そしてその川島が監督した推理もの。
1962年の大映作品「雁の寺」を見ました。
確かに、劇中に殺人事件は発生しますが、この映画をミステリーというカテゴリーに入れるとのはどうでしょうか。
やはり、この映画は、若尾文子の「艶っぽさ」を堪能する映画でしょうね。
あまりに刹那的で、直接的なアダルトDVDのエロ表現を、日常的に鑑賞している身としては、やはりこの若尾文子の佇まいから発せられるなんとも知れん「色気」は、実に新鮮。
1962年の映画ですから、もちろん、そのエロティシズム表現には、限界があります。
ヌードシーンもなければ、セックスシーンもなし。
出てくるのは、着物のすそが、はだけてチラリと見える生足。
乱れた胸元を、そそっと直す仕草。
ほつれ毛がハラリとかかった、白いウナジ。
このあたりの見せ具合で、あそこまでのエロティシズムを発散してくれるわけですから、これは川島雄三監督の力量か、若尾文子の魅力か。
とにかく、この映画、三島雅夫演じる生臭坊主と、その妾の若尾が、じゃれついているシーンはふんだんに登場します。
「かんにんや。おっさん」
白昼堂々の、この二人の絡みを横目で見ている、小坊主の視線は、気がつけばいつのまにか自分の視線と同化しておりましたね。
さて、若尾文子の、この映画でのセリフの言い回し。
いわゆる、京言葉です。
舞台は、京都洛北の由緒正しき寺ですから、これはもうコテコテの京言葉。
この、若尾文子のしゃべる京言葉も、この映画での彼女の「色気」には大きく貢献していることを見逃してはいけませんでしょう。
京言葉には、人をやさしくしてくれる独特のニュアンスがありますね。
生粋の京都人は実に、まろやかに、話します。
私見で申せば、男性の京都弁は、まったりしすぎていけませんが、女性がしゃべると、日本で一番風情を漂わせる言葉になります。
あんなにきつい関西弁(河内弁)を話す大阪のすぐとなりに、日本で一番優しくてまるい言葉を話す京都があるというのは、実に興味深いところ。
「うちのもん、何でもあげる。みんなあげる」
まあ、同情の念からとはいえ、こんな美しい人から、色っぽい言葉でこんなことをいわれたら、僕のような煩悩にどっぷりつかっているような輩は、女犯の罪を犯しまくりでしょう。
孤峯庵の小坊主慈念は、自らの手で殺めた住職慈海の代わりに寺にやってきた学校の恩師木村功にこう迫ります。
「先生、人を殺すことはやっぱ悪いことですか」
「修行さえ積めば、人を殺す必要はない。殺そうとする気持ちが、すなわち迷いだ。
悟りを開けば、殺すことも、生きることもどちらもむなしい。」
そして、この清廉潔白な新住職が、この寺の留守を任されたことを、前住職に囲われていた若尾に告げるシーン。
「留守坊主を、仰せつかりました。」
このセリフをうけての、若尾のクローズアップ。
ここに、セリフは一切入りませんが、「不安」「哀しさ」「切なさ」「弱さ」「哀れさ」を凝縮した彼女の動かない表情は、見応えがありました。
原作者・水上勉自身は、10歳の夏に京都・臨済宗相国寺塔頭瑞春院の徒弟となって郷里・越前若狭を後にしています。これは慈念の設定とほぼ同じ。
水上は、ここを脱走し、まもなく引き戻されるという経験をしています。
このときの体験が、この原作『雁の寺』には、随所に生かされています。
「殺人や犯罪を主題にする小説をかくのなら、真に当事者の身になって描かねばならない」
孤独な殺人者・慈念の眼は、原作者・水上勉自身の視線でもあるというわけです。
コメント