この映画は、恥ずかしながら見逃していましたね。
あまりにも有名な、本作のスチール写真は、あちらこちらで見ていましたので、すっかり見た気になっていましたが、未見でした。
映画『甘い生活』(原題:La Dolce Vita)は、1960年に公開されたフェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画で、映画史においては重要な意味を持つ作品の一つとして広く評価されています。
この映画は、ローマの上流階級やセレブリティたちの退廃的な生活を描きながら、現代社会の道徳的空虚さや消費主義への批判を込めた作品として知られています。
主人公のマルチェロ・ルビーニ(マルチェロ・マストロヤンニ)というゴシップ記者を狂言回しにして、彼が7日間にわたりローマで体験する出来事を網羅的にスケッチしていきます。
彼は華やかなパーティーや刹那チックな恋愛関係に身を投じながらも、その実、自分の人生に対する不満や空虚感に苛まれています。
この映画は、見方を変えれば、彼が自己実現や本当の幸福を追求しようとする葛藤を描いている映画とも言えます。
映画の中では、ローマの名所(例えば、トレヴィの泉)や豪華なホテル、カフェなどが舞台となり、フェリーニならではの妖しげで美しい映像美が随所にみられるのが特徴。
また、「パパラッチ」という言葉がこの映画から生まれたことは、映画ファンなら知っている人も多いと思います。(写真家パパラッツォというキャラクターに由来)。
本作はフェリーニ自身の心象風景を映像にしたような象徴的なシーンで、溢れかえっています。
特に有名なシーンは、アニタ・エクバーグ演じるシルヴィアがトレヴィの泉でマルチェロと戯れる場面。
恥ずかしながら「おっぱい星人」である僕にとってこのシーンは、まるで夢のような映像体験でした。
フェリーニ監督は、映画の撮影中、アニタ・エクバーグを、「天からの贈り物」と褒めたたえ続けたそうです。
プレイボーイのマルチェロマストロヤンニは、結局この共演をきっかけに彼女をガールフレンドにしてしまったようですから、監督の心中はいかばかりだったか。
とにかく、後の彼の映画を見ても、この監督の女性の趣味は、僕と似ているなと、まずはニンマリ。
また本作においては、全体のテーマでもある退廃、そしてそれと表裏一体の魅惑的な大人のファンタジーが、見事に映像化されています。
一方で、この映画は単なる華やかさだけでなく、その背後にある空虚さや人間関係の脆弱さも克明に描き出していきます。
『甘い生活』は公開当時から賛否両論を巻き起こしました。
大胆な表現や宗教的要素との対比が一部では物議を醸し、バチカンからも非難されました。
しかし、その後、多くの映画賞を受賞し(カンヌ国際映画祭パルム・ドール)、現在ではフェリーニ監督の代表作としてつとに有名。観客が映画の中に求めるものは、いつの時代も、倫理よりは娯楽なのだと言うことでしょう。
本作は、ネオリアリズモの土壌から生まれながらも、現実を歪め、拡張することで逆説的に真実を照射するというアプローチを体現した傑作です。
オープニングでヘリコプターが吊り下げたキリスト像がローマの街を横切るシーンは、崇高な信仰がメディア社会のスペクタクルに変質した現実を痛烈に風刺しています。
カメラが地上のビキニ姿の女性たちへと切り替わる構図は、神聖と世俗の倒錯を視覚化。
ネオリアリズモが重視した「客観的事実」の描写を超え、キリスト教文明の形骸化という「本質的真実」をグロテスクな比喩で抽出しています。
アニタ・エクバーグ演じる女優シルヴィアがトレヴィの泉で戯れる伝説的シーンは、一見ロマンティックな幻想に満ちています。しかし、その水遊びが夜明けと共に廃虚的な空気に変容する様は、メディアが創り出す「偽りの神話」の脆弱性を露呈。
フェリーニがカメラを意図的に不自然なアングルで傾ける演出は、美の表象下に潜む精神の荒廃を、歪んだ鏡のように映し出しています。
貴族の別荘での狂乱のパーティー後、浜辺に打ち上げられた謎の怪物魚は、ある意味では作品全体の思想的結晶です。
ネオリアリズモ流の自然主義的描写を拒否し、現実には存在しない幻想的な形象を用いることで、退廃的社会の「腐臭」を嗅覚的に伝達。
参加者たちが茫然と怪物を眺めるラストは、人間性の死を告げる黙示録的イメージとして、どんなリアルな描写よりも強烈なメッセージ性を獲得しています。
マルチェロを慕う少女の笑顔で映画が終わると言うのが、本作のせめてもの救いです。
主人公マルチェロが有名人を追うカメラマンの補助に回るシークエンスでは、彼自身が社会の「覗き見装置」の一部となる過程が象徴的に描かれます。
フェリーニは観察者が徐々に観察対象の腐敗に侵食されるプロセスを丁寧に描きます。
そして、レンズを通した「客観的記録」という幻想を崩し、デフォルメされた主観性こそが真実に迫る手段であることを明確に示唆しています。
フェリーニの手法は、現実を「そのまま」写すのではなく、現実が内包する矛盾を増幅させる蒸留装置として機能します。
本作のグロテスクなまでのデフォルメは、1960年代の消費社会が孕む空虚を、当時まだ顕在化していなかったレベルで先取り的に可視化しました。
この映画が「予言的」と言われる理由は、フェリーニが表面的事実の裏側にある「未来の亡霊」を、見事にフイルムの中に捉えていたからでしょう。
まさに「リアルな嘘」よりもデフォルメされた真実こそが、この先の彼の映像表現の武器になって行くことを決定的にした、彼のキャリアの中では、記念碑的な作品と言えるでしょう。
映画人として、ネオリアリズムから出発したフェリーニでしたが、彼は本作で完全にネオリアリズムとは決別。
その背景には、1950年代に奇跡の経済成長を遂げたイタリアのが病根が凝縮しています。
本作の女優陣の中では、何といってもアニタ・エクバーグのグラマラスが肢体ばかりが強調され過ぎて忘れ去られがちですが、もう1人、ヨーロッパ映画界を代表する絶世の美女アヌーク・エーメも出演。
いい女盛りの魅力を振りまいて、マルチェロを翻弄させています。お忘れなきよう。
そういえば、昭和の時代に野口五郎が歌った「甘い生活」と言う歌謡曲がありました。
♩
愛があればそれでいいと甘い夢を始めたが
まあ、この歌を色男マルチェロ・マストロヤンニに聞かせても、鼻で笑われるのが関の山でしょう。
「それって、ほんとに必要?」
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