本書が世に出たのは、1895年と言いますから、今からおよそ120年も前のこと。
著者のギュスターヴ・ル・ボンは、フランス人です。
元々は医者でしたが、好奇心旺盛な人で、関心ごとは多岐にわたり、それぞれの分野で著作を発表しています。
その中の一つに心理学があり、フランス革命からおよそ100年が経過したこの時期に、彼は時代の主役に躍り出た「群衆」にスポットを当て、ここに社会心理学というアプローチから切り込み、来るべき時代を予見する鋭い考察を展開しています。
一世紀以上も前の著書であるにもかかわらず、驚くべきは、その指摘の一つ一つが、今現在展開されている自分たちの社会でも、いちいち思い当たる事例が、リアルに思い浮かべられるということ。
その意味では、全く古さを感じさせない一冊ではありました。
「群集心理の特徴は、意識的個性の消失、感情、本能の発現、暗示と感染による観念の統一である。群衆中にあって、もはや彼は個人ではなく、自らを自らでコントロールできない自動人形と化す。」
ちょっと怖いんですよね。
例えば、どれだけ優れた見識や知性に基づく判断力のある個人がいたとしても、それが一度「群衆」に飲み込まれてしまうと、その個性はほとんど無意識のうちに淘汰され、その集団が持つ圧倒的なパッションに包み込まれて、ほとんど感情や本能に突き動かされて行動してしまうという話です。
冷静に個人レベルで考えれば、「こんなの無理に決まってるし」「いや、やめとこう」と普通に判断できることが、一度群衆の中の個人になって、暗示をかけられてしまうと、「もしかして、できるかも。」「やっちゃいますか」になってしまうわけです。
では単独の個人から、群衆のピースになることで何が変わるのか。
群衆の中に埋没することで獲得できるものは二つ考えられます。
つまり「無名性」と「無責任性」です。
これが、なんとも知れない甘い蜜なわけです。
これを獲得してしまいますと、感情と本能のパワーを制御する機能は麻痺してしまいます。
思い出すのは、2021年1月に起こった当時のトランプ大統領支持者たちによる、アメリカ合衆国国会議事堂襲撃事件。
あれなどは、現場の空気に感染して、群衆が暴徒化した顕著な例でしょう。
おそらく、あの朝ホワイトハウスに隣接したエリプス広場に集ったトランプ支持者たちの多くは、あんな展開になり、よもや自分たちがテロリストになるなどとは予想もしていなかったでしょう。
恐ろしいことは、無意識のうちに、場の「空気」に感染した人たちが、それにより普段の何倍ものパワーを発現させてしまうことです。
理性を消失させ、本能や感情のままに行動できることが、どれだけ人間にとって快感なのか。
しかも、それによって個人が追うべき責任も、一時的にではありますが、雲散霧消してしまうわけです。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心理ですね。
SNSの炎上現場に溢れる品性のかけらもない誹謗中傷の書き込みをみても、それは十分に伺えます。
つまり、悩ましいのは、単独の個人も、群衆の中の個人も、どちらも同じ個人だということ。
どこかでスイッチが切り替わっているはずなのですが、それに気がつける人はほとんどいないというのが群衆心理の怖いところです。
群衆は論理では動かない。およそ極端に単純化されたイメージでのみ動く。
ル・ボンはそう言います。
そしてこうも言いますね。
「集合化した群衆の知性は、単独の個人の知性に劣る」
しかし、そのエネルギーだけは単独の個人とは比較にならないほど、強大なわけですから、なかなか厄介です。
それゆえに群衆は、カリスマ的指導者の、感情に訴える、シンプルなメッセージにはコロリと丸め込まれてしまいます。
とにかく、論理的思考を捨て、自分たちの無責任性を担保するために、絶対的リーダーの言説に、その身を委ねる事が群衆にとっての快感なわけです。
そして、それを理解している指導者の手口は、ル・ボンによれば3つ。
それは、「断言」と「反復」と「感染」です。
