前作では、不正に目をつぶれない熱血漢を演じた松坂桃李が、その正義を貫いたために、殺されることになった大上の遺志をついで、呉原市の暴力団抗争を、一網打尽にした展開でしたが、本作はその続編です。
原作は柚月裕子の小説となっていますが、映画の続編は、原作からは離れたオリジナル・ストーリーです。
続編のウリでもある、「なりきり」役者鈴木亮平の、身の毛もよだつビラン演技を、前面に押し出すための脚本になったのだろうと想像します。
どの国にも、ギャングや、チンピラや、ゴロツキはいるでしょうが、日本のヤクザは、そのがっちりしたヒエラルキーや、組織への忠誠心が、いかにも日本的で、しかも映画的。
その文化も、入れ墨、エンコ詰め、剃り込み、パンチパーマなどなど、ある意味ではとてもスタイリッシュ。
映像にすると映えるという意味では、テレビではちょっと刺激的過ぎるかもしれませんが、映画館に客を呼ぶには格好の素材なのだろうと言う気はしていました。
僕が「仁義なき戦い」などに、ドハマリしていた頃は、まだリアル世界でも、映画の中のような、ヤクザたちがギリギリ存在していました。
大衆系週刊誌の表紙には、山口組の抗争やら、キナ臭い話題が、見出しに踊っていましたし、新宿の歌舞伎町やら、池袋のロサ会館あたりを歩けば、まだ「わかりやすい」ヤクザたちの姿もチラホラと見かけていた記憶です。
しかし、その姿がパタリとなくなり、ヤクザにとっては受難の時代となったきっかけは、なんといっても平成4年に施行された「暴力団対策法」でしょう。
この法律によって、刑法に抵触する明らかな犯罪行為ではないような、威嚇や強要などの広範囲なグレーゾーンにまで、行政的な手段で規制することが可能となったわけです。
こうなってくると、ヤクザ組織も生き延びるために、わかりやすい暴力団組織から、体裁は合法的な体を整えた経済ヤクザ化が始まったり、政治結社みたいなものに看板を取り替えて、社会の中に混ざり込んでいくようになるわけです。
この辺りになると、もう完全に「仁義なき戦い」世界ではなくなります。
もちろん、そんなヤクザ社会の変化は、それなりに映画にも取り上げられてはいます。
まだ見ていませんが、役所広司主演の「すばらしき世界」や、舘ひろしがヤクザの親分を演じた「やくざと家族 The Family」などは、暴対法以降の、平成ヤクザの悲哀が映画のテーマになっているようです。
令和の時代になった今、ブラック企業に脅かされている若者たちは多くいると思いますが、東映ヤクザ映画で描かれていたようなステレオタイプのヤクザの生の姿を、リアルに見たことのある若者はいなくなっているのかもしれません。
その意味では、昭和ヤクザ映画は、今の世代の若者にとっては、もはやファンタジーか、もしくは時代劇というようなカテゴリーに入っているのでしょう。
昨夜この映画を見て、本日は畑作業をしながら、本作の感想を述べているYouTube動画を、片っ端から聴いていましたが、「元気をもらった」とか「不思議な爽快感があった」と言うような肯定的なコメントがほとんど。
もちろん、それぞれの感想ですから、それに文句をつける気はありませんが、やはり、こう言うコメントが多い理由は、若いファンにとって、もはやヤクザ世界は、映画の中だけにしか存在しないもので、リアルな現実感はないと理解するべきでしょう。
ある意味では、「スター・ウォーズ」や「用心棒」と同じ括りなのかもしれません。
黒澤明監督が、ヤクザが嫌いなのは有名な話で、彼の作品の中でヤクザは、徹底的に反社会的な存在で、肯定的に描かれることはありませんでした。
「仁義なき戦い」が製作された、1970年代当時は、映画こそ大ヒット・シリーズになりましたが、舞台となる広島には、モデルになっている実際の暴力団もまだ存在していたりで、実際の撮影は、京都や大阪でロケしていたような生々しい時代。
