「過ちは繰り返しません」
日本では、この慰霊碑に刻まれた文の主語は「私たち人類」であると広く解釈されています。
これは、国や立場を超えて、二度と核戦争という過ちを犯さないという、未来に向けた人類全体の決意を表すものと捉えられています。考案したのは、当時の広島市長だった浜井信三氏。
「誰が」過ちを犯したかを問うのではなく、「誰もが」繰り返さないと誓うことに重きが置かれます。
では、アメリカではどうか。この碑文はアメリカでは一般的に知られていませんが、この言葉に触れた場合、その解釈は日本のそれとは異なる可能性があると思います。
原爆投下を「正当な行為」と捉える文脈からは、この「過ち」は原爆投下そのものを指すのではなく、戦争を始めた日本の過ちと解釈されることもあります。
つまり、主語を「日本」と捉え、日本が戦争という過ちを繰り返さない誓いと受け取る視点です。
もちろん、この傾向に異論を唱える人たちも、アメリカには多数存在します。
しかし、公教育で教わった原爆の意味をそのままに理解しているアメリカ人が一般的であることは事実。
そんな人たちから見れば、この碑文の文句は、被爆国日本からの、最大級の皮肉と受け取られているのかもしれません。
いずれにしても、アメリカ政府は広島・長崎への原爆投下について、これまで公式な謝罪を表明していないことは事実です。
アメリカ政府関係者や大統領(オバマ氏を含む)は過去に広島や長崎を訪問したことはあるものの、慰霊や平和への思いを示す発言はあっても、「謝罪」は明確に避けてきました。
では、人類はこの過ちを、二度と犯さないと言い切れるのか。
ロシアとウクライナの戦争は、一向に収束を迎える気配がありません。
ウクライナが核兵器を「持たざる国」なのに対し、ロシアは現在、世界一の核保有国。
(AI 調べ。2025年最新データによる。)
プーチン大統領は、「核兵器の使用をほのめかす発言」を度々行っていますが、2025年5月の国営テレビインタビューでは「ウクライナへの軍事攻撃で妥協を使う必要性はなかったし、今後もその必要は考えていない」と明言しています。
ウクライナ及び国際社会への威嚇以外のなにものでもありませんが、はたして、プーチン大統領自身に、いざとなれば核兵器を使用する意志と覚悟はあるのか。
長引く戦争で、両国の人的被害は膨れ上がっています。
原爆完成の報を聞いたトゥルーマン大統領が、1945年の8月に、原爆投下を決定した際に用いた大義名分「これ以上自国兵士の犠牲を増やさない」を、ロシアはすでに満たしていると考えることも可能です。
ウクライナは、戦争当初、ロシア本国への攻撃には慎重でしたが、長引く戦争により、ドローンやミサイルを使ったロシア本土攻撃も辞さない構えになってきました。
これがエスカレートすれば、ロシア側が専守防衛のためと判断して、これを核兵器使用の大義名分に利用する可能性はあります。
もちろん、その可能性をウクライナのゼレンスキー大統領が考えないわけはありません。
ロシアに核兵器を使用させて国際世論に訴えるという策略を、もしもゼレンスキー大統領が考えているとしたら、核兵器を「持たざる国」の彼も、事実上、核兵器のボタンを持っているのと同じことです。
戦争という異常状態の中で、プーチンとゼレンスキーという二人の国家元首が、いつまで正気を維持できるのか。
殺し合いは必ずエスカレートするもの。最終的には大義名分もへったくれもありません。
いずれにせよ、使用されるされないに関係なく、この戦争状態に決着をつけることが出来る核兵器が、ロシアの手の中にあるということだけは事実です。
「オッペンハイマー」という映画を最近 Amzon プライムで見たところですが、一度完成してしまった原爆は、もはや、それ自体が意志を持ったフランケンシュタインのモンスターのように、複雑の政治機構の中に取り込まれ、独り歩きを始めます。そして、最終的には、開発者には手の届かない存在になってしまうんですね。
おそらく原爆保有国ロシアにも、プーチン大統領がその使用を決定するまでには、何段階もの安全システムが構築されていると思いたいところ。
そのセキュリティ・システムは、ヒューマンエラーよる誤作動を徹底的に排除するように作りこまれているはずですが、はたして、このシステムが想定していないことが起きてしまう可能性はないのか。
考えてみれば、ロシア(旧ソ連)は、チェルノブイリの原発事故を徹底的に隠ぺいした国です。
現在、この国の核兵器周辺で何が起こっているのかは、我々にはわかりません。
その意味では、このは戦争も、核兵器の使用についても、我々にとって、決して対岸の火事ではないということでしょう。
