これは、本ではなくて映画の感想です。
少しは映画につっこんだファンなら、ほとんどバイブルとでもいうべき伝説の名著。
「定本 映画術 ヒッチコック/トリフォー」
この本が日本で翻訳されて発売されたのは、1981年。
その頃は、僕もバリバリの映画オタクになっていましたので、この分厚い400ページ近い本は、当時しっかりと購入しました。
確か4000円くらいしましたよ。
今でも、もちろんiPadの中に入っています。
僕は、5年ほど前に、自前の2000冊近い本を、すべて裁断して電子書籍にしました。
これで、まるまる一部屋片づいたのですが、裁断機でバサッとやるのに、最後まで躊躇したのがこの本でしたね。
それくらい思い入れのある一冊でした。
この映画は、もちろんこの本を下敷きに作られています。
2015年の作品。
監督は、ケント・ジョーンズ。
この人はちょっとピンときませんが、映画に出演している監督たちは、ヒッチコックを敬愛するビッグネーム揃い。
マーティン・スコセッジ。
ピータ・ボグノダヴィッチ。
ポール・シュレイダー。
デビッド・フィンチャー。
そして、日本からは、我らが黒沢清。
それぞれが、ヒッチコックの映画作家としての偉大さを語っています。
そんなわけで、映画オタクとして、この本を読んで知識として覚えていたヒッチコックの映画演出のテクニックを、今回は改めておさらい。
「映画は、観客のためにある。私は、その期待を裏切るわけにはいかない。」
ヒッチコックは、そういいます。
どんなに芸術性の高い映画を撮っても、それが観客に伝わらなければなんの意味はない。
その意味で、ヒッチコックは、徹底的に「観客の視線」にこだわり、「観客の心理」を考え抜いた作家といえます。
ただ、インパクトのある映像を繋げただけではサスペンスは生まれない。
サスペンスを生むのは、映画の構成。
これがきちんと出来ていなければ、観客を映画に引き摺り込むことはできない。
だから、ヒッチコックの映画はとてもきちんとロジカルに出来ています。
全てのカットに、サスペンスのための必然があるからこそ、ヒッチコック・タッチが生まれるわけです。
多くの映画人にとって、ヒッチコックの演出が、そのまま教科書になる理由がそこにあります。
「サイコ」では、あの有名なシャワー室の殺人シーン。
観客の誰もが、主人公と思われる女性が、まさか映画のど真ん中で殺されるとは思いません。
あのシーンをショッキングにするために、ヒッチコックは、その前半、ジャネット・リーが、銀行のお金を持ち出すまでの心理を丁寧に描いて、彼女が果たして、その金を持ったまま逃げ切れるかというサスペンスの方に、観客を巧みに誘導しておきます。
映画の中でも、マーチン・スコセッジが、言っていました。
ジャネット・リーの主観視線のショットを多用することで、この映画のヒロインがいかにも彼女であるように、観客を巧みにミスリードする心憎い演出だと。
そして、映画の中盤で、シャワー室の裸のヒロインに、ナイフが突き刺さるという、それまで観客が見たことがないショッキングな映像を、あの短いカット割と、神経を逆撫する効果音で、直接にナイフが刺さるカットは一度も見せないで、映画館の観客に恐怖の悲鳴を上げさせるわけです。
「断崖」では、あの有名なミルクのシーン。
果たして、ケーリー・グラントは、ヒロインに殺意を持っているのか、いないのか。
そのサスペンスを、ヒッチコックは、あのゲーリー・グラントが運ぶトレイの上のミルクを、薄ら白く光らせることで表現します。
そのために、ミルクの中に豆電球を仕込んだというのは有名な話。
そして、役者に下手な演技はさせません。
彼が、ケーリー・グランドに求めたのは、淡々とした無表情。
ここで、彼に下手に演技をされてしまうと、彼のこの演出が台無しになってしまうというわけです。
だから、ヒッチコックは、1950年以降、ハリウッドの俳優の間でトレンドになっていった、「アクターズ・スタジオ」仕込みの、感情移入演技を嫌います。
「私は告白する」で、彼が主演のモントゴメリー・クリフトともめたのもそれ。
ヒッチコックは、映画にスター俳優を使い続けましたが、あくまで自分の映画の主役は、役者ではなく、映画そのものといっています。
ケーリー・グラントやジェームズ・スチュワートなどの、クラシックなハリウッド俳優は、過剰な演技をしません。
ヒッチコックが、彼らを多く使ったのもそれが理由。
ジェームズ・ディーンが如何に役者として優れていても、確かにヒッチコックの映画には合わなそうです。
1963年の「鳥」は、動物パニックものの走りともいえる作品。
映画の中では、鳥に囲まれた家のリビングの中で、いつ襲われるかわからない恐怖に怯える家族の演出が絶妙だといっていました。
とにかく、全員が、家の外の鳥の気配を感じながら、後のない壁に向かって後退りするというわけです。
そして、それより下がれないという描写をすることで、観客へのサスペンスを煽るのがヒッチコックのねらい。
映画の中で、どうして鳥が人間を襲うのかという理由は語られません。
「それを説明しても、サスペンスには繋がらない。水をさすだけ。」
ヒッチコックの興味は、徹底してそこにあるわけです。
そのかわり、鳥たちの異変を、小出しにして、サスペンスを盛り上げる手法は見事。
湖をボートで渡るヒロインへの最初の一撃。
ジャングルジムに、鳥たちが次第に集まってくる不気味なシーン。
ヒロインが襲われる電話ボックスのシーン。
そして、ガソリンスタンドを火の海にしたシーンが、突然上空からの俯瞰のカットに変わり、そこに、上空を飛ぶ鳥たちが1羽ずつフレームインしてくる、あの有名な「神の視線」ショット。
