こまった人 (中公新書) (新書)
『まともな人』に続く時評集第2弾ですね。
「バカの壁」の大ブレイクにより、一気にメジャーになった養老翁の、「ぼやき」コラムです。
もちろん、彼の目線はいつもと同じ。
コンビニ、スーパー、パチンコ、ファミレス…。
これらだけを見れば、日本全国どこを切り取っても同じ風景。
これは、「都市」が人間様の「脳」で考えたことを形にする空間だから。
つまり、いくら個性だ、オリジナリティだといったところで、基本的に、人間の脳は、「共通」を追い求めるようにできていますよということ。
町の景色が同じなのは、その最もわかりやすい「具体例」ですよということ。
そこへいくと、自然はそうではない。
養老先生の、お仕事(?)は、ご存知のとおり虫捕り。
虫捕りにいけば、その土地によって虫は異なる。
学術上、同じ名前に分類される虫でさえ、細かく観察すれば、地域によって、微妙に形態に差異がある。
要するに、「人」も、自然と考えれば、虫も人も実に多種多様。
もともとが、大原則として、それぞれが違う個体なんだということ。
ことさら、「個性尊重」なんて、お題目を掲げる必要などさらさらない。
だって、もともとが、同じ単体がふたつとはない唯一無二の「個性」なんだから。
やっかいなのは、人間様の脳だけが、なぜか、その大原則を無視して、「共通性」や「法則性」を体系つけたがるという性質をもっているということ。
だから、「個性の尊重」なんて、おかしなことを考える前に、自分の「脳」の考えることの危うさを、どなた様も自覚しなさいよということ。
人間一人の個体をとってみたって、昨日の自分と、今日の自分は、基本的には別物。
さっきの自分と、今の自分だって同じではない。
したがって、「永遠の自我」なんて、考えるだけでナンセンス。
誰もが、その怪しげな習性を持つ「脳」の考える、「変わらない自分」なんてものを想定してしまうから、ややこしくなってしまう。
「自分探し」なんて、ねぼけたことをいって、「自分にあった仕事」「自分にあった生きがい」なんてものを、探しているヒマなどあったら、今、目の前にある仕事や環境に、自分を合わせる努力をしなさいということ。
それを一生続けた人が、その仕事を「天職」と呼ぶ。
あなたにあった仕事なんて、誰も用意なんてしてくれるわけがない。
人間は、生物学に言っても、常に変化し、環境に順応して、今日の繁栄を勝ち取ってきた「生き物」。
ですから、そもそもが「変わらなければ」人間じゃありませんよということ。
だって、そうでなければ、「教育」なんて、必要がなくなる。
人間が、常に変化していく生き物だからこそ、「教育」の意味があるんです。
「自分はこうだ」「俺は変わらない」なんていっいる人に、「教育」をする必要なんてありますか。
そんなこんなで、明日を予想すらできない世界だからこそ、養老先生のいう「ああすればこうなる」式の思考では具合が悪い。
このあたり、人間の「脳」が知らず知らずに陥る、「危うさ」「おかしさ」を、おなじみの養老節で、徹底的に指摘。
イラク派兵、靖国問題、安全神話の崩壊など、話題の出来事も、養老孟司教授が、ぶれない視点で徹底分析。
そんなわけで、彼の論じる視点は、やはりここでも変わりません。
「同じことを繰り返す」のは、老人の習性と、この本の中で、本人自身がいっておりました。
ちょっと、養老先生になったつもりで、彼の論旨をかいつまんでみましたが、これはこれで、けっこう気持ちがよろしい。
なるほど、養老先生、クセになるわけです。
『まともな人』に続く時評集第2弾ですね。
「バカの壁」の大ブレイクにより、一気にメジャーになった養老翁の、「ぼやき」コラムです。
もちろん、彼の目線はいつもと同じ。
コンビニ、スーパー、パチンコ、ファミレス…。
これらだけを見れば、日本全国どこを切り取っても同じ風景。
これは、「都市」が人間様の「脳」で考えたことを形にする空間だから。
つまり、いくら個性だ、オリジナリティだといったところで、基本的に、人間の脳は、「共通」を追い求めるようにできていますよということ。
町の景色が同じなのは、その最もわかりやすい「具体例」ですよということ。
そこへいくと、自然はそうではない。
養老先生の、お仕事(?)は、ご存知のとおり虫捕り。
虫捕りにいけば、その土地によって虫は異なる。
学術上、同じ名前に分類される虫でさえ、細かく観察すれば、地域によって、微妙に形態に差異がある。
要するに、「人」も、自然と考えれば、虫も人も実に多種多様。
もともとが、大原則として、それぞれが違う個体なんだということ。
ことさら、「個性尊重」なんて、お題目を掲げる必要などさらさらない。
だって、もともとが、同じ単体がふたつとはない唯一無二の「個性」なんだから。
やっかいなのは、人間様の脳だけが、なぜか、その大原則を無視して、「共通性」や「法則性」を体系つけたがるという性質をもっているということ。
だから、「個性の尊重」なんて、おかしなことを考える前に、自分の「脳」の考えることの危うさを、どなた様も自覚しなさいよということ。
人間一人の個体をとってみたって、昨日の自分と、今日の自分は、基本的には別物。
さっきの自分と、今の自分だって同じではない。
したがって、「永遠の自我」なんて、考えるだけでナンセンス。
誰もが、その怪しげな習性を持つ「脳」の考える、「変わらない自分」なんてものを想定してしまうから、ややこしくなってしまう。
「自分探し」なんて、ねぼけたことをいって、「自分にあった仕事」「自分にあった生きがい」なんてものを、探しているヒマなどあったら、今、目の前にある仕事や環境に、自分を合わせる努力をしなさいということ。
それを一生続けた人が、その仕事を「天職」と呼ぶ。
あなたにあった仕事なんて、誰も用意なんてしてくれるわけがない。
人間は、生物学に言っても、常に変化し、環境に順応して、今日の繁栄を勝ち取ってきた「生き物」。
ですから、そもそもが「変わらなければ」人間じゃありませんよということ。
だって、そうでなければ、「教育」なんて、必要がなくなる。
人間が、常に変化していく生き物だからこそ、「教育」の意味があるんです。
「自分はこうだ」「俺は変わらない」なんていっいる人に、「教育」をする必要なんてありますか。
そんなこんなで、明日を予想すらできない世界だからこそ、養老先生のいう「ああすればこうなる」式の思考では具合が悪い。
このあたり、人間の「脳」が知らず知らずに陥る、「危うさ」「おかしさ」を、おなじみの養老節で、徹底的に指摘。
イラク派兵、靖国問題、安全神話の崩壊など、話題の出来事も、養老孟司教授が、ぶれない視点で徹底分析。
そんなわけで、彼の論じる視点は、やはりここでも変わりません。
「同じことを繰り返す」のは、老人の習性と、この本の中で、本人自身がいっておりました。
ちょっと、養老先生になったつもりで、彼の論旨をかいつまんでみましたが、これはこれで、けっこう気持ちがよろしい。
なるほど、養老先生、クセになるわけです。
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