井上安治による明治初期の東京の風景木版画が、なかなか良かったので、時代をもう少し遡ってみようという気になり、今回は江戸の風景を描いた一立斎広重の浮世絵を集めた画集を図書館から借りて参りました。
この人は、江戸時代を代表する浮世絵師の1人ですが、僕が学生時代には、安藤広重と教わりました。
しかし、彼は62年の生涯で安藤広重と自ら名乗った事は1度もありません。
一立斎広重というのは、この連作浮世絵を制作した時期の、彼の最晩年の名前です。
現在は歌川広重と言うのが一般的な呼び方になっているようです。
では、まずこの人の生涯をざっくりと追ってみます。
歌川広重が生まれたのは、幕末も近い寛政9年。1797年です。
彼は、本名を安藤重右衛門といい、幼いころから絵心がありましたが、火消しの家に生まれたため、絵師になるのは容易ではありませんでした。
彼は、歌川豊広に入門して歌川広重と名乗り、役者絵や美人画なども描きましたが、師の死後は風景画に専念しました。
彼は最初はなかなか認められませんでしたが、東海道や江戸の名所を描いた「東海道五十三次」が当時の旅行ブームに乗って大ブレイク。
葛飾北斎と並ぶ、風景浮世絵の第一人者として、一遊斎、一幽斎、一立斎などの号を変えながら、生涯にわたって絵を描き続けました。
「名所江戸百景」が制作されたのは、1856年のこと。
彼の作品は、日本だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも高く評価され、ゴッホやモネ、ドガ、ルノワールといった西洋画家にも大きな影響を与えました。
死没は安政5年(1858年)。
享年62歳でした。
葛飾北斎の大胆な構図による風景画は、その奇抜さゆえに、大衆に飽きられるのも早かったようです。
それとは対照的に、広重は、正確な破綻のない透視図法や、新しい画派である円山四条派の写生画風を積極的にとりいれ、浮世絵を離れた新しい画風を確立していきます。
新鮮味を失わず、それでいて刺激の少ない温厚な広重の画趣は、江戸庶民の心をつかみ、この分野の浮世絵師としての名声を、不動のものにしていきました。
特筆すべきは、この時代の浮世絵師が完全に人気商売だったことです。
浮世絵が木版画と言うスタイルを取った理由は、大量複製して、広く江戸庶民たちに販売するためです。
これが、西洋絵画とは決定的に違うこと。
1人の画家が、最初から最後まで筆を握る一点集中主義の西洋絵画とは違い、浮世絵の場合は、絵師、彫師、刷師が分業制で、庶民にも手の届く安価な複製を大量に刷って販売するわけです。
従って、庶民に人気のない絵師はどんどんと消えて行き、人気の絵師だけが生き残ってゆく実力の世界です。
つまりは、芸能界のようなもの。
そんな浮き沈みの激しい世界で、広重は最晩年まで、コンスタンスに売れ続けていたわけですから、彼の感性で切り取った多くの風景画は、江戸庶民の心情の琴線に訴え続けたということでしょう。
とにかく、買い手にウケてナンボの世界ですから、芸術的と言うよりは、多分に商業的な背景を内包して進化していった文化だったという気がします。
世界でも類を見ない庶民目線の芸術が江戸で花開いた事は、現在の日本のアニメのクオリティーが世界最高水準であることと無関係ではないと思います。
いろいろな連作風景浮世絵シリーズを世に送り出してきた広重ですが、彼が最も愛した風景は、江戸だったようです。
この「名所江戸百景」は、彼の最晩年の作品ですが、まさに円熟の極地。
そこに描かれる、自然と人工物のバランスの良さ、そこに絶妙に配置された人物たちの表情の豊かさは、見れば見るほど惹きつけられてしまいます。
カメラなどはなかった時代です。
広重の目に焼き付いた風景は、彼の感性を通し、新たな命を吹き込まれて、当時の空気を今に伝えてくれています。
気に入ったやつを5枚ほどご紹介。
既にパブリックドメインなので、問題はないでしょう。
南品川鮫洲海岸
鮫洲は京浜急行線の駅ですが、僕は子供の頃、その近くの平和島に住んでいました。
深川洲崎十万坪
鳥の視線からの構図が斬新。ヒッチコックの「鳥」を思い出します。
月の岬
左端の障子の向こうにいる遊女のシルエットのなんと色っぽいことよ。
大はしあたけの夕立
西洋絵画では絶対に表現できない浮世絵ならではの雨の描写。
黒澤明は映画「羅生門」で、土砂降りの雨を表現するために、墨汁を混ぜた水を散水機で降らしたと言いますが、案外、この絵がヒントになっていたかも。
山下町日比谷外さくら田
手前の人物は描かずに、持っている羽子板だけを描く構図のなんと斬新なことよ。
この人が現代に生きていたら、旅行系のyoutuberになっていたかもしれません。
宮﨑駿になっていたかどうかは、ウタガワしいですが。
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