本作は『このミステリーがすごい!』と『ミステリが読みたい!』という日本最大級のミステリーランキングでダブル1位を獲得。2020年の発表のミステリーとしては大きな注目を集めた作品です。
この年は、コロナ騒動2年目にあたりますから、多くの人が外出を控えて、自宅に引きこもっていた時期。
その意味では、読書需要がたかまっていた時期であることは推測されますので、インスタント・ミステリー・ファンの目にも多く止まったことは推測されます。
本作は、呉勝浩による極上のリアルタイム・ミステリー小説。
爆弾をメインに据えた、緊迫感あふれるタイムリミット・サスペンス小説です。
謎の男「スズキタゴサク」と警察との心理戦を中心に展開され、読者を最後まで引き込んでゆくストーリー展開が尋常ではないサスペンスを産んでいます。
物語は、些細な傷害事件で逮捕された中年男スズキタゴサクが、取り調べ中に「10時に秋葉原で爆発が起きる(気がする)」と予言するところから始まります。
最初は相手にしていなかった野方署の刑事たち。
しかし、その予言通り、秋葉原の裏通りの廃ビルで、爆弾が炸裂します。
スズキはさらに「次は1時間後に爆発する」ということを、自分の予知能力による予言だと称して刑事たちに告げます。
警察は彼の言葉を信じざるを得なくなり、スズキの予言に振り回されながら、次々と迫る爆発の危機に対応させられてゆくことになります。
爆発を止める術は、スズキから予言を引き出す以外にないと言う緊迫した状況。
世捨て人スズキは、自らの存在を卑下しながらも、相当したたかです。
彼は尋問に当たる刑事たちを挑発しながら、確実にマウントを取り、ゲームを仕掛けてきます。
スズキは取り調べ室でクイズを持ちかける一方で、その風体からは考えられない巧妙な話術で警察を翻弄し続けます。
彼の目的は何か?その正体は?
本作では、取り調べ室における、スズキと警察のやり取りが物語の大部分を占めます。
それに加え、警察官たちそれぞれの人間模様や葛藤も過不足なく描かれており、単なるサスペンスだけにとどまらない深みのある群像劇にもなっています。
AIリサーチによれば、著者である呉勝浩は、日本で活動する韓国国籍の小説家です。
青森県八戸市出身で、大阪芸術大学芸術学部映像学科を卒業しています。
彼の作品は緻密なプロットと人間心理の深い描写が特徴とのこと。
人間の内面に潜む弱さや悪意、理不尽な現実に対する葛藤と向き合い方が、本作でも克明に描かれていきます。
倫理や道徳、損得を超えた価値観が問われ、登場人物たちが切羽詰まった状況下でどのように行動し、選択をしていくかが、絶妙な心理描写でドラマチックに描かれていきます。
そして、彼らが抱えるトラウマや真実を追求する姿も描かれ、人間の本性や社会的な視線との葛藤が浮き彫りにされていきます。
人間の弱さやズルさといった負の側面も物語には、色濃く反映されています。
そこにはわかりやすい勧善懲悪はなく、誰もが犯罪者と紙一重で、状況次第では誰もが一瞬にして犯罪者になり得るという人間の心の闇を鋭くえぐっていきます。
極上のエンターテインメント性を保ちながらも、哲学的なエリアまで深く掘り下げられたテーマ性もあり、タゴサクという人を食った容疑者の名前が、次第に不気味さを帯びてくるわけです。
常に不穏な空気を孕みつつ、物語は予測不可能な展開へ。
そして、作者の秀逸な叙述トリックに騙されながら、物語は思いもよらないラストへ・・
実は本作を読みながら、このスズキタゴサクが、かつて見た映画のある登場人物と次第に被るようになってきました。
さてそれは誰か。
デビット・フィンチャー監督の「セブン」と言う映画を覚えていらっしゃいますでしょうか?
