YouTube の、ノーカットの国会中継が面白くて、最近よく見ています。
やはり、国会ですから、質疑答弁のバックボーンとして、そこかしこに出てくるのが当然ながら「日本国憲法」。
我が国は、純然たる立憲主義国家です。
60歳にもなるオヤジが、今更なにを言っているのかという話ですが、やはりここは、我が国の憲法くらいは、一度ちゃんと読んでおこうという気になりました。
恥ずかしながら、「日本国憲法」に接するのは、学校の教科書以来のことです。
例えば、国会でいまだにその真相が明らかにされていない加計学園問題。
総理の竹馬の友に、便宜が図られ、公正であるべき行政が歪められたとしたなら、これは憲法十五条違反。
憲法十五条は、公務員について書かれています。
その第二項。
「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」
この場合の公務員というのは、政治家も、もちろん、内閣総理大臣も含まれます。
短くシンプルな文章ですが、ここに「人間が人間の愚かさを真摯に見つめてきた叡智」が垣間見えますね。
もっとシンプルにするなら、ここは「すべての公務員は全体の奉仕者である。」で終わっていても、文章は成立します。それでけして、おかしくない。
しかし、それに敢えて「一部の奉仕者ではない。」と、付け加えている理由は明白。
「人間は、権力を持つと、本来公正であるべき行政に、自分の個人的意向を入れたくなるもの。」
この権力者の性ともいうべき資質を、憲法十五条は、初めから想定しているということです。
もしこれが国会においてきちんと立証されれば、間違いなく安倍総理は憲法違反を犯しているという話です。
東京都知事だった石原慎太郎氏は、憲法についてはかなりラジカルな発言をしていました。
今の憲法は、戦争に負けた日本に対して、連合国が押し付けたもの。
草案は、わずか2週間足らずで、付け焼き刃的に作られたもの。
国際社会に胸を張る国家になるためには、自衛隊は軍隊にするべきだし、核兵器も所有すべき。
個人的には賛同しかねますが、まあ、憲法に対しては、いろいろな意見があっていいのだと思います。
いわゆる改憲派と言われる人の意見の骨子は、やはり今の憲法の成立過程に対する違和感が大きそうです。
やはり、根底にあるのは「アメリカの押し付け」に対する嫌悪感でしょう。
日本国の憲法は、ちゃんと日本国民が自ら考案し、自らの国会を通して成立されるのが望ましい。
中曽根康弘は、明らかに改憲派でしたし、彼の在任中もそれを目指していました。
そして現在の安倍総理大臣も、憲法改正は悲願です。
日本の歴代総理には、改憲派がかなり多い。
しかし、そういった政治的背景や、作成過程のゴタゴタは、とりあえず横に置いておいて、改めて、この「日本国憲法」を、頭をフラットにして、読んでみました。
するとどうだったか。
これがなかなかどうして良くできているというのが、実は正直な感想でしたね。
作られてから70年経った今でも、書かれていることはどれも決して古びてはいない。
文章表記の古さは確かにありますが、書かれている内容は、今の社会でも立派に普遍的に通用するものでした。
憲法九十七条には、こう書かれています。
「この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
確かに、我が国の憲法は、GHQにによって草案が作られました。
ですから、そこには、アメリカの思惑は多少なりとも反映されているでしょう。
しかし、それより以前に、日本国憲法は、それまでに作られてきた世界中の憲法の「叡智」が結集されているということです。
少なくとも、日本国憲法が作られた時点での、人類の経験的知見が、ほぼ理想的な形で反映されているといっていい。
どうしてそういえるか。
それは、幸か不幸か、戦争に負けた日本が、嫌でも承知せざるを得ない状況下において作られたものだからです。
もちろん、GHQの憲法草案に対して、日本側も可能な限りの修正は加えました。
しかし、やはり、戦争で負けた日本の主張には限界があります。
かといって、アメリカ側も露骨に、自国の利害を、反映させてしまえば、国際社会批判にさらされます。
