仮面の告白
昭和24年に発表された三島由紀夫の書き下ろしによる長編二作目です。
処女長編小説「花ざかりの森」は、彼がまだティーンエイジャーの時期の作品であることを考えると、本作は事実上のプロ作家デビュー作ということになります。
読書は嫌いではなかったのですが、これまで純文学だけは避けてきたところがあります。
なので、恥ずかしながら彼の小説作品を読んだのは今回が初めてです。
但し、映画であれば、三島由紀夫やその作品を原作としたものは何本か見ています。
つい最近であれば、Amazon プライムで、「三島由紀夫VS東大全共闘」というドキュメンタリーは面白く見させてもらいましたし、若松孝二監督が、三島の自決までを描いた「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」も見ています。
三島文学の映画化としては、「金閣寺」を原作とした市川崑監督の「炎上」。
海外での評価も高かった三島文学ですが、イギリスを舞台に翻案映画化された「午後の曳航」も、封切当時の70年代に映画館で見ています。
何度か映画化されている「潮騒」は、山口百恵バージョンで見ていますね。
しかし、その作品群よりも、成人以上の日本人なら誰でも彼の名前くらいは知っている最も大きな理由はやはり、あの強烈な事件の影響でしょう。
その事件は、昭和45年に起こりました。
自衛隊市谷駐屯地で、自衛隊員に決起を促した末の割腹自殺事件。
檄を飛ばす彼の鮮烈な映像と共に、この事件は昭和の歴史として、しっかりと年表にも刻まれています。
当時少年チャンピオンに連載されていた(「冒険王」だったかも)、愛読漫画「夕やけ番長」にも、時事ネタとして取り上げられてたくらいでしたから、これは子供心にもよく覚えています。
1970年は、11歳でしたから、小学校5年の時でした。
三島由紀夫は、大正14年1月25日生まれでしたから、同じ年の4月に生まれている僕の母親とは同年齢です。
この年は、昭和元年でもありますので、この年に生まれた人は、満年齢と昭和の年が同時進行するということになります。
三島由紀夫は、その意味でも、まさに「昭和と共に生きた」小説家ということが出来ると思います。
彼の小説を、誠に遅ればせながら、初めて読むに当たり、どこから入るべきかは少々悩みました。
最も有名であるとされる「金閣寺」も手には取りましたが、これは映画を既に見ているということもあり、なるべく先入観のない状態で小説に触れたいという思いがありましたので、今回は、これまで映像作品化されていないという理由から、本書を選びました。
「仮面の告白」は、発表当時、センセーショナルを巻き起こし、一躍小説家三島由紀夫の名前を、文壇に知らしめた作品です。
しかし本作の映像化がされなかったのは、当然のことながら、そのテーマゆえでしょう。
本作が描いているのは同性愛です。
今でこそ、ジェンダー障害は、LGBTとして、世界中でその市民権が認められるようになり、カミングアウトする人も増えていますが、三島がこの小説を書いたのは、なんと言っても昭和24年です。
この性嗜好を持った人たちは、その違和感を抱えたまま、なんとかノーマルな人たちの社会に溶け込もうと、必死に自分の欲望を押し殺すしかなかったはずです。
やはり同性愛はこの時代、その存在こそ認知されてはいたでしょうが、「男色」などと言われて、社会的には忌み嫌われ、異端扱いされていました。
本作は全編一人称形式で、タイトル通り、主人公の「告白」という形で話が進みます。
少年時代、中学生時代、園子との出会い、そして再会。
三島のプロフィールを見る限り、物語は、彼自身のそれまでの24年の人生を色濃くなぞっています。
なるほど、Wiki で確認する限り、本作の主人公と三島自身の人生は、かなりシンクロする部分があります。
ということは、三島自身もジェンダー障害を抱えていたのか。
読んでいて、それがずっと気になっていましたが、読後、とりあえず色々な情報をリサーチした限りは、彼が同性愛者だという、ハッキリとした記述は見当たりませんでした。
ただ、EDだったという記述はありましたので、このことは、本書の執筆にも大きく影響したと思われます。
物語の中でも、友人に誘われて遊郭に遊びに行った件で、実際にそういうことにはならなかったシーンはありました。
もちろん、この題材を扱うにあたってそれなりの取材はしたはずですが、もしも、彼が実際、同性愛者でもないのに、この一人称小説を書き上げたのだとしたら、その想像力と文章力が並大抵のものではないことは伺えます。
ちょっと話は変わります。
