野菜畑で、日々野良仕事をしながら、頭をフラットにして聞いているのが落語です。
以前は、国会中継などを徒然に聞いていたのですが、聞いているだけでストレスが溜まる質疑応答。
質問者のツッコミからの政府陣営の逃げトークも、おおよそパターン化されてしまい、聞くだけ時間の無駄値と判断するようになりましたが、その国会も先週閉会。
さて、何を聞くか。
適当な尺の動画を探してみると、落語一席くらいがちょうどいいというわけです。
昔からご贔屓の落語家は、名人古今亭志ん生師匠でした。
YouTubeにアップされている彼の動画は、片っ端から見て、今ではほぼ見終えております。
そこで、次なるご贔屓はということで、白羽の矢が立ったのは、立川談志師匠。
言わずと知れた、落語界の風雲児です。
いろいろな落語家を聴き比べても見るんですが、やはり彼の落語が聞いていて一番面白い。
すでに、談志師匠は亡くなっていますが、今のところ、アップされている動画はたくさんあるので楽しんでいます。
さて、彼の落語を聞いているとちょいちょいと出て来るのが古川柳。
「昔から、母親はもったいないがだましよいってなことを申しますが・・」
「古川柳に、寝ていても団扇の動く親心、なんてのがありますが・・」
てな具合に、話の筋がどっちへ飛ぼうと(実際、談志師匠の落語は話が飛びまくり)、その話題に応じて、縦横無尽に古川柳がポンポンと飛び交います。
これが聞いていて、なんとも楽しくて、心地よい。
「俺は、大学はいってねぇけど、必要なことは落語から勉強してるから困らねえよ。」
そんなことも、おっしゃっていた談志師匠でしたが、確かにその通り。
あれだけのネタと、教養としての古川柳が頭に入っていれば、そんじょそこらの学者たちよりもはるかに知識人かもしれません。
あれこそ生きた学問。
談志師匠の落語を聞いているうちに、ムラムラと古川柳に興味が湧いてきました。
早速購入した以下の三冊を、まずは一気に読破。
「古川柳の名句を楽しむ 柳多留への遊歩道」
「男と女の江戸川柳」
「江戸の知られざる風俗 川柳で読む江戸文化」
短歌と俳句は、過去にマイブームになった時期がありました。
もちろん、この拙ブログにも、作品は紹介させて戴きました。
バンドをやっていた頃は、曲も作っていたりしましたから、言葉への興味はそれなりにある方でしょう。
俳句を作っていた頃に、友人から言われたことがあります。
「お前の俳句は、むしろ川柳に近い。」
こっちは、十七文字に、必死に季語を織り込んで、俳句と格闘しているのに、なんてことを言うやつだと憤慨したりもしましたが、言われてみれば思い当たる節もあります。
暮らしから拾ったネタに、これは俳句だからと、無理やり季語を入れようとして、四苦八苦した挙句に結局中途半端なんていう句がかなりあったことは事実。
川柳のファンの方には申し訳ありませんが、どうしても、芸術性としては、川柳よりは俳句の方が格上という気持ちがどこかにありました。
俳句の名人には、松尾芭蕉、正岡子規、小林一茶など、その名の知れた達人たちが沢山います。
しかし、川柳を読む人たちの多くは、江戸で暮らす、多くの市井の人たち。
名もなき町人たちです。
そんな彼らの、暮らしの中から、溢れでる言葉のエネルギーを救い上げた選者が、江戸中期の文化人で、柄井川柳と言う人。
川柳の名前はここから来ています。
最初の川柳は、短歌の下の句、つまり五七五七七の七七の部分が、先にお題としてあった上で、前段の五七五をひねるという「前句付け」から、スタートしています。
例えば、「哀れなりけり哀れなりけり」という下の句があったとして、これに「四人目が生まれて亭主土間へ落ち」と前句をつけるわけです。
この前句の部分がやがて独立して、川柳になっていったという流れ。
但し、俳句よりも芸術性は低いとはいえ、立派に川柳も江戸文化のハシクレ。
今の、SNSに垂れ流されている、罵詈雑言や、誹謗中傷のような、品格のかけらもない言葉では、同じ言葉であっても、文化にすらなりません。
そこに何某かの洒落や、機知や、ユーモアが折り込まれていなければ、川柳としては失格。
その意味で、江戸の庶民たちは、裏の御隠居や、大工の八っつぁんに至るまで、なかなかの風流なインテリだったようです。
川柳のテクニックとしては、「句案十体」というものがあります。
これは、正体・反覆・比喩・半比・虚実・隠語・見立・隠題・本末・字響というもの。
要するに、ネタをそのまま読むのでは、単なる情報の提供。