知識や見識ある人が、何かについて、より正確な物言いをしようとすればするほど、断定的な口調ではなくなるはずです。
それがよほど確固たる事実に即したものでなければ、推測や個人的見解というオブラードに包まれた表現になることは当然です。
しかし、群衆を恣意的に扇動しようという輩は、決して、そんなにまどろっこしい物言いはしません。
なんの根拠はなくとも、自信たっぷりに「断言」するわけです。
もちろん、それについての論理的説明などは一切しません。
そんなことで、群衆の心が動かないことは、彼らは百も承知。
後は、それが群衆の脳裏に刷り込まれるまで、ひたすらリピートするだけ。
思考停止をしている群衆には、これが実に心地よく響くというわけです。
後は、これが群衆たちの中に感染していくを、ただ煽ればいいだけ。
歴史上、これを最もよく理解し、実践した政治リーダーが、ヒットラーでした。
NHKのドキュメント「映像の世紀」は、好きな番組でよく見ますが、そこで度々登場する、ヒットラーのアジテーション演説を聞くにつけ、これは実感します。
演説をする際の、彼の壇上でのオーバーアクトは、今見れば、ほとんどギャグにも見えてしまいますが、これに心酔しきっている群衆の歓喜の表情は、むしろホラーです。
アクティブな群衆の中に没入している個人は、あたかも催眠術師の掌中にある被術者の幻惑状態に非常に似た状態に陥いっているわけです。
もちろん、この群集心理は、怖いだけではありません。
場合によっては、徳性として発現することもあります。
「群衆は、殺人・放火をはじめ、あらゆる種類の犯罪を演じかねないが、また、単独の個人が為し得るより も遥かに高度の犠牲的な無私無欲な行為をも行い得るのである。」
本書において、ル・ボンが紹介しているのはこの例です。
1848 年の(フランス)革命中、チュイルリー宮に侵入した群衆は、そこにある目を見張るような陳列物を只の 1 つでも横領することはなかった」
ル・ボンによれば、群衆のこのような性質は、「もちろん一定不変の法則とは言えないが、しばしば革命中散見された例である。」と書いていますね。
「無私無欲・諦め・架空のまたは現実的な理想への絶対的な献身などが、道徳上の美点であるならば、群衆は、最も聡明な哲人でもめったに到達出来な かった程度に、これらの美徳を往々所有するものであると言える。」
東日本大震災後の、被災地を撮ったニュース映像の中で、暴動に走ることなく、整然と物資支給の行列に並ぶ被災者を見て、世界中の人たちが感嘆したと言います。
日本人の民度の高さを誇らしく思うニュースでもありましたが、あの場に働いていたのは、負の群衆心理とは、まったく正反対のベクトルを持った道徳的な群衆心理だったかもしれません。
もしかしたら、あの行列の中には、略奪や横領を考える不得の輩がいたかもしれません。
しかし、それが実際の現象として出現しなかったのは、まさにあの場を支配していた道徳的な群衆心理が、負の群衆心理を圧倒していたからでしょう。
その意味では、群衆心理は、諸刃の剣です。
どちらに転ぶのかは、群衆の持つポテンシャル次第です。
その群衆が置かれていた政治的、経済的環境。
あるいは、その群衆を含む国家の歴史的な種族性や伝統や時代背景もあるでしょう。
群衆心理は、そういったベーシックな要因を含んだ上で、その沸点を超えるような事件が起きた時、突如として、国家さえ動かすような巨大なパワーを内包して出現して、時代を変える原動力にもなることすらあるわけです。
誤解を恐れずに言えば、群衆は「愚か」かもしれません。
しかし、決して侮れないはずです。
その扱い方を間違えれば、先導者の権力など軽く凌駕するくらいのパワーは持っているわけです。
そのことを、如実に物語っているのが、群衆が初めて歴史の表舞台に立つことになったフランス革命ですね。
アンシャンレジームの中であぐらをかいていたフランス絶対王政の特権階級は、虐げられていた第三身分の人々を完全に舐めていました。
しかし、1879年のバスチーユ牢獄襲撃事件をきっかけに、第三身分の群衆の怒りが爆発すると、特権階級は人たちはたちまちパニックに陥ります。