最近、中学生時代の同級生たちと旧交を暖める機会があり、懐かしさもあって、いろいろな話で盛り上がったのですが、そこで出たのが、果たして、我々の学級、もしくは学年に、LGBTはいたのかという話題。
確率から言えば、1人や2人はいても不思議ではないのですが、少なくとも僕自身は、中学の三年間を通じて、それに気がつくことはありませんでした。
しかし、事情通の友人から話を聞けば、実は、わが学年にもLGBT(もちろんこの言葉はその頃はありません)パーソンは、やはりいたのだそうです。
そして、そのうちの1人がなんと、当時の我が家の隣にいたと言うからビックリ。
我が家は商店街にありましたから、正確に言えば、その彼の父親が営業していた飲食店がお隣です。
その一家の自宅は、確か別にあったはずです。
しかし、その「彼」の姿はその店でも度々目撃していました。
その「彼」には、妹が一人いたのですが、この兄妹がやたらと仲が良く、あの中学当時でも、よく手を繋いで歩いていていたのを覚えています。
確かに言われてみれば、少々女性っぽい話し方だった気もする彼でしたが、その程度の個性なら彼以外にもたくさんいましたから、当時はまるで気にもしませんでした。
つまり彼の場合は、同性愛者ではなく、トランス・ジェンダーですね。
友人によれば、そのことは学年の一部では噂になっていたらしいのですが、それにより彼がいじめられていたというようなことはなかったはずです。
ただ、彼が友人たちと連んでいたということもあまりなく、妹と一緒ではない時は、一人でいることが多かったという記憶です。
僕も隣人であったにも関わらず、僕自身も彼と喋った記憶はほとんどありません。
ただその妹は、少女漫画のヒロインのようで、非常に可愛かったということだけを覚えているのみ。
もしかすると、当時の僕がまだ、ジェンダー障害というものが、この世にあるということを知らなかったのかもしれません。
「おかま」とか「女男」などという罵倒言葉なら、誰にでも吐いていた記憶がありますが、おそらくは相手に対して、「お前は、女々しい」というドツキ言葉くらいのつもりで使っていたのでしょう。
もちろんその本来の意味など知らずに。
では、僕がその世界の存在を知ったのはいつのことか。
本書の冒頭で、主人公は、まだ母親の胎内にいた時の記憶があると主張するのですが、この記憶はおそらく中学生時代です。
もちろん、僕は「仮面の告白」を秘かに読んでいるような文学少年ではありませんでした。
我が家は書店を営んでいましたが、成人向け雑誌コーナーのあまり目立たないところに、不思議な本が置かれていたんですね。
色っぽい女性がしどけないポーズをとっている表紙の雑誌群の片隅に、凛々しい半裸体の男性のイラストが表紙の小振の雑誌が並んでいるわけです。
その雑誌の放つ不思議な存在感に、好奇心から手に取りパラパラとめくっていきますと、まずは筋骨隆々でフンドシ姿の男性がポーズをとっていたり、紅顔の美少年の学生服姿のグラビアが目に飛び込みます。
短編小説あり、読者欄ありで、体裁は普通の雑誌とあまり変わらないのですが、どこか不思議なテンションの高さがありましたね。
その雑誌のタイトルは「さぶ」「薔薇族」。
いわゆるゲイ雑誌です。
当時の僕は、成人雑誌の一角に並んでいたその本は、たぶん女性が隠れて読む本だとばかり思っていた節があります。
後になって聞いた話ですが、店長だった父親によれば、その本を買っていく客は毎月決まった人で、買うときには必ず違う雑誌で挟むようにしてレジに持ってきたと言っていました。もちろん男性です。
ですから、レジ待ちの客がいる時などは。父親も袋詰めにはそれなりの配慮をしたようです。
我が家は、小さな街の駅前の本屋です。
その客がどこの誰かも父親はちゃんと知っていました。
普通に家庭を持っている中年サラリーマンだったそうです。
おそらくは、その彼が家族にもカミングアウト出来ずに、その雑誌を秘密の場所に隠して、家族にはわからないように読んでいた姿は想像がつきます。
本書の主人公は、「聖セバスチャン」の痛々しい絵画を見て性的な興奮を覚えますが、僕の方の趣味は、もっぱらグラマーで艶っぽい女性ばかりでした。
そちら系の雑誌を山のように自室に持ち込んでは眺めていましたから、禁断の雑誌をこっそり見る、その背徳感は多少なりとも理解は出来る気がします。
閑話休題。
話を、三島由紀夫に戻しましょう。
思うに、あえてこの禁断の世界を小説にしようとした彼には、これを背徳の文学ではなく、純文学として昇華できる作家としての文章力に自信があったのだと思います。
