「このミステリーがすごい!」によれば、2024年度のミステリーでぶっちぎりの一位だったのが本作。
今年の初めに図書館で予約したらなんと72番目。
およそ半年待って、やっと順番が回ってきました。ありがとうございます。
この間、読書レビューや紹介動画などによる事前情報は極力スルーして、本作についてはまっさらな状態にしておきました。
タイトルから勝手に連想していたことは、企業ミステリー。
僕の年代では、グリコとくればすぐに思い浮かべるのが、やはりグリコ森永事件です。
お菓子の会社が、地雷で脅される内容を想像していました。
最近読んだ「爆弾2 法廷占拠」の影響があったのでしょう。
ところがふたを開けてみれば、「地雷グリコ」のグリコは、なんとあのじゃんけんグリコのグリコ。
舞台となるのは、埼玉県の高校で、主人公は16歳と半年という今時の女子高生。
しかも、登場人物のほとんどは高校生ですから、これはもはやジュブナイルといってもいい小説で、66歳のミステリー・ファンとしては、少々面食らいました。
これで、タイムリープなどのSF設定が出てきたら、正直本を閉じようと思いましたが、本作はさにあらず。
「坊主めくり」「ダルマさんがころんだ」といった、年寄りでも多少は馴染みのあるお遊びにひとひねり加え、プレイヤー同士の丁々発止の頭脳戦に昇華させた新感覚のゲーム・エンターテイメントでした。
作者は青崎有吾氏。
1991年生まれといいますから、今年34歳。案の定、若手の俊英でした。
明治大学文学部卒業で、これもまた案の定ミステリ研究会の出身。
2012年に『体育館の殺人』で第22回鮎川哲也賞を受賞し、史上初の平成生まれの受賞者として小説家デビューを果たしています。
このデビュー作品は、けっこう評判が良かったので、チェックはしておりましたが、彼の作品を読むのは、今回の大ヒット作品の方が先なってしまいました。
執筆作品を見ると、学園ものミステリーは作者の得意分野のようで、「体育館の殺人」の高校生主人公・裏染天馬の活躍は、後にシリーズ化されています。
ただ個人的には、学園ミステリーは、設定やキャラクターが非現実的なことが多く、イジメや学校内ヒエラルキーというネガティブな題材を扱うことも多いので、意識的に避けていたところがありましたね。
しかしながら、本格的なロジックと魅力的なキャラクター造形を持ち味として、筆者は「平成のエラリー・クイーン」とも評価される強者。
論理的な謎解きに焦点を当てた卓越した作品作りは、本作にも如何なく発揮されています。
特殊設定の中でプレイする極限状態下の登場人物たちが、理詰めと騙し合いのバトルを繰り広げる「究極の読者挑戦型ミステリ」といえば想像がつくでしょうか。
よくよく考えてみれば、こんなハードな頭脳戦が、高校生の一学年にも満たない期間内に、こうも立て続けに起こることなんてあるわけないと思ってしまうのですが、それを感じさせないのは、作者の憎いまでのストーリーテリングの上手さによるもの。読み終えてみれば、これには唸らされます。
緊迫感とドラマ性、そして、各バトルごとの秀逸などんでん返しは、まさに本格ミステリーの名にふさわしいものでした。
物語の舞台は都立頬白高校。主人公は射守矢真兎(いもりや・まと)。
普通の女子高生なのですが、実はとても高い頭脳と勝負勘を持つ少女です。
彼女が様々なオリジナルゲームで知略のバトルを繰り広げることになる連作ミステリーというのが本書の構成。
どんなものか、タイトルにもなった「地雷グリコ」だけ紹介しておきます。
お馴染みの「じゃんけんグリコ」に、オリジナル・ルールが加えられたものが「地雷グリコ」です。
これは、階段(全46段程度)を舞台にジャンケングリコ形式で対戦。
グー・チョキ・パーの勝ち手ごとに進む段数が決まっている点は普通のグリコと同じです。
そしてここに加わるのが「地雷」の要素。
各プレイヤーは階段の好きなセグメントに「地雷」を各自3カ所ずつ設置できます。
そしてこの地雷には、相手がその段に止まると、そこから10段下がらなければいけないというペナルティがつけられます。
地雷をどこに隠すか、相手はどこにしかけると読むか。
これだけのオリジナル・ルール追加で、ただの「じゃんけんグリコ」は、プレイヤー同士の心理戦・頭脳戦が激しく衝突する緊迫感あふれるバトルに変身するわけです。
本作に登場するいずれのゲームにも言えることですが、主人公絶体絶命のピンチからの大逆転という、絵にかいたようなカタルシスが、都合5回も味わえるという贅沢な内容。
そして、すがすがしいまでのラスト。
確かに、こんなエンターテイメントは、高校時代にしか味わえない醍醐味なのかもしれません。
カタルシスといえば、本作はけっして品行方正なゲームバトルというわけではありません。
審判が認める範囲内でいかにルールの裏をかくかというイカサマ合戦という側面も持っています。
特にこれは、後半に顕著なのですが、ゲーム先立って行われるルール説明の裏に張り巡らせている伏線の数々は、そのまま読者への挑戦状になっているといっても過言ではないかもしれません。
「おお、その手があったか」という展開も、結構なカタルシスでした。
