養老節を、久しぶりに堪能しました。
僕は、多くの方たちと同様、「バカの壁」から、養老講座に入門したクチです。
その後は、本屋で、氏の本を見つけるたびに、購入していましたから、著作順はほぼ無視。
この本は、中央公論に連載の「鎌倉傘張り日記」2001.1~2003.9分を収録した文庫本ということですから、ベストセラー「バカの壁」以前のもの。
しかし、切り口こそ違え、主旨といいますか、基本的な養老哲学は、ほぼ終始一貫していますね。
普通に説明すると、難解になってしまうであろうと思われる内容を、タイムリーな時事問題にリンクさせながら、わかりやすい言葉で説明しようというスタンスも変わらず。
その読みざわりのよさで、いつもののようにスイスイと読めてしまって、読んでいる最中は、彼の「言い分」が、わかった気になってしまうのですが、さあ、いざ、今読んだことを、述べてみよといわれると、「あれ?」ということになってしまう。
まあ、もともと彼のような一流の知識人の思考回路は、僕などのような凡人とは構造が違うわけですから、それはしょうがないところでしょう。
なにやら、読んでいるあいただけ、「わかった気」にさせてもらうだけ、めっけものなのかもしれません。
養老氏の関心のあることと、世の中の関心ごとのズレ。
養老氏曰く、自分は、そのギャップを埋めることに、一生を費やしてきたとのこと。
しかし、その「説明」が、こうやって、売れる本になるのですから、幸せな方です。
もっとも、彼の魅力は、そのあたりの商売っ気には、まるで無頓着なスタンス。
まあ、インテリじい様の「ぼやき芸」が、これだけのエンターテイメントになるのは、これひとえに、出版社の「商売っ気」ということになりましょうか。
さて、今回は「あたりまえ」について考えてみようということでした。
こういう話題ならできるだけ具体的なほうがいいということで時事ネタもバラエティ。
9・11同時多発テロ。
北朝鮮問題。
地球温暖化論。
「新しい歴史教科書」問題。
養老孟司一流の、世の中の定点観測。
二一世紀最初の三年間の出来事から、現代にはびこる「ああすれば、こうなる」式の考え方に、あいかわらずのトーンで、警鐘を鳴らしております。
特に印象が強かったのは、やはり教育論あたりでしょうか。
氏曰く、「教養とは、身につけるもの」。
その「身」が、「美しい」とかいて、「躾」(しつけ)。
「身が美しい」身体表現の完成した形を、わが国では伝統的に「型」と表現。
「型」の基本にあるのは、基本的に、個性ではなく、共通性。
個性個性というが、実は個性のあるのは身体であり、頭にあるのは共通性。
教育で個性が重視されるようになった根本は、情報化社会になったから。
都市化した情報化社会では、人々は知らず知らず自分を情報だと信じ込む。
情報化社会の人間は、絶えず未来を予測しようとする。
しかし、そこには自分の変化が介入しない。
人は常に変わるから、変わった自分が何をどう考えるか、今の自分にはわからない。
だから、基本的に人間の予測は当てにならない。
言ってしまうと、実も蓋もない真実だが、科学は、生きものを情報化すること、専心してきた。
つまり、イカをスルメとしてしかみないのが科学の実態。
実体は常に変化するが、情報は変化しない。
つまり、自分を個性ある情報と規定したら、教育は成り立たない。
教育は人を変える作業で、基礎学習は反復学習と、昔から相場は決まっている。
したがって、教育で、「個性の尊重」などというお題目は、はなはだ根本がズレている。
とまあ、養老氏の言い分を語ってはみますが、やはり、あまりわかっている気がしませんね。
まだまだ修行が足りません。
僕は、多くの方たちと同様、「バカの壁」から、養老講座に入門したクチです。
その後は、本屋で、氏の本を見つけるたびに、購入していましたから、著作順はほぼ無視。
この本は、中央公論に連載の「鎌倉傘張り日記」2001.1~2003.9分を収録した文庫本ということですから、ベストセラー「バカの壁」以前のもの。
しかし、切り口こそ違え、主旨といいますか、基本的な養老哲学は、ほぼ終始一貫していますね。
普通に説明すると、難解になってしまうであろうと思われる内容を、タイムリーな時事問題にリンクさせながら、わかりやすい言葉で説明しようというスタンスも変わらず。
その読みざわりのよさで、いつもののようにスイスイと読めてしまって、読んでいる最中は、彼の「言い分」が、わかった気になってしまうのですが、さあ、いざ、今読んだことを、述べてみよといわれると、「あれ?」ということになってしまう。
まあ、もともと彼のような一流の知識人の思考回路は、僕などのような凡人とは構造が違うわけですから、それはしょうがないところでしょう。
なにやら、読んでいるあいただけ、「わかった気」にさせてもらうだけ、めっけものなのかもしれません。
養老氏の関心のあることと、世の中の関心ごとのズレ。
養老氏曰く、自分は、そのギャップを埋めることに、一生を費やしてきたとのこと。
しかし、その「説明」が、こうやって、売れる本になるのですから、幸せな方です。
もっとも、彼の魅力は、そのあたりの商売っ気には、まるで無頓着なスタンス。
まあ、インテリじい様の「ぼやき芸」が、これだけのエンターテイメントになるのは、これひとえに、出版社の「商売っ気」ということになりましょうか。
さて、今回は「あたりまえ」について考えてみようということでした。
こういう話題ならできるだけ具体的なほうがいいということで時事ネタもバラエティ。
9・11同時多発テロ。
北朝鮮問題。
地球温暖化論。
「新しい歴史教科書」問題。
養老孟司一流の、世の中の定点観測。
二一世紀最初の三年間の出来事から、現代にはびこる「ああすれば、こうなる」式の考え方に、あいかわらずのトーンで、警鐘を鳴らしております。
特に印象が強かったのは、やはり教育論あたりでしょうか。
氏曰く、「教養とは、身につけるもの」。
その「身」が、「美しい」とかいて、「躾」(しつけ)。
「身が美しい」身体表現の完成した形を、わが国では伝統的に「型」と表現。
「型」の基本にあるのは、基本的に、個性ではなく、共通性。
個性個性というが、実は個性のあるのは身体であり、頭にあるのは共通性。
教育で個性が重視されるようになった根本は、情報化社会になったから。
都市化した情報化社会では、人々は知らず知らず自分を情報だと信じ込む。
情報化社会の人間は、絶えず未来を予測しようとする。
しかし、そこには自分の変化が介入しない。
人は常に変わるから、変わった自分が何をどう考えるか、今の自分にはわからない。
だから、基本的に人間の予測は当てにならない。
言ってしまうと、実も蓋もない真実だが、科学は、生きものを情報化すること、専心してきた。
つまり、イカをスルメとしてしかみないのが科学の実態。
実体は常に変化するが、情報は変化しない。
つまり、自分を個性ある情報と規定したら、教育は成り立たない。
教育は人を変える作業で、基礎学習は反復学習と、昔から相場は決まっている。
したがって、教育で、「個性の尊重」などというお題目は、はなはだ根本がズレている。
とまあ、養老氏の言い分を語ってはみますが、やはり、あまりわかっている気がしませんね。
まだまだ修行が足りません。
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