1974年は、まだ中学生でした。
マセた映画オタクでしたので、お小遣いのほとんどを映画鑑賞に費やしていた時代です。
見たい映画があれば、有楽町の映画街まで出掛けていき、ロードショー公開を中学生料金で鑑賞していました。
当時は、映画館の前には、自由に持って帰れる、「近日ロードショー公開」のA4判一枚のチラシがたくさん置いてありました。
そのチラシは映画館巡りをして、全種類持ち帰り、次に見る映画の参考資料にしていました。
インターネットのない時代には、そうやって映画情報をゲットしていたわけですが、収集したチラシの一枚に、本作のチラシもあった記憶です。
しかし、当時本作を鑑賞していなかった理由は、やはり美人女優が出演していなかったことが大きかったと思われます。
本作には、スーザン・サランドンやキャロル・バーネットといった、そこそこのビッグネームの女優も出演していますが、当時中学生のマセガキの目には、残念ながら両名とも、美人としては認識できなかったのでしょう。(ごめん!)ワイルダーとL.A.ダイヤモンドの、職人芸ともいえる脚本の妙をまだ理解出来る年齢ではありませんでした。
本作は、ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーによる1928年の戯曲を原作とした3度目の映画化作品です。
この作品は、ジャック・レモン(ヒルディ・ジョンソン役)とウォルター・マッソー(ウォルター・バーンズ役)の名コンビを主演に迎え、1920年代シカゴの新聞業界を舞台にしたブラックコメディとして制作されました。
ワイルダーは若い頃に新聞記者として働いていた経験があり、その時代の記憶がこの映画には多大な影響を与えています。
1920年代同時、新聞記者という職業は時代の最先端をひた走る非常に魅力的な職業でした。
警察や裏社会とのつながりは日常茶飯事で、かなり刺激的な仕事だったようです。
この映画では、そうした新聞業界の日常や活気がリアルに描かれています。
彼はこの映画を作る上で、ストーリーに独自の工夫を加え、1929年という時代背景を忠実に再現することで、この映画発表当時の現代である1970年代の観客にも通じるテーマ性を付与しました。
ジャック・レモンとウォルター・マッソーの「おかしな二人」以来の再共演(「コッチおじさん」では、マッソー主演でジャック・レモンが監督でしたが)は、本作の大きな魅力のひとつです。
特にレモンはヒルディ役で卓越した演技を見せ、コミカルな場面では圧倒的なパフォーマンスを披露します。
一方でマッソー演じるバーンズは狡猾でエゴイスティックな編集長として強い存在感を放ち、この二人の息の合った掛け合いが映画全体のテンポを支えています。
本作は、その時代背景や新聞業界の描写が評価される一方で、過去の映画化作品(特に1940年の『ヒズ・ガール・フライデー』)と比較すると、いまいちという意見もあるようです。
また、ワイルダーお得意の艶笑ジョークや、粗野な言葉遣いが過剰だという批判もありました。
しかし、それでもなお本作は、ワイルダーならではのブラックな皮肉やユーモアが光る作品として、十分に楽しめる作品に仕上がっているというのが、2025年時点で鑑賞した個人的な感想。
ビリー・ワイルダーとダイアモンドの脚本は、なかなか凝っていて、ユーモアだけでなく、楽屋落ち的な要素も加えてニヤリとさせてくれます。
映画内でウォルター・バーンズが、かつてのスター記者ベン・ヘクトを失ったことにまだ腹を立てているというセリフがあります。
これは、原作戯曲の共同作者であるベン・ヘクトへの直接的な言及であり、彼の新聞記者としての背景を踏まえたユーモラスなオマージュです。
また、ジャック・レモンが演じるヒルディ・ジョンソンがセントバレンタインデーの虐殺について言及するシーンがあります。
これは、ワイルダーが監督した『お熱いのがお好き』(1959年)で描かれた事件で、これをわかっている観客に対するメタ的ギャグ。
ワイルダーとダイアモンドによるこういった脚本の遊び心は、二人の脚本の真骨頂でしょう。
