初恋のきた道
なんだか、たまらない映画でしたね。
とにかく、見終わってホッとするのは、あーよかった、自分はこういう映画を見ても、きちんと泣けるんだと確認できたこと。
チャン・イーモウ監督の名前は知っていましたが、作品を見たのはこれが初めてです。
「幸福三部作」など、農村を舞台にした作品が多いとのことですが、僕が「作品」として見たのは、今回見たこの映画と、もう一つは、2008年開催された夏季北京オリンピックの開会式の演出ですね。
いかにも、中国らしい、特定個人に頼らない集団マンパワー炸裂の力技パフォーマンスでしたが、本作を見て思い返せば、中国農村の四季を丹念に切り取っていたチャン・イーモウ監督の美意識が、確実に反映されていたことがわかります。
本作は、カテゴライズすれば、恋愛映画ということになるのでしょうが、とにかく本作に美男美女は一切登場しません。
しかも、キス・シーンもなければ、ラブシーンもない。手を握るシーンすらないわけです。
あるのは、主役のチャン・ツィー演じるチャオディが、ひたすら、待つシーンと、見つめるシーンと、追いかけるシーンだけ。
物語は、農村に町から一人の若い先生がやってくるところから始まります。
チャオディは、このチョンユー先生に一目惚れ。
自由恋愛など、珍しかった時代です。チャオディは、必死に自分の思いを先生に伝えるべく奮戦。
その一挙手一投足を、カメラは丁寧に追いかけていきます。
とにかく、観客は、それだけ見ていてくれればいいと言わんばかり。
そして、ほとんどそれだけで、この映画を成立させてしまっているのですから、チャン・イーモウ監督恐るべし。大した力量です。
一応、この映画には原作があるそうです。
本作は、チャオディの息子の回想という形式になっています。
これで、二人は結婚したことがわかるのですが、先生は町に学校の新築を陳情に行って、その出先で、亡くなってしまいます。
昔からの村の風習通りに、棺を担いで迎え入れることにこだわる母親。
トラクターで運ぶことを進言する村長に、人を雇ってでも担ぐことにこだわる母親なのですが、それを聞いたかつての教え子たちが大挙集まって、無償で恩師の棺を運ぶ葬列を作ります。
この部分が原作にあるストーリーとのこと。
そして、どうして、母親がこれにこだわったかを回想シーンで説明しようと言うわけです。
上手いなあと思ったのは、映画ではこの原作の部分がモノクロで撮られ、回想シーンがカラーで描かれている構成です。
チャオディの初恋の象徴とも言うべき、ピンクの農村服と、赤いマフラーが、これで観客の目に、いやでも焼き付くという心憎い演出ですね。
とにかく、これが映画デビューとなる、チャン・ツィーのみずみずしい魅力は鮮烈です。
「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンや、「小さな恋のメロディ」のトレイシー・ハイドのみずみずしい魅力も、忘れられませんが、負けていませんね。
とにかく、やることなすこと、全てが「けなげ」で、まだ純粋だった頃の、自分の初恋の思い出ともリンクして、思わず口角が上がってしまうわけです。
映画というものが抱える構造的なウソは、主要キャストのほとんどが、美男美女で構成されていると言うこと。
しかし、現実社会では、そんなことは絶対にあり得ません。
映画とは、基本的に非日常を楽しむエンターテイメントという側面がありますから、その意味では、こちらも、そこに突っ込むのは野暮というもの。
それをわかっていて、楽しむのが映画のマナーです。
これは、映画を見る上での、暗黙のお約束といっていいでしょう。
事実、どんなに感動的な脚本であっても、主演俳優の魅力次第では、客を映画館には呼べなくなるわけですから、これは、いたしかたのないところ。
僕などは、映画というものは、はなから、普段の生活では拝めないような美人女優を、楽しむための娯楽だと決めていた節があります。
しかし、そんな不純なファンを、本当に中国の農村にいてもおかしくないような女の子に、ほとんどノーメイクで主演させ、執拗にその表情の一コマ一コマを、クローズアップで見せることで、最後には見事、虜にしてしまうわけですから、ひたすら脱帽です。