つまり、戦争に負けた日本が、連合国から押し付けられたという体裁を保つ憲法だからこそ、我が国の憲法は、結果的に、より理想に近い憲法になることができた。
ちょっとそんな気がしないでもない。
例えば、アメリカにも憲法はあります。
しかし、アメリカの憲法には、いわゆる社会権と言われる一連の国民の権利は明記されていません。
その代わり、国民が銃を持っていいという権利は憲法で保障されています。
もちろん、軍隊の保有も、武器の保有も、ましてや、国民は政府を転覆させてもいいという権利まで認められています。
当然のことながら、戦争に勝った国が「戦争放棄」を憲法に謳うわけがない。
少なくとも、こと憲法自体で比べれば、我が国の憲法は、アメリカの憲法より、はるかに「人類の理想」に近いと断言できます。
日本国憲法は、ある意味では日本が戦争に負けたからこそ、得ることができた「宝物」といえるかもしれません。
今、世界の中で最も新しい憲法のひとつは、1996年に制定された「南アフリカ共和国憲法」。
人種差別で揉まれてきた国ですが、この国の憲法の制定にあたっては、「人類の叡智」の一つとして、我が国の憲法は大いに検証されたようです。
改憲か、護憲か。
これは、それ以前に、国民一人一人が、もっと我が国の憲法を吟味してから、話し合われるべき問題でしょう。
現安倍政権も、憲法改正には、かなり前向きです。
「集団的自衛権」の安保法制を閣議決定した安倍政権。
次は、悲願の憲法九条改正。
自民党の草案では、この第二項に、「国防軍を保持する」と明記してあります。
つまり、自衛隊を国防軍として、明確に憲法上で認知するということ。
しかし、いきなりそれはハードルが高いと踏んで、まずは、憲法改正の手続きから変えようというのが現在の安倍政権の方針。
憲法改正の発議に必要な、衆参それぞれ3分の2の賛成意見を、過半数の賛成でできるようにしてはどうかというのが骨子。
なんとしても、自分の在任期間中に、憲法改正を果たしたいという安倍政権の野望はひしひしと伝わってきます。
しかし、よくよく考えてみるとこれはちょっと危険なことかもしれません。
そもそもの話です。
憲法というものは、我々国民が自分たちの人権を守るために、行政に対して遵守させるべきもの。
もともとそういう「建てつけ」になっているのが憲法です。
主権在民といっても、国民一人一人は弱い存在です。
代議制に則った、我々の代表が国会議員、そして政府ですが、一度権力を手にしてしまった彼らを、国民がコントロールすることは難しい。
唯一国民に与えられた武器は、選挙ですが、やはり選挙だけでは、彼らを制御しきれない。
だからこそ、その巨大な権力を握った彼らを、しばれる武器というのが必要。
それが憲法です。
はんどう大樹さんという弁護士の方が書かれた「檻の中のライオン」という憲法の本があります。
この本が大変わかりやすく権力と憲法との関係を表されてます。
つまり、「権力」= ライオン、「憲法」= 檻という例えです。
つまり巨大な権力を手にしたライオンが暴走しないように、予め檻の中に入れて鍵を閉めておく。
これが、憲法と政府の関係というわけです。
言われてみれば確かにその通りなのですが、案外この基本中の基本を、我々は忘れがち。
つまり、権力を手中にした政府にとっては、この憲法という檻は、実は目の上のたんこぶ。
その手に入れた権力で、わが世の春を謳歌するには、このやっかいな檻を取っ払ってしまいたい。
幸いかな、僕自身はそんな権力を持ち合わせたことはありませんが、権力を持った彼らがそう思うようになっても、なんの不思議もありません。
つまり、こういうことです。
彼らにとっての憲法改正というのは、綺麗事を並べてはいても、事実上、彼らを縛っているこの檻の鍵を、内側から開けようとしている行為に他なりません。
考えてみれば、これは危ないでしょう。
だって、本来その鍵を持っているのは、我々国民です。
その我々に向かって、悪いようにはしないから、ちょっとこの鍵を開けてくださいなといっているのが、つまりは憲法改正草案です。
そういうことですから、これは、慎重になって、なりすぎることはない。