「現実の勝負は、盲点を突いたものが勝つ。」
本作の中で見つけた一文ですが、こういうゲームバトルの本質を言い当てていると思いました。
要するに、敵の頭に思い込みを刷り込めた者が、勝負を支配できるということ。
いかにして、相手にとっての予想外をゲームの中に仕込めるか。
その意味では、こういうゲームの達人は、頭が硬直化した年配者たちよりも、より頭脳が柔軟な若者に軍配が上がると言われれば、これは大いに納得出来るところ。
世の中、経験値の豊富さが全てではないといわれれば、老人としては、もはやグーの根も出ません。
「人生はゲームではない。」
そして、作者は主人公の女子高生に、こんなことも言わせています。
南佳孝の「スローなブギにしてくれ」の、「人生はゲーム」という歌詞に痺れたおじさん世代にとっては、これは実に耳の痛い一言。
このあたりのバランス感覚の取り方も、この作者はよく心得ています。
ヒロイン真兎の「地雷グリコ」における必殺勝利のパターンを、最近齧ったゲーム理論の見地から考察してみます。
『地雷グリコ』のルールに込められた戦略性の工夫は、以下の点が挙げられます。
まず、相手の思考を読む心理戦。゜
各プレイヤーは階段のどの段階に地雷を仕掛けるかを事前に決定します。地雷の設置場所は相手にはわかりません。
相手がどこに地雷を設置するか迷って、避けながら進む必要があり、思考の読み合いが成立します。
地雷を踏むと10段下という大きなペナルティがあるため、どの段を進むかが非常に重要になります。
当面の段階では地雷があるリスクを冒すか、安全策の検討か、状況で戦略を変える必要があります。
有利な状況を構築する工夫として、「ダミー地雷」や「誘導地雷」のような戦闘法が可能です。
相手に「そこには地雷がない」と思わせつつ本命地雷に誘導するなど、ブラフや逆張り戦略がゲームを奥深くしていくわけです。
これを、真兎はゲーム理論的にどう展開したのか。
このゲームにおける、真兎のアプローチは下記の通り。
初期ペナルティを自ら選択するリスクをとって、対戦相手のタイプを推定。
これはゲーム理論でいうところのベイジアン学習です。
次に、普通の女子高生である自分の弱さを演技して、対戦相手の油断を誘発。
これは、ゲーム理論でいうところのシグナリングに相当します。
これで、心理的に対戦相手を攪乱。
相手のタイプを把握した上での依存戦略も秀逸。
これは不完備情報ゲームにおけるナッシュ均衡に近いものです。
リスク管理もぬかりません。
彼女のやっていることは、事実上、地雷リスクと前進速度のトレードオフ計算 。
これによって、期待効用が最大化しています。
結論からいうと、真兎の戦略は「不完備情報動学ゲーム」の実践的教科書ともいうべき内容。
真兎の勝利は、ゲーム理論の核心概念(情報活用・心理操作・混合戦略)を高度に統合した結果です。
この戦略は、理論的には繰り返しゲームにおける学習均衡に収斂し、現実世界の競争環境(ビジネス・交渉・政策)でも応用可能な「動的適応型意思決定」のモデルとして価値があります。
真兎の戦略は、現実のゲーム理論適用事例(例:オークション、価格競争、交渉術)とも多くの共通点を持つといえます。
まさか、16歳までの高校カリキュラムに、ゲーム理論が取り入れられているわけはないでしょうから、ヒロインはこのゲーム理論を理屈ではなく、あくまで感覚として理解し、駆使していたということ。
射守矢真兎恐るべし。
こういったゲーム小説を執筆するくらいなのですから、作者はさぞやゲームには精通したプロフェッショナルかと想像するのですが、「このミス」最新号でのインタビュー記事によれば、ゲームはそれほど得意分野ではなかったとのこと。
部屋に閉じこもってTVゲーム三昧ということもなかったようです。
本作を執筆するにあたって、コミック漫画の「嘘喰い」や「カイジ」(双方ともオジサンは未見)の緊迫の頭脳戦の醍醐味には、ずいぶんと影響は受けたとのこと。
もともと、オリジナルのゲームを創意工夫することには興味があったということなので、そういったアイデアが蓄積されたタイミングで、本作の企画につぎ込まれたということでしょう。
僕らの学生時代にも、ゲームのセンスが、やたらある友人というのは確かにいました。
ブラック・ジャック、ラミー、ポーカーといった高等戦術を要するゲームから、神経衰弱、ババ抜きといったシンプルなゲームまで、とにかくなにをやっても負けないんですね。
特別頭がいいというわけでもなく、特別にイカサマ師というわけでもない。
要するにセンスなのでしょう。
状況を俯瞰する能力とか、相手を観察する能力に長けているといったらいいでしょうか。
若い頃は、自分もそんな一人だと勝手に思い込んでいた時期がありましたが、定年退職後、社会から距離をおいて、畑で野菜を作る生活に馴染んでしまうと、そんなセンスは、有機肥料と一緒に畑にばら撒いてしまったようです。
地雷グリコをやろうにも、隣の畑の爺様は、御年90歳で、かなり耳が遠い。
ちなみに、僕は入間市の会社に30年間勤めましたが、入間市内に、こんな怪しげなエリート高校はなかったということだけはお伝えしておきます。
コメント