映画「ソーシャル・ネットワーク」
フェイスブックの存在を教えてもらったのは、勤めていた会社の若社長からでした。
プロフィールを公開した上で、同じ趣味や嗜好を持った人たちが、繋がっていくサイトといった紹介をされた記憶です。
気に入ったのは、ハンドルネームを使わず、実名で登録するのが基本だったということ。
以前から、匿名のネット活動が、ネットのモラルを著しく低下させ、攻撃性も増幅させているという思いが強かったもので、ネット上で他人と繋がっていくのなら、堂々と実名を公開した上で、責任を持ったコミュニケーションが必要だとは思っていました。
そもそも、そんな思いに至ったのは、まだSNSがパソコン通信と言っていた時代、ニフティサーブの「恋愛フォーラム」のとある会議室で、管理人みたいなことをやっていたんですね。
元々が「作文オタク」でしたので、特に恋愛が得意というわけではなかったのですが、中学生の頃から、恋愛映画ならヤマのように見ていたので、その知識を駆使しては、参加者の皆さんと、恋愛談義で盛り上がっていました。
もちろん、全員がハンドルネームでの参加でしたので、その匿名性ゆえか、中には確信犯的に「会議室荒らし」を仕掛けてくる輩もいましたので、そういう不届き者を捌くのも管理人の役目だったわけです。
パソコン通信は、まだADSL以前の電話回線使用で、繋がるまでの「ピーガー」は、今となってはノスタルジーですが、2000年代前半には、姿を消していきました。
パソコンでの、ネットワーク住人たちとのコミュニケーションは、サラリーマンをしている頃には、欠かすことのできないマイ・エンターテイメントになっていましたので、「パソコン通信」が下火になった以降の、コミュニケーションの場は、その頃流行り出していた「マイスペース」という、SNSプラットフォームに移行していきました。
なんと言っても、「マイスペース」の最大のストロング・ポイントは、カラオケが出来たこと。
元々が、アメリカ初のSNSでしたので、とにかく洋楽のコンテンツが豊富だったことが、僕にとってはシビレました。
ここで、夜な夜な歌っているうちに、知り合ったのが、今もカラオケ仲間としてリアル・コミュニケーションをさせてもらっている仲間たちです。
この「マイスペース」の件は、本作「ソーシャル・ネットワーク」でも、チラリと触れられていますので、ニンマリとさせてもらいました。
「マイスペース」は、カラオケ・サービスをやめてしまったタイミングで、こちらも撤収しましたが、ちょうどそれと入れ替えに、登場したのが、フェイスブックだったという記憶です。
但し、フェイスブックには、カラオケ・サービスはありませんでしたので、ただ話のネタとして参加していただけでしたね。
日本でのSNSとしては、おそらく「mixi」の方がかなり先行していました。
もちろん、ここにも参加していましたが、当然ここにもカラオケ・サービスはなし。
洋楽カラオケ・フリークとしては、やはり歌えないのはストレスが溜まるところ。
さんざん探した結果、これに特化したサイトとして、見つけたのが「SingSnap」というサイトでした。
これも、アメリカ発でしたので、邦楽は皆無のサイト(かろうじて、坂本九の「スキヤキ」だけはありました)でしたが、洋楽のオケはふんだんにあって、個人的には、かなり遊ばせてもらいました。
マイスペースで知り合ったカラオケ仲間たちも、こちらにスライドしてきてくれて、楽しくセッションできました。
年間12000円程度の利用料が発生するサイトでしたので、貧乏根性丸出して、元を取らねばと、夜な夜な歌っていたものです。
しかし、やはりたまには邦楽も歌いたくなるもの。
そんなストレスも抱え始めていたところ、カラオケ仲間から教えてもらったのが、現在利用している「SMULE」です。
ここは、洋楽邦楽問わず、たいていの曲は歌えましたし、どうしても歌いたい曲がない場合は、自分でカラオケを作ってアップすることも出来ましたので(著作権がどうなっているのかは不明)、一週間で800円と、決して安くはない利用料ではありますが、その他のカラオケ・サイトは全て撤退した上で、現在はここ一本でカラオケSNSを楽しんでいます。
このCOVID-19騒動で、なかなかリアル・カラオケが楽しめなくなってしまってからは、僕にとっては貴重な「遊び場」になっています。
なんと言っても、ビートルズなら、就寝前に、こちらがグループ・シンギングでアップしておけば、翌朝には、地球の裏側の誰かがコラボしてくれていることも度々。
畑に向かう車の中で、それを聴きながら、自家製レタス・エッグ・サンドの朝食を頬張るというのが、今のところ、お決まりのルーティーンになっています。
ところで、フェイスブックの創始者マイク・ザッカーバーグは、ハーバード大学在学中に立ち上げたこのSNSで、若くして、マイクロソフトのビル・ゲイツや、Amazon CEOの、ジェフ・ベゾスらと並ぶ、世界有数の資産家になっているのは誰もが知る話。
はて?
