最近のヤングママたちが、子供の名前をつけるときに、忘れていると思われることがあると常々思っておりました。
まあ、我が子だから、「可愛い」のは当然でしょう。
少子化という時代背景もありましょうから、今の親が子供に注ぐ愛情たるや、昔の比ではないと思っています。
昔は、4人5人の子持ちはあたりまえでしたから、そうそう一人にも構っていられない。名前も、順番に一郎から五郎とか。
おそ松、トド松、十四松・・・・とか。(これはないか)
まあ、今の感覚から言ったら、「手抜き」ではないのかという名前の付け方もけっこうありました。
しかし、そこへいくと、今の親の名前の付け方は凝っていますよね。
なにか、親のこだわりを、子供に押し付けているような名前もあったりで、アラファイブのオジサンとしては、苦笑しきりです。
そんな、名前持ったら、子供もプレッシャーだろうなあという名前もけっこうあります。
名は体を表す。
昔からそういいますが、やはり名前にはどうしても、イメージが付属しているようで、好むと好まざるとにかかわらず、人は誰も、自分に付けられた名前のイメージに縛られるということはありましょう。
さて、本題。
今の親たちが、子供に名前を付けるときに、完全に頭から外れていると思われるこがあります。
それはズバリ。
名前は、一生使うものであるということ。
どうでしょう。
もしや、自分の子供は、一生子供のままだなんて思っていないでしょうか。
いつまでも、可愛い子供のままだなんて、勘違いしていないでしょうか。
エリカ、マリア、カリナ、ジュリア、ミユウ、カエラ、マイカ・・
まあ、ご存知の通り、たいていはこの名前に、凝った漢字の当て字がしてあるわけです。
まあ、辞書と首っ引きでネリに練るんでしょう。
まあ、気持はわかります。
可愛いのもわかります。
ただ、よく考えてください。
この名前を付けられた娘は、70年後も、この名前と付き合っているということです。
その時に、もうすでに、その名前を付けた親はいないでしょうから、知ったことではないかもしれませんな。
しかし、70年後には、病院の受付で、「松本ジュリアさん」「佐藤エミリさん」と呼ばれて、立ち上がったのが、腰の曲がったしわくちゃバアサンだったなんてことが、日本全国で起こるわけです。
もしも、その場にぼくがいたら、やはり目が点になるだろうと思いますね。
そして、声には出さないまでも、ひそかにつぶやきます。
「もう少し、考えて名前つけられなかったかねえ。昔の親は」
しかし、時代と文化は移ろうもの。
今の感覚では、妙であっても、案外その時代になれば、「エリカばあちゃん、カリナばあちゃん」は、世の中に馴染んでいるのかもしれません。
そして、病院の受付で「ジュリアばあちゃん」の名前を読み上げた、若い20代ピチピチのナースの名前が、案外「とめ」ちゃんか「うめ」ちゃんてなことになっているのかも・・・。
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