ヒッチコックは、あのシーンについてはこういってました。
「ああすることで、現場の消化活動やパニック描写などの、余計なシーンをとらずに済む。」
なるほど。
騒いでいるのはこちらだけで、巨匠は淡々としたものです。
ちなみに、トリフォーが、ヒッチコックへのインタビューを敢行したのは、1966年のこと。
通訳を交えての、8日間に渡るロング・インタビューです。
その模様は全て録音されていたわけですが、その時の音声も、映画にはたっぷり出てきます。
トリフォーのヒッチコックに対するリスペクトがひしひしと感じられましたね。
彼は、この仕事にほぼ映画一本分のエネルギーを注いだといっています。
「めまい」は、もちろん、ヒッチコック絶頂期の傑作ですが、彼自身はこういっていました。
「あの映画は、設定に無理があった。高所恐怖症だからといって、あの塔の階段を登れないといとは限らない。」
事実、この作品は、公開当時は、酷評されたようです。
「異様なフェチシズムの、変態映画。」
確かに、自分の恋人に、亡くなった女性をコピーさせるわけですから、あまり趣味の良い映画ではないかもしれません。
でも、その変態映画も、ヒッチコックの手にかかれば、かくも格調たかいエロチック・サスペンス映画になるわけです。
ヒッチコックの映画には、そのものズバリのセックスシーンが、登場することはありませんでしたが、非常にセンスの良いメタファは数々登場。
「泥棒成金」のラストシーンの花火もそう。
「北北西に進路をとれ」では、電車の中で無事に抱擁する二人に続くラストカットが、トンネルに突入する電車のカット。
ヒッチコック曰く、
「あれは、僕の映画の中でも、もっともエロチックなカットだよ。」
イギリス人の彼らしい上品でウイットに飛んだエロチシズムですね。
この「めまい」は、当初「間違えられた男」で、ヘンリー・フォンダの妻役を演じたベラ・マイルズをキャスティングしていたらしいのですが、彼女が妊娠して、お腹が目立つようになってしまったために、キム・ノヴァクをオファーしたという経緯。
彼女のヒッチコック作品は、この一本しかありませんでしたが、この作品だけは、この人でないと成立しなかったかもしれません。
ヒッチコックのヒロインとしては、もっともセックスアピールのある女優でした。
その彼女が、亡くなった彼女(一人二役)を、完全にコピーした状態で、主人公の前に現れた時の美しさは、ヒッチコックの他の映画に類を見ないと絶賛していたのは、マーチン・スコセッジ。
ヒッチコックは、しゃあしゃあとこう言います。
「あのシーンで、男はもちろん勃起してるんだよ。でも、それは映さない。」
まあ、そりゃそうでしょう。
1946年の「汚名」。
この映画で有名なのは、映画史上最長と言われた2分間に渡るキスシーン。
演じたのは、ケーリー・グラントとイングリット・バーグマン。
確か映画を見た後、このトリビアを知って、もう一度見直した記憶があります。
なるほど、2分間ずっとくっつきっぱなしのキスではなく、ちょっとキスしてはおしゃべり、またキスしてはおしゃべり。これを繰り返すというシーンでした。
このヒッチコックの演出プランに、最初二人は抵抗したそうです。
しかし、ヒッチコックは一言。
「映画のためだ。我慢して演じてくれ。」
その種明かしは、やはりサスペンスでした。
実はキスそのものよりも、二人のクローズアップが、部屋を移動しながら2分間続く。
こちらの方が、ヒッチコックの狙い。
通常キスが2分間も続くというシーンは、ありませんでしたから、観客の関心は次第に、カメラに写っていないところで、実はなにかが起こっているんではないか。
そちらに向かうというわけです。
ん? これはなにかあるぞ。
観客がそう思うまでに、2分間が必要だったというわけです。
映画を見た時に、僕はたしてがそれに気が付いたかどうか。
ただ単純に、この二人はキスが上手だなあと思って見ていた可能性が大ですが、これはまた確認してみます。
そして、もう1つはなんといっても鍵。
パーティ会場の2階から、カメラがゆっくりと降りていき、最後にイングリッド・バーグマンが手に持っている鍵までズームインするショット。
観客を、サスペンスに引き摺り込むお手本のようなカメラワークでした。
映画は、最晩年の1979年に、ヒッチコックに贈られたアカデミー賞生涯功労賞のシーンが出てきます。
この時のプレゼンターは、フランソワーズ・トリフォー。
確か、この時に、イングリッド・バーグマンが登場して、あの「汚名」の時に使った鍵を、ヒッチコックに返すという粋な演出をしていたのを覚えています。
やっぱりヒッチコックは、語り出すと止まらなくなります。
このまま映画の内容を全部語ってしまいそう。
このへんで、やめておきます。
この映画を見て、若い頃のヒッチコキアンの血がまたフツフツと湧き上がってきました。
定年退職したら、ヒッチコックの映画は改めて、全部見直そうと思ってました。
いやいや、しかし、それは、当分まだまだ先にしておきます。
DVDは、初期の何本かを除いて、ほとんど揃っています。
慌てるな慌てるな。
まずは無事に就農して、田舎暮らしが始まってから。
映画三昧は、それまでの、お楽しみですね。
あれ、待てよ。
書いていてふと思いました。
そういえば、元ネタの本の方は、全部読んだんだっけ?
いや、多分読んだのは、購入した時点で、すでに見ていた作品の部分だけだったような気がするなあ。
ヒッチコック再入門は、まずはもう一度、この本を読み返すところから始めましょう。
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