一度群集心理が爆発すると、群衆にはもう理性が働きません。
普段の鬱分を爆発させ、怒りで制御不能になった群衆は、体制側の人たちを次々と殺しまくり、槍の先にその首を刺したまま広場を練り歩き、暴徒と化します。
そして、幕が開いたフランス革命は、その後、政治的にも立憲君主制、共和性と迷走を続け、それが一応の収束を迎えるには、ナポレオンの登場を待たなければなりませんでした。
とにかく、フランス革命が歴史においてエポックメーキングだったことは、今まで自分たちは無力だと信じ込んでいた群衆が、初めて自分たちのパワーに目覚めたことだと言えます。
一度覚醒した群衆は、たとえ迷走はしようとも、その政治体制に自分たちの納得がいかないならば、延々とノーを言い続けたわけです。
そうして生まれてきたのが、フランスのトリコロール国旗にも象徴される「自由・平等・友愛」の精神。
これも、群衆心理の観点から言えば、実に上手な標語です。
よくよく考えれば、どの単語もイメージ優先で、決して論理的なものではありません。
要するに、具体的にはなんだかよくわからなくて、とりようによってはどうとでも解釈出来るような概念だけれど、どうやらとても大切なもののような気がする。
これが群衆心理にとっては肝です。
国民的規模の群衆にとっては、ビッシリと文章で説明されたフランス共和国憲法よりも、何も具代的ではないこちらの方がはるかにシンパシーを持てるというわけです。
もしも、あなたが上手に群衆をコントロールしようと思うなら、なにも難しい知識を詰め込む必要はありません。
難解な理屈など、いざとなれば、それ専門の取り巻きに任せておけばよろしい。
それよりも、あなたが、群衆から見て、魅力的で、自分たちを決して不幸にはしないような人物に「なんとなく」見えればいい。群衆は理屈では動きません。
もちろんそれは、一朝一夕にも、あざといイメージ戦略で手に入るものでもありません。
大切なのは、あなたが人生においてどんな経験をしてきたか。
ル・ボンも、暗記するだけの詰め込み教育よりは、実践的職業経験の方が、教育としては好ましいと言っています。
負の群衆心理に飲み込まれないようにするには、社会の中で、群衆に揉まれながら、経験値を積み、自分を鍛えておくこと。これにつきます。
そして、徐々にではありますが、周囲の信頼を勝ち取っていくこと。
いつか、この人についていけば大丈夫と周囲の人に思われるようになればしめたもの。
もうあなたは、群衆を導く指導者への道を歩いていることになります。
しかし、同時にここで大きな分かれ道があります。
ついて行く方は、もうここで思考することを放棄して、あなたに服従すると決めてしまっているのですから楽なもの。群衆はちゃっかりしています。面倒くさいことは嫌いです。
しかし真摯なあなたは、ここで群衆(あるいは仲間)を、幸福に導くための筋道を、彼らの分まで熟考しなければなりません。さあ、リーダーへの道はここからが肝です。
考えに考え抜いたら大事なことは、その答えが出ても、それをそのまま彼らに伝えるのはタブー。
それをシンプルで、しかも感情に訴えるような「断定的標語」もしくは「キャッチコピー」に翻訳して伝えなければいけません。
もちろん、多少の論理矛盾は目をつぶりましょう。
群衆はすでにあなたを心酔していますから、細かいことは言いません。
イメージだけ伝わればそれで結構。
そこまで行けばあとはもう難しくありません。それを反復するだけ。
これを徹底すれば、あとは自然に感染が始まるというわけです。
これを繰り返しているうちに、気がつけば、あなたはいつの間にか、一端の指導者です。
肝なのは、あなたが尊敬される指導者になろうとするなら、私利私欲を捨て、いかに群衆全体の最大幸福をイメージし、実践してるかが伝わるかどうか。
気がつけば、あなたはいつか権力も手にしているはず。
しかし、そうやって、図らずも獲得してしまった「権力」というやつが、実に危険で甘い蜜ということもお忘れなく。
これに味を占めてしまうと、群衆はいつか蚊帳の外。