川柳と詠ませたいなら、一捻りしろというわけです。
「浦島は亀の背中で竜宮へ」では単なる「報告」。
しかし、これを「浦島の尻六角な形だらけ」と詠めば川柳。
龍宮という語がなくても、「お尻に亀の甲羅の跡がつくほど、長いこと背中に乗っていれば・・」という、想像の部分が膨らむというわけです。
地口(語呂合わせ)、駄洒落・縁語・掛詞などの「言葉遊び」も不可欠。
もちろん、今回通読した川柳に仕込んであったたくさんの「仕掛け」は、僕のような「にわかファン」には、解説してもらわないと分からないものばかりでした。
詠史句などは、歴史の知識がなければ、その正味が味わえないもの。
もちろん、江戸以前に読まれている有名な短歌も、元ネタに使われますので、知らなければスルーしてしまうところ。
花のお江戸の、粋な兄さん、姉さんたちは、なかなか隅に置けません。
しかし、わからないなりにも、そのマインドはヒシと伝わりました。
中には、現代でもそのまま立派に通用する傑作も多々。
「泣き泣きも良い方を取る形見分け」
思わず、吹き出すのと同時に、パッと頭に浮かんだのが、杉村春子の顔。
先日見た映画「東京物語」です。
母親の突然の死に、東京から尾道に集まってきた兄妹たち。
母の亡骸に向かって、大泣きをした直後に、ケロリとして、お持ち帰りの形見の品を
末妹の香川京子に指示する杉村春子の名演(快演!)が、まさにこれ。
この川柳そのままで、うまい!
この「なるほど、うまいね」という合いの手が入るか入らないかが、いい川柳か、駄作かの別れ道。
毎年、第一生命が主催している「サラリーマン川柳」があります。
僕も好きで、結構選ばれた句を見ていますが、やはり「うまい」と思う句は、ヒトヒネリ、 フタヒネリしてありますね。
過去作品で、僕が覚えている秀逸句。
「昼食は妻がセレブで俺セルフ」
「スポーツジム車で行ってチャリをこぐ」
「トラブルか?パソコン以外は俺に聞け」
今は「サラリーマン川柳」でも、何百年が経てば、江戸川柳同様、時代考証の手掛かりになる貴重な無形文化遺産になっているかもしれません。
俳句に比べて低俗と言われようが上等。
川柳はしっかりと庶民生活に根付いた貴重な歴史資料であり、文化です。
時代を洒落とユーモアで風刺するのが川柳の醍醐味。
今の世の中、なかなか笑って済まされることじゃない問題が山積みです。
安倍内閣は、その長期政権の奢りで、好き放題のやり放題。
捕まらなければなんでもありというABSが壊れた暴走ぶりです。
そんな、彼らに「川柳」ごときでは、立ち向かえないかもしれません。
でも、だからと言って、そのストレスを、乱暴な言葉で罵ってみても何も変わるものではありません。
やはり、そこには最低限の「品格」は求められていいと思います。
先日、ツイッターの「#黒川検事長の定年延長に抗議します」というハッシュタグに、芸能人たちも含む900万人近くの方がリツイートを寄せて、ついには、政府自民党に、その法案を国会で通すことを断念させました。
最初に、このハッシュタグを、発信したのは、普通の一般女性だったとか。
かくゆう僕も、このハッシュタグを、リツイートした一人です。
どうして、この投稿に、これだけたくさんの人が、気持ちを寄せたのか。
これが、まさに「品格」だったのではないか。
ちょっとそう思っています。
例えば、このハッシュタグが「#黒川検事長の定年延長ひっこめろ」とか「#安倍晋三はやめろ」なんていう強い言葉であったら、おそらくここまでの共感は得られていないのではないかと思っています。
現実に、ツイッター上では、今もこういう過激なハッシュタグが今も多いことは事実。
しかしこの「抗議します」という、このハッシュタグには、強い意志はありますが、いたずらな攻撃性はありません。
そこにあるのは、一市民の真摯な政治への問題意識。
だからこそ、このハッシュタグが、普段は参加しない人までも巻き込んで、これだけのリツイートを集める原動力になったような気がしています。
ちょっと、話は変な方にずれてしいましたが、要するにこういうこと。
アホな政治と、ニッチモサッチモ行かない現実は、この際川柳でもひねって、ちょっと知的に、高いところから笑い飛ばす。
まあ、多少ヤケクソであっても、そんなゆとりも欲しいところ。
なんだか、ちょっとムラムラと、現代川柳でもひねってみたくなってきました。
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