最近読み終わったジャレッド・ダイアモンド氏の大著「銃・病原菌・鉄」の中に、興味深いことが書いてありました。
「必要は発明の母」
これを言ったのは、イギリスの作家ジョナサン・スウィフト。小説『ガリバー記旅行』の中に記載された表現です。
発明王エジソンは、このフレーズがとてもお気に入りだったようで、ちょくちょく流用していたので有名になった言葉です。
しかし、「銃・病原菌・鉄」の著者ジャレッド・ダイアモンドは、実はそうではないといいます。
「実際の発明の多くは、人間の好奇心の産物であって、何か特定のものを作り出そうとして生み出されたわけではない。」
つまり、発明をどのように応用するかは、そのほとんどが、その発明がなされた後に考え出されているのが人類の歴史だというわけです。
そして、一般大衆が、発明の必要性を実感できるのは、その発明がなされてから、かなり長期にわたって使い込まれた後でのこと。
数多ある発明の中には、その当初の目的とは全く違う別の目的で使われるようになったものも多いという事実があります。
飛行機や自動車をはじめとする、近代の主要な発明の多くは、その例に漏れません。
内燃機関、電球、蓄音機、半導体にいたっては、発明された当時は、これをいったいどういう目的で使用すればいいのかわかっていませんでした。
つまり、「必要は発明の母」ではなく、歴史が物語るのは、「発明こそが必要の母」だったというのが、ダイアモンド氏の主張です。
蓄音機はエジソンの発明として有名ですが、当初これを発明したエジソンによる使い道リストに、音楽の再生は含まれていませんでした。
しかし、この発明をジュークボックスに利用するものが現れると、蓄音機の需要は格段に増え、エジソンもしぶしぶその用途を認めたという話。
彼が、この蓄音機を発明してから、20年もの月日が経ってからのことでした。
ニコラス・オットーが内燃機関を発明してから、バイクを経て、トラックが馬や荷車に置き換わるようになるまでには、50年の月日が必要でした。
つまり、必要があろうとなかろうと、人間のという生き物は、自らの関心や好奇心が赴けば、新しい技術の発明には躊躇しない本能があるということ。
従って、発明や新しい技術は、必要に応じて発明されるものではなく、発明された後に用途が見いだされることが多いと考えるべきなのが妥当というわけです。
では、これを踏まえたうえで、核兵器の開発について考察してみます。
マンハッタン計画は、「ナチス・ドイツの原爆開発阻止」という明確な軍事的必要性から始まりました。
しかし、その背景には科学者の好奇心が核分裂現象を解明したという事実もあり、計画の推進にはこの両者は不可欠でした。
核分裂現象は1938年、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンによる実験で発見されました。
しかし、彼らはその軍事応用を意図していたわけではなく、純粋な原子核研究の一環の中で発見されています。
リーゼ・マイトナー(彼らの共同研究者)は「核分裂」の理論的解明に貢献しましたが、彼女自身はナチスから逃れたユダヤ人科学者であり、兵器開発には関与しませんでした。
そして、第二次世界大戦が始まります。
1939年、レオ・シラードら亡命ユダヤ人科学者は、アインシュタインの署名を得てルーズベルト大統領に「ナチスが原爆を開発する可能性」を警告する手紙を送りました(アインシュタイン=シラードの手紙)。
これがマンハッタン計画の発端となり、核兵器開発は、「必要は発明の母」という雛型の典型例となるわけです。
エンリコ・フェルミは中性子研究でノーベル賞を受賞しましたが、米国移住後は「ナチスの脅威」を理由にマンハッタン計画に参加。
彼は「核分裂の制御」に成功(世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」)しましたが、戦後は水爆開発に倫理的懸念を示しました。
フェルミの行動は「好奇心→脅威認識→必要の創出」というプロセスを体現しています。
つまり、原爆の開発は多くの物理学者の好奇心を揺さぶりましたが、その実行には誰もが自分なりの大義名分を必要としたこと。
なぜなら、開発してしまえば、原爆の使用目的は一つしかないからです。
1944年以降、ナチスの原爆開発が不可能と判明すると、「戦争終結」という大義は空洞化しました。
こうなれば、マンハッタン計画を遂行する目的は失われます。
しかし現実はどうであったか。
これは、映画「オットペンハイマー」にも描かれていましたが、計画が中止されることはなく、継続されました。
イギリス人物理学者ジョセフ・ロートブラットは、1944年にマンハッタン計画から離脱しています。