映画冒頭の、タイトルクレジットの背景で展開される、1929年当時の「新聞が出来るまでのいろいろな作業」シーンは、見ているだけで楽しかったですね。
ワイルダーは、1929年という原作の時代設定に忠実であることにかなりこだわったようです。
以前の映画化では、その当時の現代的な設定に変更されていましたが、ワイルダーは、まだ禁酒法時代だったシカゴを舞台にすることで、新聞業界が最も活気に満ちていた時代を再現しました。
この選択は、テレビが主流となり新聞が衰退しつつあった1970年代には特に意味深いものでした。
ウォーターゲート事件(1972-74年)の渦中で製作された同作は、1929年の「速報競争」と1970年代の「調査報道」を鏡像的に照らし合わせているようにも見えます。
スクリュー・ボール・コメディの形式で描かれるシカゴの新聞記者たちの倫理観の欠如(虚偽情報の捏造や被疑者の人権軽視)は、当時『ワシントン・ポスト』が体現した「第四の権力」としての理想像を、舞台裏から意図的にチクリチクリと刺してるのがワイルダーらしいところ。
彼は、マスコミが権力監視機能を獲得した70年代においても、メディアの本質がセンセーショナリズムと商業主義から完全に脱却していないことを風刺しているわけです。
特に、記者たちが死刑囚の脱獄劇を「商品」として扱う描写は、ウォーターゲート報道の崇高さの裏側で続く地方紙の営利主義への批判的視線を示唆しています。
「悪いが、世の中そんな綺麗ごとばかりではないのだよ」といわんばかりのワイルダーならではのシニカルな視線が感じられます。
1976年『ネットワーク』がテレビの大衆操作を告発したように、『フロント・ページ』は報道倫理の源流にある矛盾を、あえて新聞メディアが隆盛だった時代を描くことで歴史的に再現。
時代を超えたその実情を浮き彫りにしました。
パルプ雑誌的な見出し競争を滑稽化することで、情報の質より量が優先されるメディアの原初的暴力性を提示することも本作は忘れていません。
禁酒法時代の政治とメディアの癒着構造(警察スキャンダルの隠蔽工作)が、ニクソン政権のメディア統制手法(記者ブラックリスト作成等)への暗喩としてもきちんと機能しています。
そして、鉛版印刷の物理的制約(訂正不可能性)が、後のテレビ中継の「リアルタイム性」に通じる情報の不可逆性を先取りしていたという深読みも出来そう。
現在ネット上に溢れるクリックベイト記事は、1920年代の煽情主義的見出しと同質であり、TikTok動画による事件の断片化報道は『フロント・ページ』の断章的な事件描写の発展進化系とみることもできます。
メディアの技術革新が繰り返し突き付ける「報道のジレンマ」は、現代にいたるまで連綿と繰り返されています。
1929年当時のペンとタイプライター、1974年当時のテレビ中継カメラ、そして、現代のスマートフォン。
これら時代の最先端装置が更新されるたびに、表面化してくるのは、速報性と正確性のトレードオフ、広告収入と公共性のバランス、個人のプライバシー権と公知権の衝突などなど。
メディア環境が変容しても、情報伝達者の倫理的選択の重要性が減じないことを、この映画は1920年代のマスメディアを描くことで逆説的に証明しているわけです。
言い換えれば、本作の時代設定は「メディアの進歩史観」へのアンチテーゼとして機能していのるかもしれません。
個人的には、新聞も読まなくなり、テレビ放送も全く見なくなってから、ほぼ20年が経ちました。
YouTube 動画がもっぱらの情報ソースになっている今日この頃です。
それで特に、時代から置いていかれているという実感はありませんが、自分の意志で情報を取りに行っているという自負から、知りたい情報だけをクリックしていると、仕込まれているアルゴリズムが働いて、気がつけばYouTubeのサムネイルの一覧が、同じような情報ばかりになってギクリとすることがあります。
YouTubeの「フロント・ページ」は、意識して多様化していかないと、結局はテレビ情報の刷り込み効果と同じことになってしまうのかもしれません。
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