YouTube などでは、子煩悩な親たちが、可愛い我が子の無邪気な動画をアップさせているのを多く見かけますが、そんな動画に出くわすと、気がつけば、こちらは、目指す動画を探すのも忘れて、思わず寄り道してしまうわけです。
あ、たぶん、この赤ちゃんは、なんかやるぞ、なんかやるぞと、思いながら見ていると、案の定、ほおら、やったあというオチになって、思わずニンマリしていたりするりですが、チャン・イーモウ監督の、チャン・ツィーの撮り方もまさにそれなんですね。
ほらほら、そんなに夢中に走ったら、転ぶぞ、転ぶぞと思いながらハラハラしていると、ほおら、案の定転んだ。
ほらほら、先生と言葉を交わして、そんなに嬉しそうにしていたら、大切なものを忘れますよと思っていたら、ほおら、案の定忘れた。
そんな心憎いシーンの積み重ねで、気がつけば、いつか彼女に完全に感情移入させられているわけです。
素朴で飾り気のない彼女は、田舎の風景や、暮らし中にすっぽりとシンクロしていて、全てのシーンが一服の絵画のようで、違和感がないのですが、上手だなと思ったのは、そんな彼女を、独特だけれど説得力のある歩き方や、走り方で、見事にポップアップしていたこと。
そこに、彼女のはにかんだ笑顔や、先生が帰ってくるはずの「道」を、ひたすら見つめる切ない表情がオーバーラップして、この唯一無二のヒロインは、このシンプル極まりない映画に、みずみずしい命を吹き込んでくれているわけです。
この監督が、見ていたかどうかはわかりませんが、何よりも自然を、主人公たちと同等に重要なモチーフとして扱っている点は、倉本聰脚本による「北の国から」のシーンが、常に思い浮かんでいました。
先生が、子供たちと、歌いながら道を歩いていくシーンなどは、先生の性別こそ違いますが、高峰秀子の「二十四の瞳」そのまま。
イーモウ監督の頭の片隅に、そんな日本の名作のイメージがあったとしたら、嬉しい限りです。
ちなみに、本作の背景には、文化大革命によるインテリ知識人への迫害があることになっていますが、ヒロインがカレンダーをめくるシーンで、ちらりと映ったのが「1958年」という文字。
ん? ちょっと待て。
毛沢東による、文化大革命の嵐が中国に吹き荒れたのは、1967年からおよそ10年間です。
この1958年当時は、まだ大失敗に終わった「大躍進政策」の真っ只中のはずです。
ちょっと時代設定がずれているのでは?
まあ、そんな細かいことが気になってしまうのは、映画マニアの悲しき習性だと思ってくださいませ。
思うに、この映画を見ていると、女の子の「けなげ」さの魅力を表現しようとしたら、これは美人女優では成立しないと言うことに気がつかされます。
人も羨む美少女に、この役をやらせても、おそらく、そうではない人から見れば、ほとんど「イヤミ」にしか見えないかもしれません。
例えば、このチャオディを、広瀬すずが演じても、あそこまでの説得力はなかったような気がします。
どうしても、映画が宿命的に持つ、ウソが脳裏を掠めてしまうわけです。
こういうと、チャン・ツィーがまるで、美人ではないと言っているようですが、後の彼女は、その後の出演作品で、れっきとしたアジアン・ビューティとしての地位を確立しているので、失礼のなきよう、申し添えておきます。
あくまでも、本作における彼女のイメージですので。
最後に、老婆心ながら一言。
残念ながら、美人に生まれてこれなかった女子たちは、化粧やファッションなどの姑息なテクニックで、その溝を埋めようなどとせずに、「けなげ」さで、男心を掴まれるようアドバイスいたします。
この武器だけは、そんな女子たちにのみ与えられた最終秘密兵器だと思われます。
意中の男子獲得のために、この作戦を決行するのてあれば、本作は貴重な資料になるはずです。
但し、一歩間違えば、今の世の中なら、ストーカーなどとも言われかねないので、そこは十分に注意されたし。「キノコ入り餃子」レシピのチェックも忘れずに。
どなたが、考えたのかは存じませんが、本作の邦題は秀逸でした!
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