彼はグローブス将軍の「原爆の真の目的はソ連抑圧だ」という発言を聞き、違和感を感じたと述べています。
ニールス・ボーアも「核エネルギーが東西冷戦を招く」と警告し、ロートブラットらに影響を与えました。
そして、ドイツの敗戦。
開発の目的喪失後、科学者の良心が開発継続への疑問を生むことになります。
果たして、対戦国の敗戦が明確になった段階で、原爆はアメリカにとって必要だったのか。
日本を降伏させるのに原爆が必要だったのか。
ルーズベルトとチャーチルは「原爆をソ連への威嚇兵器(原爆外交)に利用する方針」を固めていました。
つまり、原爆は、軍事的必要性が消えても、政治的目的で開発はむしろ加速されたわけです。
計画のリーダーだったロバート・オッペンハイマーは、原爆投下後トルーマン大統領に「私は手が血塗られている」と告白しました。彼は水爆開発に反対したため公職追放され、「科学的好奇心が生み出した兵器」の倫理的責任に苦しみました。これは映画の中でもしっかりと描かれています。
核兵器の「目的なき開発」は、是か非か。
戦争終結目的が最初からなかった場合、マンハッタン計画の遂行は困難だったと推測されます。
マンハッタン計画には20億ドル(現在価値で約250億ドル)と13万人が投入されました。
学者たちの好奇心を満たすという目的だけでこれらを集めるのは、非現実的です。
例えば、ウラン濃縮技術は軍事的緊急性がなければ、小規模研究段階で停滞した可能性が高いはず。
参加科学者の多くは「ナチス阻止」を大義としていました。
この目的がなければ、ロートブラットのように離脱する者が増え、「純粋研究」に戻ったことは想像に難くありません。
フェルミも「原子炉開発」は継続したかもしれませんが、兵器化には消極的でした。
ウラン235の濃縮にはガス拡散法などの複雑な技術が必要で、軍事目的がなければ実用化は遅れたでしょう。
実際、原爆開発の核心技術だった「爆縮レンズ」の理論は、目的がなければ応用研究が進まない分野でした。
但し、核物理学自体は好奇心駆動で進展したため、原子炉や放射性同位体の医療応用など平和利用は進んだ可能性があります。
例えばフェルミの原子炉研究はエネルギー生成を視野に入れており、これは「発明が需要を創出」した例と言えます。
話をまとめると、軍事的必要性がなければ、マンハッタン計画レベルの開発は実現しなかったというのが結論です。
資金・人材・技術的ハードルを越えるには「国家存亡の危機」という目的は不可欠でした。
しかし核兵器のアイデアは、『好奇心駆動型発見』が生み出したと考えることも間違いではありません。
ハーンやフェルミらによる核分裂研究がなければ、原爆は構想すら生まれませんでした。
結論から言えば、「発明(核分裂の発見)が必要(原爆開発)の母」となったことは事実です。
オッペンハイマーらが核廃絶を訴えたように、科学技術は応用段階で倫理的選択を迫ります。
AIや遺伝子編集も「好奇心→発明→需要創出」のプロセスをたどりうるため、用途の見極めが重要です。
物理学者エンリコ・フェルミがこう言っています。
「核エネルギーの発見は必然だった。だがその使い方は人類の選択だ」
マンハッタン計画は「目的」が技術を加速させる力を示すことを明らかにしました。
一方で、科学者の良心が「用途」を問い直す必要性も教えてくれます。
新しい発明や技術革新は、人間がそれをやる以上、本能に突き動かさられることは否めません。
その創造的エネルギーは、時として、倫理や善悪を呑み込んでしまうものと考えておくべきでしょう。
新しい発明は、人間の好奇心が駆動する限り、必ず不可逆的です。
ですから、大切なことは、出来てしまったものは、その応用の段階で、必ずクールダウンすること。
これが肝でしょう。
そして、いろいろな角度からの知見に触れさせること。
ここで一度正気に戻らないと、広島や長崎の悲劇は必ず繰り返さることになります。
技術が進歩するなら、それに合わせて、それを使う側も進歩していかなければならないのは当然のこと。
もしも、今を生きる人たちが、その発明にうつつを抜かして今を謳歌していると、我々は未来を生きる人たちにツケしか何も残せません。
核兵器を一人歩きさせてしまうと、たぶん人間にはコントロールできなくなります。
つまるところ、人間の好奇心ごときに殺さてしまうんでは、たまったもんじゃないということです。
ちなみに、この文章は、AIに協力を相当仰いでいます。
彼らの言う事は面白みには欠けますが、かなりまともです。
でも、使いながら、ふと頭をよぎったことが1つ。
お前らまさか、一人歩きはしないよな。
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