1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北を余儀なくされます。
ポーランド東部で武装解除されたポーランド軍人や民間人は、そのままソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ。
「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」
その中の一つの収容所において、ソ連軍は、ポーランド人捕虜に対し、このような説明を行います。
しかし、軍隊用語で「西へ向かう」という言葉が不吉な意味を示す事を、何人かの捕虜たちは知っていました。
そして、彼らの不安は、やがて、恐るべき「現実」となって、彼らの未来を、容赦なく奪うことになります。
彼らは、ソ連軍に列車に乗せられると、約束通り「西へ向かい」、そして、そのまま消息不明となってしまうのです。
1943年、ソ連に侵攻したドイツ軍は、カティン近くの森で、恐るべき光景を目にします。
森の中の溝に、なんと4,000人以上のポーランド人の遺体が埋められているのを発見したのです。
ソ連軍が、彼らを裁判無しで虐殺したことは明白でした。
しかし、ソ連及び赤軍は、このドイツの主張に反論し、逆に、ドイツ軍こそが、このポーランド将校たちの虐殺を行ったのだと主張しました。
大戦後の1946年、ニュルンベルク裁判において、ソ連の検察官は、カティンの森での虐殺について、ドイツを告発します。
彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と主張します。
しかし、アメリカとイギリスがこの告発を支持せず、カティンの森事件は、ニュルンベルク裁判では一切触れられません。
この点については西側でも東側においても議論は続けられましたが、犯人は明らかであっても、ポーランド統一労働者党の幹部たちは、ソビエト連邦に遠慮して、この事件の真相を究明しようとはしませんでした。
そして、この状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続することになります。
一方、米国議会では1952年、カティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたものだと断定しました。
そして、当のソ連の学者たちが、ヨシフ・スターリンがこの虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴンチー・ベリヤが命令書に署名したことを明らかにしてしまいます。
そして、虐殺から51年後の1990年、当時のロシアの大統領であったミハイル・ゴルバチョフは、この虐殺が、ソ連の内務人民委員部によって実行されたことを正式にを認めます。
これが、世に言う「カティンの森事件」です。
映画監督アンジェイ・ワイダは、ワルシャワにおける、メディア向け上映会で最新作「カチン」を発表しました。
「カチンの森事件」を題材にしていますから、同事件の解明に消極的なロシア政府の反発は必至。
そん逆風の中、82歳という高齢のワイダ監督が、「自分の映画人生における最後の作品の1つ」と位置づけた意欲作を作り上げました。
アンジェイ・ワイダといえば、「地下水道」「灰とダイヤモンド」などの「抵抗」をテーマにした、レジスタンス映画で知られるポーランド派の巨匠。
ワイダ監督は記者会見で「カチンを取り巻くウソを多くの人に知ってもらいたい」と語っています。
BSの「ハイビジョン特集」で放映された「映画監督アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男」
このドキュメンタリーの冒頭で、ワイダ監督は、満場の拍手で迎えられたステージの上で、静かにこう語ります。
「この映画を、私の両親に捧げます。」
ワイダ監督の父親は、69年前のカティンの森で、虐殺されたポーランド将校の一人でした。
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