待てよ。
自分は、Facebookの利用料を払っていたっけ?
いや、払ってないな。
確かに、カラオケ・サイトの利用料は払って楽しんでいるという自覚がありますが、Twitter も mixi も、名だたるSNSには、登録こそしていますが、使用料を払っている意識はありません。
だとすれば、こういった無料のプラットフォームを提供している側が、どうやって利益を得ているのか、これはちゃんと知っておくべきだと思った次第。
どうして、マイク・ザッカーバーグは、億万長者になれたのか
Google のような広告収入?
その辺りが、本作を見れば理解できるかなと思ったわけなのですが、結論から言うと、結局その仕組みはわからずじまい。
監督のデビット・フィンチャーも、その辺りを描くつもりなど毛頭なかったようです。
彼が描きたかったことは、若くして世界最大のSNSネットワークを築き上げで「時の人」となった青年の、リアルな現実です。
ザッカーバーグを演じた主演のジェシー・アイゼンバーグは、とにかく笑いません。
彼の喜怒哀楽表現は、とにかく最小限。
こちらが感情移入することを拒絶するかのように、徹底的にサイテー男を淡々と演じていきます。
かといって、彼を取り巻く仲間たちにも、基本的にナイス・パーソンはいません。
とにかく、ビッグ・マネーを呼び込むこのプラットフォームの魔力によって、関係者の誰も彼もが人生を狂わされていくわけです。
映画のベースになっているのは、マイクが抱えていた、彼の友人たちによる二つの起訴の査問委員会です。
ここでのやりとりがフラッシュバックで描かれていく構成です。
映画評論家の町山智浩が、「市民ケーン」で、オーソン・ウェルズが使った技法だと言っていましたが、確かに、実在の人物を映画化する手法としては、本人ではなく第三者の視点から描くことは、下手な感情移入をさせずに、クールな視点を確保できるという意味では正解かもしれません。
とにかく、デビッド・フィンチャーの演出は、自分のメッセージを示して、一定方向に観客をリードするということは一切せずに、画面上にこれでもかと、判断材料となる情報を放り込むことにこだわります。
そして、そのうちのどれをどう拾ってどう判断するかは、観客に委ねようというわけです。
「市民ケーン」のオーソン・ウェルズがそうであったように、パンフォーカスのシーンは本作にはかなり多用されていますが、観客のエモーションを意識的に誘導するようなカメラワーク(フォーカス送りなど)は使わず、画面の手前から奥までを全部バーンと見せて、さあ、あなたはどこを見ますかというようなことをやるわけです。
主演の、ジェシー・アイゼンバーグも、自分が何かエモーショナルな演技をしようとすると、全てNGにされて、フラットな演技を徹底して要求されたとインタビューで答えていました。
つまり、監督が狙っていたのは、観客の共感ではなく、観客に判断させることだったのでしょう。
そして、そう簡単には、ことの善悪などジャッジできるワケのない複雑で混沌とした現実をそのまま示すこと。
綺麗事などせせら笑うようなビッグマネーの前では、露呈せざるを得ない怪しい本音と建前。
真実の危うさと曖昧さという意味では、個人的には、本作の根底にあるのは、案外黒澤明の「羅生門」かもしれないぞという気にもなってきました。
そうすると、映画のラストで、冒頭に手痛くふられたエリカに、自分の作ったフェイスブックで、友達申請のポチをするマイクの顔は、赤子を抱いて、羅生門を後にするあの杣売りの顔にも見えてきました。
成功するものが、その成功と引き換えに、失うものは何か。
それは、成功できない人には、永遠にわからないものかもしれません。
上等。
ところで、なんでフェイスブックは儲かっているのか、誰か教えてくれません?
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