憲法改正が、絶対に良くないとまでは言いませんが、でもこれは本来であれば、我々が我々の人権を守るために提案するべきものであって、檻の中のライオンが提案してくるものなら、こちらはこちらで、それなりに構える必要があります。
しかも敵は、当然我々よりは、檻の詳細に精通しており、言葉も巧みです。
憲法は、もともとは、我々の人権を守るために存在するものです。
民主主義のこ国家における憲法は、基本的に主権在民。
政府のためにあるものではありません。
そこらあたりを再度、確認した上で、やはり日本国民である以上は、一度は目を通しておいて損はないのが「日本国憲法」ということになります。
願わくば、諸々の雑念や、個人的事情を排して、一度頭を真っ白にリセットしてから読んでみてください。
少なくとも、70年経った今読んでも、「これはちょっとおかしい」「これはちょっと古い」という一文は、僕には見つけられませんでした。
シンプルでとてもスマート。
自衛隊の件も然り。
例え、今後国際社会において顰蹙を買ったとしても、やはり日本の自衛隊は、あらゆる外国に対して銃を向けることをするべきではない。
例え、かっこ悪くとも、現行憲法の定めるところにより、集団的自衛権も行使しない。
現場の自衛隊の方には心苦しいですが、そういう国家であってくれて、僕自身はなんら不服はありません。
「申し訳ない。あなたたちと一緒に戦いたいとは山々なんですが、日本では憲法でそれはダメと決められてしまっているんです。後方支援は頑張りますから、ご勘弁を。」
みっともないながらも、少なくともそういう立ち位置で、国際社会の中を歩んできた我が国だからこそ、平成の30年も含め、70年もの長きにわたって、外国と戦闘が一切なかった稀有な平和社会を築けてきたわけです。
外国と戦火を交えない平和に比べれば、武力による国際貢献に協力できないなんていう程度の「みっともなさ」なんてはるかに小さいこと。
確かに、自衛隊をつくることになったのは、あの1950年当時のアメリカの事情でした。
そう、朝鮮戦争です。
朝鮮戦争勃発で、日本に在留していたアメリカ兵七万五千人が、朝鮮に出兵することになって手薄になってしまった日本国内の有事に備えるため、危機感を感じたGHQマッカーサー司令長官が、時の吉田茂総理に作らせたのが「警察予備隊」。
もちろん、それが現在の自衛隊の前身です。
その自衛隊は、軍隊ではないけれど、その国防予算は、軍事費としては世界第3位。
確かに、この規模になってしまった自衛隊を、まずは事後承諾で正式に憲法で認めたいということもわからないではない。
しかし、自衛隊が軍隊になった瞬間、今まで70年間ギリギリの均衡を保っていた足枷が外れることによって、我が国は、非常に危険な方向に、舵を切ることになります。
そうなってから、憲法改正を後悔しても、もうあとの祭り。
人間はなかなか我欲を捨てきれない生き物であること、そして暴走を始めたら止まらないことを、人類は長い歴史の中で、不幸な体験とともに学習してきました。
だから、その経験値の集約として憲法が生まれました。
そしてこの憲法を国家の柱にした立憲主義が生まれてきたわけです。
憲法は、その意味では、人類が経験値が積み重ねることによって、さらに理想に近い形で更新されていくべきものでしょう。
そういう意味での、憲法改正であるなら、文句はありません。
でもそれを、人間の我欲が、憲法さえも私物化しようと、理想とは反対の方向に引き戻そうとするなら、その愚挙は、国民一人一人がチェックしないとなりません。
少なくとも、今後、憲法改正手続きが順調に進められたとして、憲法に基づき、最後にその審判が国民に図られる時が来るまでには、その答えを、一人一人が明確に持っている必要はありそうです。
果たして、安倍総理はライオンかどうか。
忘れてならないのは、かつてヒットラーは、きちんとした民主主義の手続きを踏んで、独裁政権を手中に収めたということ。
そして、そのドイツには、日本国憲法が、その作成において大いに参考にした、近代憲法の金字塔ワイマール憲法があったということ。
僕は、我が国の憲法は嫌いではありません。
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