国だったソ連は、自ら崩壊していくことで、世界中からそのイデオロギーを否定され、一流国の座から一気に滑り落ちていきました。
分裂したソ連の中の一国であるロシアの中で、かつてのスターリンを思わせる、強引な手法で、国家権力を掌握し、独裁者として、確固たる地位を気づいてきたあなたが、かつてズタズタにされたプライドを取り戻すために、ロシアを再び世界の一流国に押し上げて、世界に認めさせたいという野望をお持ちになっているということは、察しがつきます。
ただ、どうでしょう。
そのための手段として、あなたが選んだ戦争という手段は、あまりに短絡的ではないでしょうか。
長い間、大国ロシアの権力を独占してきたあなたの決断や一挙手一投足は、もはやあなた個人の枠組みを超えて、ロシアという国家そのものなのかもしれません。
しかしどれだけ、国を巨大で強固にしたとしても、時代はもはやスターリンやヒットラーを求めていません。
戦争や殺戮に傾く衝動に、その身を任せ続けた彼らが、一人の人間として、果たして「幸せ」であったかに、どうか思いを馳せてみてください。
権力という悪魔に魅せられた独裁者たちが導いた国が、果たして「幸せ」であったかを、どうか考えてみてください。
自分の頭で考えることさえ出来ない恥ずかしい限りの我が国のトップたちに比べて、あなたが、国家元首として遥かにしたたかで優秀であることは一目瞭然です。
そして、そんな大国のリーダーが、綺麗事ばかりでは務まることがないことも重々承知しています。
あなたが、いったいどのくらい先までのロシアを見通して、この「戦争」という選択をしたのかは、もちろん知る由もありません。
とても気になるのは、ロシアという国におけるあなたの仕事のゴールが、いったいどこに設定されているのか。
そして、もっと気になるのは、あなた個人の人生のゴールが、いったいどこにあるのか。
一度手にした権力は、そんなに居心地のいいものなのでしょうか。
世界は多様性の時代になりました。
色々な人がいていい。いろいろな国があっていい。
世界中の人が、あるいは世界中の国が、互いを排除することなく、強制することなく、認め合うことでしか、地域のコミュニティから国際社会の秩序までもが円滑には回っていかない世の中へと、次第にシフトしてきています。
こういう社会を、力で抑え込むことはもはや不可能です。多様性の時代になってくれば、それぞれの人たちが戦うべき相手は、誰もがその心に持っている「悪魔」です。
その悪魔の囁きに抗えない者たちが、これから訪れる世界では排除されていくのだと思います。
人間の本能に宿る悪魔と戦う武器は、一つしかありません。
それは理性です。
Mr.プーチン。あなたに、その理性がないはずがありません。
どうか、大国ロシアの元首という重荷を一度その肩から下ろして、あなた自身の「幸せ」とは何かを見つめ直してみてはどうでしょう。
もしかしたら、その先にロシア国民の「幸せ」も見えてくるかもしれません。
頭脳明晰なあなたが、ロシアという国と共に心中する姿は、出来れば見たくないという思いです。
あなたが選択した「戦争」という手段が、果たしてロシアにとって、最適解であったのか。
もしその判断が、あなたの理性によるものでなく、あなたの中の悪魔の囁きに身を委ねたものなのだとしたら、ロシア国民に訪れるのは、おそらく悲劇しかありません。
世界にはまだ、10人にも満たない核爆弾のスイッチを押す事のできる国家元首であるあなたに、出来ることなら、悪魔が囁かないことを祈るのみです。