そうして、群衆を蔑ろにし、自分の利益や快楽を優先にし始めると、たどるべき道は、ルイ16世や、マリー・アントワネットの運命ということですね。
我が国でも、多くのブラック企業の非道ぶりは知られるところですが、これが蔓延る根底には、日本人の忍耐力と、内向性があるように思われます。
日本の歴史には、フランスのように、群衆が声を上げて、時の政権をひっくり返したという成功体験が極めて少ないからでしょう。
所詮政治はお上のもの。庶民が口を出すものではない。
そんな国民性が、長い歴史を経て醸成され、あまり喜ばしくない国民性に育ってしまったように思われます。
選挙における、投票率の低さがその顕著な例といえます。
現政府が、その破茶滅茶な政治運営にも関わらず、依然権力を保っていられるのは、確かに野党の実力不足もありますが、その根底にあるのは、この国民資質に大きく胡座をかいている体質によるものでしょう。
言ってみれば、フランス革命前夜の特権階級と同じです。
しかし、群衆力のポテンシャルの総和は、実は我が国には、フランス以上のものがあるような気がして仕方がありません。
ないのは、それを発動させたことによる成功体験だけ。
ここに火がつきさえすれば、体制側は慌てふためきますね。
3年ほど前に、北海道に酪農研修に行った時に、たくさんの牝牛に囲まれた牛舎で、感じたことがあります。
3人ほどで搾乳作業をしたのですが、フリーストールの牛舎で飼われているのは50頭ほど。
彼女たちは驚くほど従順に、こちらの指示に従ってくれて、反抗することを知りません。
可愛いものです。
もしも、彼らが本気に向かってきたら、こちらはひとたまりもないと思うのですが、あんなデカい図体をしていながら、彼女たちは、人間の作業員に刃向かおうなどとは夢にも思っていないんですね。
こちらに反抗しても、ロクなコトにはならないということを、DNAレベルで刷り込まれているようでした。
どうも、日本国民の政治への従順さを見るにつけ、あの牝牛たちの姿がオーバーラップしてしょうがありません。
「一人ひとりの人間では、各々は種々様々なベクトルを向いて行動するが、彼らが群衆を組織してしまうと、各々の個性は失われ同一の方向へと向かって行ってしまうのである。 」
国民一人一人のベクトルの総和が、どの方向に向かっているのかは、もちろんわかりません。
しかし、どう考えても、現政府が虎視眈々と目論んでいる方向に向いているとは思えません。
もちろん、それは彼らにもわかっているはず。
なので、彼らが画策していることは、ここまで積み上げてきたスキルを総動員して、国民にそれをとは気づかせずに、巧妙に自分たちにとって都合のいい方向に誘導することです。
国会での彼らの答弁を聞いていると、頻繁に出てくるのが「何度も繰り返し申し上げているように」とか「同じことの繰り返しになりますが」という類の枕詞です。
待て待て。そんなこといつ言った?というような答弁にも、この枕詞がつくんですね。
これはもう明らかに、同じことを反復しているという印象を、こちらに与えるための常套文句です。
おそらく、彼らの国会答弁マニュアルに明記しているはず。
群衆心理のコントロール術を悪用している良い例でしょう。
とにかく、敵は明らかにこちらを舐めてかかっています。
群衆心理は、簡単に操れるものだとたかをくくっています。
やはり、それに対抗するには、群衆の1人としてではなく、あくまで単独の個人として、しっかりと相手の手の内を学習しておくことでしょう。
そのためにも、本書を一読しておくことはおすすめです。
その上で、いずれ群衆としてのパワーを爆発させる時がくれば、日本くらい、暴力的でない、理想的な改革が可能な国はないような気がしますね。何せ民度が違います。
最後になりましたが、ここは、ル・ボンに敬意を表して、「断定」して、「反復」しておきましょう。
「この国は変われる。」「この国は変われる。」
後は、感染の方よろしく。
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