道尾秀介は、2004年に長編小説『背の眼』で第5回ホラーサスペンス大賞特別賞を受賞しデビュー。
2007年に本作『シャドウ』で第7回本格ミステリ大賞を受賞。
その後も数々の賞を受賞し、人気作家としての地位を確立しています。
クラシック・ミステリーしか知らないロートル・ファンなので、最近のミステリーは、読書系YouTuber のおすすめ動画を参考にしているのですが、本作の著者・道尾秀介氏を激オシする方はかなり多い印象です。
彼ら(あるいは彼女ら)が、口をそろえて言うのは、緻密な構成と巧みな心理描写で読者を魅了する道尾氏の作家としての手腕。
縦横に張り巡らせた伏線を回収していく鮮やかさと、あっと驚くどんでん返しはこの作家の真骨頂ですね。
特に、少年時代のトラウマや家族の秘密といった日常性をテーマとして扱った作品が人気を集めているようです。
彼を一躍新時代のミステリーの旗手として飛躍させたのは、2005年発表の「向日葵の咲かない夏」でした。
本当は先にこちらを読みたかったのですが、図書館ではなかなか借りられず、先に借りられた本作にて道尾秀介デビューすることにしました。
作者の弁によれば、本作は前作「向日葵の咲かない夏」に対する読者たちからのコメントに応えるつもりで構想を練ったのだそうです。
そのあたりの、作者の意図を知る上でも、前作は近々に手に取るつもりです。
さて、本作「シャドウ」もなかなかの読み応え。
読了後、作者自身のインタビュー動画もチェックしました。
あまり推理作家らしくない若者然とした方でしたが、1975年生まれなので、この人は今年49歳。
Wiki で確認する限りは、精力的に作品を発表し続けています。
2011年には、「月と蟹」で直木賞も受賞しているので、純文学作家としても本格派。
小説家としてのポテンシャルは、かなりのものだと思われます。
動画でも言っていましたが、この方のミステリー作家としての真骨頂はなんといっても巧みな叙述トリック。
このトリックは、密室トリックや、アリバイ・トリックと違い、文章そのものがトリックになっているので、難度が非常に高いもの。作家の腕が問われます。
叙述トリックは、登場人物たちにではなく、読者に対して直接放たれるわけです。
ですからトリックに多少でもほころびが見つかれば、読者からのブーイングは必至。
作者対読者のバトルといってもいいでしょう。
小説というメディアの特性を最大限生かした手法が叙述トリックですので、これは作者自身が「自分は小説家である」という職業に対するアイデンティティを強く意識している結果だと思う次第。
映像化はされにくいことを承知で、このトリックにこだわるわけですから、小説というメディアに対する思い入れはかなりある方だと想像します。
本作にも、見事な叙述トリックが仕掛けられていました。
そこで、読者を「えーっ」といわせてからは、読者をグイグイとラストまで引っ張って行っての、あっと驚くどんでん返し。
読了してみれば、あれも伏線、これも伏線と気づかされて、最後は脱帽。
少年と少女が主人公ということもあり、老人読者としては、ジュブナイルになってしまいはしないかという不安もありましたが、読了してみれば、それも取り越し苦労。
本作は立派な本格ミステリーでした。
小学校5年生の我茂凰介は、進行性の癌の再発で大好きだった母を亡くします。
そして、その直後から、幼い頃に見た幻影に悩まされるようになる凰介。
そんな凰介を支えるのは、父洋一郎。
その後、父の同僚の妻が飛び降り自殺をし、同級生でもあるその娘亜紀が交通事故で怪我を負います。
不幸の連鎖の中で、父洋一郎の精神が徐々に軋み始めていきます。
物語の紹介はこれくらいにしておきましょうか。
叙述トリックありといってしまうと、うかつに物語を紹介できなくなってしまうのが悩ましいところです。
ちょっと角度を変えてみましょう。
本作の最後には、執筆にあたって参考にした文献リストがありましたが、これからもわかるように、本作において筆者がアプローチしたテーマは、精神医療だったことがわかります。
これが物語の骨格にしっかりと組み込まれているので、精神医療に関するなかなか興味深いエピソードが本作では展開されています。
こんなキーワードがありました。
カプグラ・シンドローム。
これは家族・恋人・親友などが瓜二つの替え玉に入れ替わっているという妄想を抱いてしまう精神疾患の一種。
これは、洋一郎のデスクに置かれていた研究論文なのですが、いかにもミステリーの伏線になりそうでニヤリとしてしまいます。
コタール・シンドローム。
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こちらは、自分がすでに死亡している、存在しない、腐敗している、または血液や内臓を失っているという妄想的信念を抱く精神障害。
こんなのも出てきました。
確証バイアス。
仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。つまり一度何かを思い込んでしまった脳は、偏ったエビデンスを集めがちだということです。
自分の幻想の中に出てきた人が死んでいくことに悩んだ鳳介が、それを父洋一郎に相談すると、父は小学校五年生の我が子に、これを諭すようにわかりやすく説明します。
読者はさすが、相模医科大学勤務のお父さんだと感心するのですが、これもまた見事にトリックの伏線でしたね。
そして、本作のタイトル「シャドウ」も、精神医療の文脈で使われる専門用語でした。
本作のクライマックスで出てくるワードで、これはがっつり真相に言及してくるので、ここでの説明は省きます。
この物語に個人的に引き込まれてしまった理由が三つあります。
ひとつめ。
実は、物語の少年と同じように、僕も子供の頃に、進行性の乳がんで母親を亡くしています。
本作の鳳介は10歳の設定ですが、僕の場合はその当時3歳。
母の記憶はおぼろげなのですが、少年期になにかの拍子に母親の映像が脳内でフラッシュバックされるという経験が何度かありました。
なにがきっかけでその現象が起きたのかはわからないままですが、フラッシュバックされる映像はいつも同じでした。
鳳介の母と、自分の母親の姿が、本作を読みながら見事にシンクロしてしまいました。
ふたつめ。
鳳介の母が愛読していたのが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に納められていたのが短編「よだかの星」だったという設定です。
この短編は10ページにも見満たない短編ですが、僕自身去年「あおぞら文庫」で読んで考えさせられた一遍でした。
拙い感想文は、本ブログにも掲載いたしました。
この短い寓話の中で、宮沢賢治の語りたかったことは何なのか。
この小説の中での愛読者である鳳介の母は、よだかは最後に鳳凰になったと信じ、その名前を我が子の名前にしています。
もちろん僕の考えたこととは違いましたが、小説の登場人物を通じて、宮沢賢治を共有した気がして、ちょっと嬉しくなってしまいました。
みっつめ。
これは全く個人的なことで、恐縮なのですが、鳳介の幼馴染で、本作のヒロインといってもいい水城亜紀に関してです。
彼女は小学五年生で、この物語の重要な局面で、初潮を迎えます。
もちろんその経験は僕にはありませんが、大学生の頃、ちょうど亜紀と同じ小学五年生の女の子の家庭教師をやったことがあるんですね。
ちょうどまるまる一年かけたアルバイトだったのですが、彼女の母親からある小冊子を渡されて、頼まれたことがあります。
その小冊子はなんと「初潮の手引き」。
学校から配布されたもののようでした。
これにはさすがにドキリとしました。
その母親にはこういわれました。
「説明しようとしても、あの娘はちゃんと聞こうとしないので、あなたから説明してみて。」
我が家は男三人の兄弟でしたので、この件に関する知識は当時の僕にはゼロです。
やむなく、その小冊子を熟読した上で、その子にとくとくと説明しました。
説明が彼女に伝わったかどうかは不明ですすが、その授業のあと、彼女がポツリと言ったことはよく覚えています。
彼女はこういいました。
「女って面倒くさいね。」
その時、小学校五年生の女の子が吐いた「女」という言葉の響きが、妙に生々しくてドキリとした記憶があります。
その教え子も、今はとっくに熟年女性になっているはずですが、本作の水城亜紀とイメージは、その彼女とがっつり被ってしまいました。
物語に、自分の経験がシンクロしてくると、どうしても引き込まれてしまいます。
その意味では、個人的にはとても貴重なミステリーと出会えたのかもしれません。
いずれにしても、特筆すべきは、この作者の少年少女の心情表現の巧みさです。
僕自身の10歳の頃の記憶を辿りながら、本作を読み進めましたが、いろいろと思い当るエピソードも多くて、グイグイと引き込まれていったのは間違いのないところ。
本作が書かれた2004年当時は、仕事で毎日パソコンと向き合っていましたので、本作に出てくるパソコンや周辺機器の描写はリアルに理解できます。
クラシック・ミステリーには、出てこない小道具なので、やはりこれは新鮮です。
パソコンやスマホなどの機能を活かしたトリックには興味があるところですが、こういったデジタル機器の進歩は日進月歩。
ですので、気の利いたトリックを思い付いても、すぐに陳腐化してしまうリスクはあるのかもしれません。
道尾秀介氏のミステリー作家としての実力を、まずは本作において確認することが出来ました。
次に何を読むか。
道尾氏の作品ラインナップを眺めているだけでも、なんだか楽しくなってきます。
シャドウする?
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