もしくは、あえてそこにトライして認められることが、自分がプロの作家としてのキャリアをスタートさせるのにふさわしいと考えたかもしれません。
三島文学の特徴といえば、確固たる古典知識をベースにした、その修辞に富む絢爛豪華で詩的な文体です。
そして、何気ないものの中に、美を検知するセンサーの鋭さ。
この類まれな彼の文学的才能が、ちょっと油断をすれば、通俗イロモノ小説に陥りがちなこの世界の物語を、高尚な純文学世界へと押し上げているのは明白です。
そして、それができる自信があったからこそ、当時24歳の三島由紀夫は、将来を約束された国家官僚の道を捨て、退路を絶ってまで、プロ作家として生きる道を選んだのでしょう。
果たせるかな、彼のこの果敢な挑戦は、あの時代、一歩間違えば一般読者には背中を向けられかねなかったリスクを払い飛ばして、広く文壇に受け入れられることとなり、以降、三島由紀夫は、日本文学界の担い手として、怒涛のような傑作群を世に送り出していくことになります。
Wiki の三島由紀夫のプロフィールを読んでいて、一つ気になった出来事がありました。
彼は、第二次世界大戦真っ盛り頃に、ちょうど十代の若者でした。
いわゆる戦中派と呼ばれる世代で、もちろん彼も、その時代の多くの若者たち同様、お国のために、自らの命を捨てることも辞さない覚悟は持っていたようです。
そんな彼は、徴兵検査には合格したのですが、入隊検査の時に、たまたま体調不良で高熱を出し、担当医師から即日帰郷を命じられます。
後に、この部隊はフィリピン戦線に派遣され、ほぼ全滅することになるのですが、このことが生涯三島を苦しめることになります。
戦死する覚悟は出来ていたはずなのに、運よく(運悪く?)高熱を出したことを、無意識か、あるいは本能的にか、医者には、ことさら誇張して伝えたことはなかったか。
彼はこのことを繰り返し、自分に問い続けます。
この意識と言動の矛盾が、その後の彼が一生抱えることになるコンプレックスを植え付け、それ以降の人生は、彼にとって、ここで命を惜しんだことによって与えられた「貰いもの」という念を抱かせた出来事になったというわけです。
生き延びた、その後の昭和を、彼は作家として生き続けてゆくわけですが、その才能により勝ち得た名声が巨大化するにつれ、彼が背負い込んだこの時のツケも、不気味に肥大化していきます。
社会的にも大きな存在になりすぎた、もはや平岡公威(三島の本名)ではない、三島由紀夫というフィクションも引き受けた上で、彼はそのことと、どう折り合いをつけるかに悩み始めます。
そんな葛藤の中で、徐々に彼の死生観は醸成されていったような気がするわけです。
彼が生涯抱えることになるこのコンプレックスが、やがて、あの昭和45年11月25日に向かって焦点を合わせ、加速していくことになったと考えるのは、決して不自然ではないと思えます。
彼は明らかに、戦争を引きずっていました。
あの事件は、物を書くことを生業とたした彼が、最終的に、自分自身の人生をも作品化することで、あの若き日の自分に落とし前をつけようとしたということではなかったか。
どうも、あの事件には、そんな匂いがしてなりません。
自決の当日、彼は「豊饒の海」という四部作を書き上げ、編集担当に渡しています。
そして一般的には、それが彼の遺作と言うことになっています。
しかし、彼にとっての本当の遺作は、三島由紀夫の45年の人生を、どう完結させるかという脚本を綿密に練り上げ、それを自らがその通りに実行したあの事件そのものではなかったかという気がするわけです。
あのバルコニーから、自衛隊員に向かって檄を飛ばす彼の言葉は、集まった自衛隊員たちからのヤジによってかき消されます。
自らの命を賭けた訴えが彼らに届かなかったことが、あの割腹自殺の直接の原因となったと報道は伝えますが、おそらく、それを聞いて隊員たちが奮い立ち、決起してクーデターを起こすというシナリオは、彼の書いた脚本には、はなからなかった気がしてなりません。
もちろんそれを確かめる術はありません。あの事件からは、もうすでに50年もの歳月が流れています。
おっと、なんだか、偉そうなことを書き過ぎました。
少々反省。
そもそも、彼の作品をまだこの一冊しか読んでいない、三島文学初心者が、軽々しく言及出来ることではなさそうです。
もしも、彼の英霊がまだどこかを彷徨っていて、この拙いブログが目に触れることがあるとしたら、是非その感想を聞きたいものです。
もちろん匿名上等。
「仮面の告白」で構いませんので。
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