社会派シドニー・ルメット監督のなんとも重量感たっぷりの映画です。
ハリウッド映画のような快活なエンタメ性はほぼ皆無。
いかにもニューヨークでつくりましたと言わんばかりの知的で、自虐的で、辛辣なテイスト。
見終わっても爽快感はなく、ドローンとした鬱屈感が靄のようにかかり、得体のしれないデブリがクッキリと体内に残るのがわかりました。
それもそのはず。
本作は、第二次世界大戦のホロコーストを生き延びた中年男が、ニューヨークの裏町で質屋を経営しながら、その恐怖の体験をフラッシュバックさせながら生きていくという物語です。
その男ソル・ナザーマンは、ユダヤ人です。
アウシュビッツ強制収容所で、妻子を殺された彼は、一人生き延びてしまい、大学教授だった地位も捨て、ニューヨークに渡ります。
妻の妹一家と一緒に暮らすナザーマンですが、彼は完全に心を閉ざし、誰であろうと心を開くことはありません。
そんな彼が、世の中で唯一信頼を置くものはマネーのみ。
質屋という商売が、実に効果的にそんな彼の心情を浮き彫りにしていきます。
店には、日銭にも困る客たちが、まがい物を携えて換金に訪れます。
その客とナザーマンの間には、常に金網のネットが横たわります。
この金網が、彼がアウシュビッツで見た、彼と世の中を隔てる鉄条網にも見えるわけです。
ナザーマンを演じているのは、ロッド・スタイガー。
この人は、本作の3年後に、ノーマン・ジュイソン監督の「夜の大捜査線」で、アカデミー主演男優賞を獲得している名優です。
正直あの映画を見たときには、主演男優ならシドニー・ポワチエの方だろうと思ったものですが、この作品を見て納得しました。
本作での、彼の迫真の演技は、まさにアカデミー賞ものでした。
調べてみたら、彼はこの作品で、ベルリン国際映画賞で主演男優賞と、英国アカデミー賞の主演男優賞を獲得していますね。
おそらく、米国のアカデミー賞も、彼の本作での熱演は十分に認めていたのでしょうが、この映画の描くテーマが、あまりにセンセーショナル過ぎて、躊躇したのだという気がします。
1964年といえばまだアメリカ映画界自体が、ユダヤ人問題を正面から描けるほど成熟していなかった時代です。
ましてや、この映画には人種問題や、当時のニューヨークでは当たり前だったゲイの文化も微妙に描かれています。
極めつけは、ヌードですね。
本作は、僕のようなスケベにとってはエポックメイキングな作品でした。
当時はヘイズコードでガチガチに縛られていたアメリカ映画界において、当然のことながら、映画の中で女性のバストを露出ざることはタブーでした。
しかし、シドニー・ルメット監督は、本作におけるヌードは、僕らスケベを喜ばせるためのものではないと主張。
このシーンは、映画の演出上絶対に不可欠なものとしてヘイズコード規制を強行突破。
アメリカ映画史上で一番最初に女性の乳首を、スクリーン上に登場させたエポックメーキングな映画となりました。
(ちなみにヨーロッパ映画では、1950年代からヌードシーンは登場しています)
しかし、監督の言う通り、この作品でのヌードに、エロチック要素は皆無。
どうしても金の必要な黒人女性が、ナザーマンの前でヌードになるのですが、彼の脳裏にはそこからア突然アウシュビッツの光景がフラッシュバック。
そして、ナチの親衛隊の宿舎に裸で待たされるユダヤ人女性たちの中に、彼は自分の妻の姿を見つけてしまいます。
その妻はすでに正気を失って放心状態。
ナザーマンは、黒人女性に金を渡し、服を着させて帰らせます。
これはまさに監督のおっしゃる通り。
このヌードを見て、ニンマリするスケベはいないでしょう。
とまあ、本作は、このヌードも含めて、1964年当時のアメリカでは、あまりにも内容がセンセーショナル過ぎました。
故に、本作でのロッド・スタイガーの熱演はスルーされ、3年後に再びまな板に載せられたという気がするわけです。
「夜の大捜査線」も、人種問題を扱った社会派作品ではありましたが、「質屋」ほど辛口ではなく、映画的なエンターテイメントも溢れた娯楽作品になっていました。
わかります。
こう作らなければ、ハリウッドでは映画にさせてもらえないのでしょう。
これなら、シドニー・ポワチエには申し訳ないけれど、「質屋」の熱演も加味して、今回はロッド・スタイガーが主演男優賞でもいいだろうということになったのではと推測する次第。
いずれにしても、一本映画の中で、一人の男の変遷ぶりを、見事なメーキャプと、アクターズ・スタジオ仕込みの巧みな演技力で表現して見せたロッド・スタイガーは、やはり凄いと言わざるを得ません。
本作には、ニューヨークのロケシーンが多用されています。
これがモノクロ映像とよくマッチしていて、実にリアルで、ドキュメンタリー・タッチに仕上がっていました。
どこをどう切り取っても、煩雑で薄汚いナマのニューヨークが浮き彫りになっています。
ナザーマンの心象風景と見事に重なります。
質屋の内部のシーンも、いろいろなものが雑多に並べられていてカオス状態。
そして客と店を隔てるように仕切られた金網。
これらの風景が、時折挿入されるアウシュビッツのシーンと、違和感なくシンクロしていくんですね。
このあたりの計算された映像は、撮影のボリス・カウフマンの手腕といえます。
「夜と霧」という、ホロコーストのドキュメンタリー映画に衝撃を受けた記憶がありますが、あれを思い出していしまいました。
アウシュビッツのトラウマ映像を巧みな編集で、現在の映像のカットバックする手法も見事でした。
映画前半では、ほとんどサブリミナル効果くらいの短い挿入カットが、映画の後半に行くにつれて、次第にそれが何のシーンであるかが分かるようになっていく構成です。
広島原爆投下を題材にしたアラン・レネ監督の「二十四時間の情事」のカットバック手法も意識していたかもしれません。
Wiki には、「人間不信となって心を閉ざしていた男が絶望から立ち直っていく姿を描いている」と書かれていましたが、見終わってみればこれは完全に違うとわかります。
最後は、自分を師匠としてあがめるプエルトリカンの青年が、自分を撃とうとした不良仲間の銃弾により射殺されてしまうという展開。
その遠因が自分にあることを知ったナザーマンは、伝票受けの針で自分の手を貫こうとしますが、それも出来ずにニューヨークのスラムを彷徨。
申し訳ないですが、本作はどこまでも救いのない映画でした。
Wiki で知った情報がもうひとつあります。
あのモーガン・フリーマンが、スラム街の黒人役でエキストラ出演していたらしいんですね。
これは全然気が付きませんでした。
確認したいという気もしたのですが、さすがに本作を続けてもう一度見るのはシンドいのでやめました。
一度心に焼き付けられたトラウマは、そう簡単にはなくなるものではありません。
一生その人の人生には暗い影を落とすことになるのでしょう。
アメリカに渡って、質屋を開業するくらいではなかなか難しいでしょうね。
これでもし、きれいさっぱりトラウマが、なくなるのだとしたらそれはたぶん。
質流れ・・・
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