アルジャノーンに花束を
小説としては、今回初めて読みましたが、このタイトルだけは、随分昔から知っていました。
古くは、実家の本屋の棚に並んでいた記憶があります。
うろ覚えですが、ドラマもありましたね。
ユースケ・サンタマリアが主演のものと、最近では山下智久が主演のものもありました。
映画ですと、1968年にラルフ・ネルソン監督が撮った「まごころを君に」という作品の原作が本作です。
この映画の原題は、”Charly”ですが、これはもちろん本作の主人公チャーリー・ゴードンのこと。
主演のクリフ・ロバートソンは、この映画の主演で、アカデミー賞主演男優賞を獲得しています。
2000年にも、マシュー・モディン主演で、同タイトルの映画が撮られていましたね。
これも見たような、見ていないような曖昧の記憶。
音楽シーンですと、氷室京介が、本作と同名のアルバムを、1988年にリリースしていて、このアルバムの中から「Dear Algernon」が2枚目のシングル・カットをされています。
本作を読了した後、野良仕事をしながら聴いていたのは、NHK制作のラジオ・ドラマでした。
なるほどなるほど。
それほどまでに、本作は、いろいろなメディアからの熱い視線を寄せられてきた非常に美味しくて、魅力ある原作だというわけです。
調べたら、ミュージカルもあるそうです。
本作の大まかなストーリーだけは、こういったいろいろなメディアに取り上げられた情報に触れているうちに、大雑把には承知していました。
知的障害を持っていた32歳の青年チャーリーが、IQが劇的に改善される手術を受けることで、通常の人をはるかに超える学習能力を手に入れます。
しかし、今まで知らなかった知識や、人間関係の醜悪さを知ってしまうことで、果たしてチャーリーは幸せになれたか。
青年の受けた手術を先行して行った、実験ラットがアルジャノーン。
彼を友としたチャーリーは、ある日を境に、アルジャノーンが、知能を急激に身に付けたのと同じスピードで退化し、凶暴になっていく姿を見て、自分の運命を知ることになります。
そして、彼がとった行動は・・
著者のダニエル・キースは、1959年(僕の生まれた年)に、最初は本作を中編として発表しています。
しかし、執筆以降も主人公チャーリーが、彼の脳裏からは離れず、1966年になって、登場人物を膨らませて、長編小説にリライト。
今回読んだのは、この長編版を翻訳したものです。
本作は、SFファンタジーにカテゴライズされる小説ですが、正直サイエンス・フィクションを読んだという気はしませんでした。
知能を回復させる手術という部分だけが、「未知の技術」ということで、このジャンルに類別されたわけですが、やはり本作には、そんな枠は取っ払った堂々たるヒューマン・ドラマの風格が漂います。
そして、今回本作を小説として読んでみて、はっきりと理解できたこと。
それは、ダニエル・キースが、紡ぎ上げたこの物語は、その表現方法として、文章である小説との相性が抜群に良いということです。
前述のように、これまで、本作を原作とした様々な作品がありましたが、そのどれよりも、感動できたのが小説でした。
映画オタクとしては、これはなかなかなかったケースです。
その秘密は、言うまでもなく、この小説のスタイルにあります。
本作は、脳の外科手術を受けた主人公チャーリー自身が、担当医師に提出する「経過報告」という形で物語が進行します。
つまり、物語の最初は、当然まだ綴りも文章もおぼつかない6歳児の知能しか持たないチャリーの、辿々しい文章から始まるわけです。
ちゃんと装丁された立派な本が、いきなり誤字脱字だらけの書き出しで始まることに、まずは読者として面食らいました。
「こんなのありか」という感じ。
当然ながら、表記ミスだらけの本なんて、児童向けの絵本でさえないわけです。
しかし、不思議なことに、この読みにくい文章を読んでいるうちに、こちらは自然と6歳児の知能しか持たないチャーリーに同化していくんですね。
これが、作者が本作に仕掛けた巧妙な魔法でした。
当然ながら、「経過報告」は、チャーリーのIQが上がっていくのとシンクロするように、知的な文章に変化していくわけです。
作者が、文体を変えることで、チャーリーの成長を表現するというアイデアを思いついた時、本作は世界中の誰からも今なお愛され続ける小説となる運命を手にしたのだと思いますね。
考えてみると、この魔法は、他のメディアでは、あまり有効的には使えないことがわかります。
ドラマや映画では、当然ながら、チャーリーを演じる役者の演技力で表現することになるわけですが、これはある意味、映画であるなら、スタイルとしては当たり前のこと。
実際に、「まごころを君に」では、主役のクリフ・ロバートソンの演技こそ評価されましたが、タイトルからも分かるように、映画としては、小説の提示したテーマには遠く届かない、随分と安易な甘ったるい映画になっていました。
しかし、ストーリーはなぞっていても、感動の度合いがこうも違ってくるのは、ひとえに本作の、小説であるが故の、文体スタイルにあるのだとわかるわけです。
そしてこの書き出しの辿々しい文章と格闘することが、ラストになって効いて来るわけです。
次第に知能が後退していくチャーリーの「経過報告」が、冒頭とは逆になるわけですね。
読者には、天才となったチャーリーのさまざまな苦悩と葛藤がわかっているだけに、これがなんとも切ない。
胸が締め付けられます。
そして、「ついしん」に続く、ラストの二行に、本作の全てが集約される鮮やかな幕切れ。
その誤字脱字を含むおぼつかない文章には、下手な映像よりも、はるかに感動的にこの物語を締めくくる雄弁さがありました。
思わずホロリです。
これは映像として演出してしまうと、どうしても青臭くなりがちでしょう。
やはり小説の文体を通じて、主人公の成長と崩壊に同化してきた読書だからこそ味わえる感動なのだと思います。
もちろん、これまでにも「一人称」で語られてきた名作は数多くあるわけですが、モノローグやセリフとしてではなく、小説の文体そのもので、主人公を表現するというアイデアが、本作を小説として名作たらしめる所以でしょう。
それから、ここまで感想を述べてきて、今ふと気がつきましたが、日本人である僕が、日本語の文章として本作を読んで感動しているということは、つまり、その翻訳も見事だったということですね。
翻訳されているのは、小尾芙佐さんという方でした。
僕の英語の理解力はおそらく6歳児以下ですから、ダニエル・キースの原文による、拙いチャーリーの文章の味わいは当然理解できません。
しかし、この方の翻訳には、その「辿々しさ具合」「誤字脱字具合」「意味が通じるギリギリの表記の乱れ」が実に巧みに日本語として翻訳されていて、小説の冒頭で、物語にまんまと引き込まれてしまったのは、まさにこの名翻訳があったればこそだったと気が付きます。
作者のダニエル・キースは、知能障害者の書いた文章の実例を数多く調査して、本書の文体の参考にしたということですが、そのニュアンスを損なわずに伝えたこの名翻訳にも、敬意を表したいところです。
よく新作映画の解説をするときの、解説者たちの決まり文句に「この映画は、是非映画館で」というのがありますが、本作に限っては、自信を持ってこう申し上げておきたい。
「『アルジャーノンに花束を』は、是非原作小説を。」
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