本作は、1935年に公開されたトーキー初期の日本の時代劇映画です。
日活京都撮影所が山中貞雄監督のもとで製作し、丹下左膳役には、これを当たり役としていた大河内傳次郎。
百万両の隠し場所が塗り込められた「こけ猿の壺」を巡る争奪戦を描いています。
丹下左膳と言えば悲壮な剣豪のイメージですが、本作においては、居候をしている矢場の女主人櫛巻きお藤と孤児ちょび安とのエピソードと絡めて、ホームコメディ風に路線変更しています。
山中貞雄監督は、丹下左膳シリーズを監督してきた伊藤大輔監督が退社した後、急遽この作品を手がけることになりました。
しかし、天才監督の誉れ高い山中貞雄に、伊藤版丹下左膳路線を踏襲するつもりはなかったようです。
彼は本作において、天下の丹下左膳を、完全にパロディ化し、悲愴感などかけらも感じさせない、明るくモダンな人情喜劇にしてしまいました。
音楽もクラシックの曲が使用され、洗練度を高めています。
本作の試写を見た原作者の林不忘は、こう抗議したそうです。
「この作品はわたしのつくりだした丹下左膳とはまったく違う。別物だ」
このため、困ってしまった日活は、タイトルを『丹下左膳余話』とし、原作者の名前もクレジットから外しました。
原作者・林不忘には不服であっても、山中貞雄がテイストを変えてしまった人情味たっぷりの丹下左膳映画の方が、伊藤版の評価をしのいで、後世に残る傑作となってしまいました。
山中監督は、それまで悲壮感漂う隻眼隻腕の剣士を演じて人気を得ていた大河内伝次郎から、喜劇のセンスも引き出してしまったのですから、ここは監督の確かな目と手腕が評価されるべきでしょう。
とにかく、今から90年も前の映画です。
本作を現代の感覚で鑑賞して、評価するのは、野暮というもの。
それよりは、日本映画史に偉大な足跡を残した映画の古典として、リスペクトを持って鑑賞するのが正しいでしょうね。
出来れば鑑賞する側も、その時代にタイムスリップしたつもりで見れば、結構楽しめるかもしれません。
1935年といえば、昭和10年です。
東京の人口はまだ600万人。
銀座の繁華街では自動車と一緒に人力車が行き交い、浅草六区の映画館では、片岡千恵蔵や山田五十鈴といった、昭和の大スターたちの名前が踊っていました
軍部の力が次第に強大になっていき、この翌年にはニ・二六事件が起きています。
ヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄して、ナチス・ドイツの再軍備を宣言している。そんな時代です。
山中貞雄は、サイレント映画からトーキーへの移行期にあたる1930年代において、輝きを放った日本映画を代表する監督の一人です。
彼はわずか5年間の監督キャリアで26本の時代劇映画(共同監督作品を含む)を発表しましたが、現在までフィルムがまとまった形で現存する作品は『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本しかありません。
彼は、1937年の『人情紙風船』完成直後に日中戦争に召集され、翌1938年に中国の開封市で戦病死しています。
山中貞雄は、実に28歳という若さで亡くなりましたが、彼の短い監督キャリアにおいて、現代においても、語り継がれる、日本映画史に燦然と輝く大きな足跡を残しました。
主演の大河内伝次郎は、戦前を代表する時代劇スターの一人でした。
彼は阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スター」と呼ばれていました。
彼の悲愴感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣は、従来の時代劇スターの定型を破り、当時の観客からは最大級の賛辞を受け、高い人気を獲得していました。
中でも彼の当たり役だったのが丹下左膳です。
トーキー時代の時流に乗って、「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」という決めゼリフで、一世を風靡しています。
(しかし、そのセリフは本作ではきけませんが)
ちなみに、我が家には、祖父の肉声が残っているのですが、その音声は、祖父が得意とした大河内伝次郎の声色でした。
若き日の祖父は、大河内伝次郎の活動写真を見て、胸をときめかせた観客の1人だったのでしょう。
本作において、江戸の町道場の主人を演じるのが沢村国太郎です。
この人は、日本の歌舞伎役者から映画俳優に転身した戦前の大スターです。
彼の姉は福祉運動家の矢島せい子、妹は女優の沢村貞子です。
1978年のNHKの連続テレビ小説「おていちゃん」のモデルになったのがこの人。
随筆家としても、才能があった人で、この人の「わたしの三面鏡」と言うエッセイを、20代の頃、読んだことがありますが、達者な文章力で感心したものです。
そして、この人の弟が、俳優の加東大介です。
黒澤明監督の代表作七人の侍で、官兵衛の片腕となる七郎次を演じた名脇役です。
彼の息子たちも俳優になっていますね。
長門裕之そして津川雅彦が、この人の「芸達者」DNAを引き継いで、日本の映画界に確かな足跡を残しています。
さて、本作で個人的に気になってしまった女優がいます。
物語の舞台となる矢場で、 三味線を弾いて客の相手をしている櫛巻きお藤を演じた喜代三という女優。
実はこの人の本職は歌手なんですね。そして、同時に現役の芸者でもありました。
とにかく、彼女の佇まいがなんとも粋でカッコいいんですね。
大人の魅力満載の、江戸時代の「ザ・いい女」です。
この時代のいい女を語る時によく使われる表現に「小股の切れ上がった」というのがあります。
まあ、今風に言えばスラリとした美脚のスタイルのいい女性ということになるわけですが、それに加え、小粋で気っ風がよいというイメージが加わります。
本作には、花井蘭子、深水藤子というお嬢様女優も華を添えていますが、彼女たちの着物の着こなしは、完全にお姫様スタイルです。
もちろん、こちらの方がいいという殿方もいらっしゃるのでしょうが、キレイではありますが、残念ながら色気はありません。
そこへ行くと喜代三姉さんの着こなしは、さすがは現役の芸者だけあって、色気がにじみ出ています。
ほんのりゆるくて、ちょっと崩れている風情に、大人の色香が漂います。
そんな彼女が、客のリクエストがあれば、「あいよ」ってな感じで、ちょっと柱にもたれて、三味線を弾きながら、軽くうなるんですが、これがなかなかシビれます。
個人的には、「芸者遊び」にはまったく縁のない人生でしたが、古い写真を見る限り、わが父親はかなり花街で遊んでいた形跡がありますので、イメージは出来ます。
左膳はこの矢場の用心棒ということで居候をしていますが、事実上はお藤に養われているヒモなんですね。
つまりは、彼女にはそれくらいの経済力もあったということでしょう。
それに、左膳は剣豪ではありますが、言ってしまえば、身体障害者です。
彼女には、そんな男を受け入れる度量もあったということで、そのあたりでもポイントは上がります。
気になってWiki してみたら、彼女は、あの大作曲家の中山晋平の愛人を経て、後妻になったとのこと。
そして、65歳で亡くなった晋平を看取っていますから、最後まで「いい女」だったということでしょう。
孤児ちょび安を連れて来た左膳に、「汚い」だの「いつまでおいておくんだい」などと悪態をつきながらも、結局は面倒を見てしまうというあたりの演技がなかなか上手でした。
こんな古い映画でも、自分好みの「いい女」を発見してしまうと、俄然映画の評価は上がってしまいます。
本作は、2004年に豊川悦治主演でリメイクされています。タイトルは一緒。
お藤役を誰がやっているかと調べてみたら、和久井映見でした。
さて、彼女に果たして元祖喜代三おネエの色気が出せたかどうか。
見る機会があれば確認してみたいところです。
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