「私の飼い猫の名は?」
とある高校の教諭が、そんなテスト問題を出題して、問題になったそうです。
セクハラだ、性的暴行だというバカ教師よりは、まだましだと思いますが、またかという感じ。
教師の身問題は、後を絶ちませんね。
2つの視点があると思うんですよ。
ひとつは、教師という職業に就く人の資質の問題。
最近では、だいぶ「品格」なんてな言葉が使われていますから、まあそれでもいいでしょう。
いにしえの昔は、教師は「聖職」なんていう時代もありました。
とにかく「先生」といわれるわけですから、昔の教師たちは、この職業を生業とするもの、学力だけではなく、人間としての品格も、それなりでなければいけないという使命感というか、プライドみたいなものをみんな、黙って持っていたように思います。
周囲からの「尊敬の念」を考えれば、うかつなことはできなかった。
自分で自分を制していたんだと思います。
ところが、今教師になる人たちに、それがあるか。
少なくとも、ちょっと前のドラマのような「熱血」タイプは、今の学校見渡してもいなそうです。
就職する方にも、教師という職業に対する特別な思い入れなどなく、あくまで、数ある職業の中で、比較的安定している職業のひとつというぐらいのノリ。
特に人格者でなくても、やることやっていれば文句はないでしょうという感覚ですね。
これは、よくいえば、先生の「普通の人化」といえるかもしれません。
ですから、よくとるなら、今の先生たちは、生徒たちにとってとても近い存在になってきたということはいえるかもしれませんね。
しかし、それはとりもなおさず、先生の権威の失墜とイコールです。
今の教師の人たちは、教師になったからといって、無理に「人格者」でいなければいけないなんていう義務感がサラサラない。
そんな「きゅうくつ」な課題を自分に課すつもりもない。
そういう若い教師がチラホラ出始めていたことは、僕としてもウッスラ感じてはいましたが、時代はめぐり、バブルははじけ、いつのまにか気がつけば、そんな若い教師たちも、いい加減分別盛りの年齢になって、教師の世界に、あまたに広がっていたということでしょうか。
そんな彼らを、あえて弁護をするなら、彼らは教師として「構えていない」分、無防備なってるというようなこともあるのかもしれません。
それを、いまどきの、過激な親や、かしこい子供地たちに、いいように突っ込まれて、墓穴を掘るというパターンのなんと多いことよ。
先生なんだから、そんなこと「想定しろよ」といいたくなります。
そうでないんだったら、せめて「なりすませよ」ってところですね。
まあ、「教師の権威」なんて言葉は、今の世の中、だんだんと死語になりつつあるといっても過言ではないかもしれません。
金八先生も、「スクールウォーズ」の熱血教師も、いまは昔ということ。
いまどきの先生は、思考回路が、子供たちや普通の若者たちと、そう大差がないまま、教師というステレオタイプのモノサシで測ってくる、世間の「厳しい目」にさらされている気がします。
ご愁傷さま。
さて、もうひとつの視点。
こんなことがしきりにニュースの明るみに出てくるという背後には、子供たちと、その親の関係もあるぞと思っています。
先生の品格が問題というなら、やはり親の品格にも問題はあるぞといっておかないと片手落ちかもしれません。
先生が「普通の人化」なら、今の子供たちにとって、親たちも、負けず劣らず「友だち化」しているぞと、僕はにらんでいます。
これ、「尊敬している」というのとは違いますよ。
あくまで友だち。
これとて、僕に言わせれば、「親の権威の失墜」です。
とにかく、最近の家庭事情をリサーチする限り、子供と仲のいい親たちのなんと多いことよ。
これをもちろん、悪いとはいいません。
ただ、これを、親の権威の失墜と読むのか、はたまた、子供と親たちの距離の異常接近と読むのか、これは微妙なとみころ。
しかしこれだけフレンドリーに親密になった親子は、そのコミュニケーションツールとして、とりあえず「学校の話題」くらいは、頻繁に語り合うかもしれません。
さあ、そうなると話題のカモにされるのが、当然、学校の「顔」であるところの先生たち。
恋愛相談とて、あたりまえにするようになってきた親子関係ですから、学校の先生だって、下手をすれば、共通の敵くらいにされてしまうかもしれません。
良くも悪くも、明らかに親が、子供のレベルまで下がってきていますね。
ちなみに、僕らアラファイブ世代が学生だった頃なんて、いい年して、親とイチャイチャしているなんてことは、まったくもって、言語道断。
例え、ワルにボコボコにされようと、先生に手をあげられようと、そんなこと恥ずかしくて、親になど、間違っても言わなかったもんです。
とにかく、僕たちは早く親離れして、独立することこそ、かっこいいという世代でしたから、今の「異常接近の親子関係」にはなにか生理的な違和感を感じてしまいます。
閑話休題。
話を戻しましょう。
つまり、今の先生たちは、子供という商品を学校という企業に預けている「親」というクライアントたちからすれば、絶好のクレームの標的だということです。
ネット隆盛の時代、個人の自己主張がどんどんエスカレートしていく中で、とにかく、文句やクレームをつけることが、にくらしいほど巧みになってきた世代が、これもそのまま「親」になっています。
そして、片方の、クレームを受ける側は、そのクレームを防御するための最大の防御は、ひたすら「品格」を磨くことしかないはずなのに、そんな自覚を持つこともなく、あいもかわらず、「さあ、突っ込め」といわんばかりにスキだらけ。
いまどきの先生たちは、教育に情熱を持てといっても「無理言わないでくれ」と言わんばかりで、そんな、「親」たちからのクレーム攻撃から、自らの保身をはかるので精いっぱいというテイタラク。
まあ、いろいろ考えると、この手の「教育現場へのクレーム」は、この先も、増え続けるのは、火を見るよりも明らか。
いずれにしても、教師というある種「権威」だったものに対して、子供と親がタッグを組んで、簡単にケンカをふっかけられるという世の中の仕組みになってしまったということと、その「権威」自体が、そもそも怪しくなってきてしまったということ。
このふたつをもって、教師受難の時代は当分続くのかもしれません。
生徒と一緒になって、夕陽に向かって走っていけば「かっこよかった」先生たちも、いまは、自宅のパソコンに向かって、憎き生徒に見立てたゾンビにマシンガンをぶっぱなして、ストレスを発散させています。