この映画では、ジョン・ドウという前代未聞のシリアル・キラーが描かれていました。
彼の犯す殺人には「儀式性」と「象徴性」がありました。
七つの大罪(傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲)をテーマに犠牲者を選び、罪に対応する「罰」をその殺人手法として演出。犯罪そのものを宗教的審判のメタファーに昇華させ、社会の道徳的退廃を告発するという展開です。
これに対して、スズキタゴサクはどうか。
彼の場合は、世間から見捨てられたというルサンチマンを、無差別テロという報復行為によって消化させようとしてはいるのですが、それは爆発の「物理的破壊」が、現代社会の脆弱性や矛盾を暴く象徴的行為として機能させているようにも見えます。
いずれにしても、犯罪行為そのものを、社会へのアピールとして利用しているわけです。
では、動機はどうか?
ジョン・ドウの場合は、個人の怨恨ではなく、「人類全体への失望」が動機です。
自身を「神の代理人」と位置付け、社会の浄化を使命とするというかなり病的なもの。
スズキタゴサクの場合は、「神の代理」とまではいかなくとも、その犯行動機には、特定の組織や個人への復讐ではなく、社会システム全体への抗議が内包されています。
私情を超えた「理念」に基づく犯罪である点は一緒です。
そして、二人の犯罪者の最大の共通点は、犯罪行為を「知的ゲーム」と捉えている点。
ジョン・ドウは、ミルズ刑事(ブラッド・ピット)とサマセット刑事(モーガン・フリーマン)を挑発し、彼らを自身の犯罪に誘導することで、最終的に彼ら自身を計画に組み込むという離れ業をやってのけます。
そうすることで、事件は犯人逮捕で終わらず、社会への衝撃を最大化することになるわけです。
彼の計画には、それがはじめから組み込まれていました。
スズキタゴサクも然り。
彼はこのゲームを自身が最大限楽しむために、爆弾計画を利用しています。
捜査陣の推理を逆手に取る仕掛けや、メディアを通じたメッセージ発信を行うという展開。
素人に実現可能な技術的知識を最大限駆使した高度な犯行手法。
両者には、明確な共通点があります。
それは、自分が単なる犯罪者ではないことを強調するために、きく「対戦相手」を明確にしていこと。
そして、自分の命と引き換えにしてまで、その勝利にはとことんこだわっている点です。
ジョン・ドウは、自身の死を含めた完璧なシナリオを遂行。シナリオ通り、ミルズ刑事を「憤怒」の罪に堕とすことで、人間の弱さを証明してみせます。
スズキタゴサクは、解除不能な爆弾を一つ残すことで、自身の死と引き換えに、全都民を人質にとります。
犯罪者が「作者」となり、物語の結末を支配するという見事な構成。
結局、どちらの物語も、社会の病理は永遠に解決されないことを示唆したまま終了します。
両キャラクターに共通していえることは、二人を単なる悪役ではなく「社会の暗部を映す鏡」として機能させていること。
彼らの犯罪は、観客/読者に「この社会は本当に健全か?」という問いを突きつける秀逸な装置となっているわけです。
ジョン・ドウがキリスト教的審判の思想に根ざすのに対し、スズキタゴサクの動機はより世俗的かもしれません。
しかし両者はともに、「正義の仮面を被った狂気」というアンビヴァレントな存在である点では同じ。
その犯罪は単なる凶行ではなく、社会に対する痛烈な哲学的主張として機能し、作品に深いテーマ性をもたらしているわけです。
しかし、当然のことながら、どれほどそこに、高度な社会へのアンチテーゼを忍ばせようとも、殺人という行為の犯罪性を正当化することにはなりません。
それは重々に承知しつつも、そのギリギリの線にあえて切り込み、読者をパニック状態にして、酸素欠乏を引き起こしたうえで、その解答は読者に委ねるという作者の挑戦的な筆致は心憎いまで。
はたして、あなたの心の中に、ジョン・ドウやスズキタゴサクは存在するのか。
もしもそれに対して「冗談でしょう」ととぼけるのなら、残された最後の一個の爆弾は、あなたの心の中で「爆発」するのかも。
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