犯罪者を過大に美化していると言うような映画への風当たりも強く、ヤクザの街というイメージを嫌うご当地広島からのブーイングも強かったわけですが、平成の30年間をまたいだ令和の時代になると、もはやヤクザは過去の産物という扱いになっており、メジャー映画として広島でロケされた映画の撮影は、「街おこし」のようなノリで歓迎され、映画のエンドロールにも、堂々とタイアップがクレジットされていましたから、ヤクザ映画を巡る環境も、今や大きく様変わりしたと言うことでしょう。
こうして、コテコテのヤクザ映画が、いつの間にか、現代劇から、時代劇に姿を変えてしまうと、もはやクレームをつける人もいなくなり、あのエネルギッシュな世界は、昭和ノスタルジーと化して、過激なバイオレンスも、猟奇的なサイコ殺人も、全てはエンターテイメントとして受け入れられるようになったわけです。
そうなると、本作の時代設定は絶妙でした。
舞台となるのは、暴対法が施行される直前の広島です。
つまりヤクザらしいヤクザだちが、最後の徒花を咲かせていた時代ですね。
変わらざるを得なかったヤクザ社会の中に、白石監督が放った最後の昭和ヤクザの化身が、鈴木亮平が演じた「悪魔」上林ということになります。
本作は、前作の3年後の呉原市が舞台になっていますが、まずは松坂桃李演じる日岡刑事の、変身ぶりが見事でした。
前作での熱血感は、役所広司が演じたアウトロー刑事に負けず劣らずの、ダーティな刑事に大変身。
そのイメチェンぶりは、本作の「狙い」の一つだったでしょう。
これが中途半端ですと、本作においては、完全に鈴木亮平に食われてしまう結果になるのは明白。
なので、ここは松坂桃李も踏ん張りました。
映画冒頭の最初の登場シーンだけで、すでに前作の日岡ではないことは一目瞭然だったのはさすが。
とにもかくにも、本作での彼は、撃たれまくりの、切られまくりで、満身創痍の体当たり演技。
しかも全てのカットを、スタントなしで本人が演じたと言いますから、気合は十分でした。
前作の助演から、本作では堂々の主演。
そのイメージ・ギャップも手伝って、見事なアウトロー(役は刑事ですが)演技を披露してくれました。
「全員ブタバコ叩き込んじゃる!」は、凄みもバッチリ。
広島弁も、しっかりと様になっていました。
そして、なんといっても圧巻だったのは、常軌を逸したクレイジーなヤクザ上林を演じた鈴木亮平。
全身の刺青と、もみあげの剃り込み以外は、完全な顔演技で、サイコパスをも遥かに通り越した「悪魔」を嬉々として演じていました。
実際の彼の耳が、まるで悪魔のように尖っていて、ちょっとビックリ。
あのもみあげの剃り込みは、この耳を強調するためのものだったのでしょう。
この人のバイオグラフィをちょっとWiki してみましたが、演じてきた役の「振れ幅」にちょっと驚きます。
俳優として、その役に心身ともに「なりきる」ことを楽しんでいるかのような印象でしたね。
このキャラを演じるために、彼自身もかなりのアイデアを出して、作り込んでいったようです。
俳優としてのポテンシャルはかなりのもので、地頭の良さを感じさせてくれます。
イケメン映画オタク俳優の斉藤工も、ヤクザの若頭にキャスティングされていました。
撃たれた腹部の血をペロリと舐めたり、氷を齧ったりと、彼なりの小技は確認。
しかし、不幸かなそのイケメンぶりが災いして、かつての東映ヤクザ映画で活躍した、松方弘樹、北大路 欣也、梅宮辰夫、成田三樹夫といった面々のアクの強さや、迫力には届かなかった気がします。
綿船組会長を演じたのは、吉田鋼太郎。
この役は、明らかに「仁義なき戦い」で山守組長を演じた金子信雄を狙ったキャラで、老獪だが、俗物感にあふれるという意味では、そこそこの味を出していました。
この組の若頭・溝口を演じたのは、宇梶剛志。
早々に、親分の目の前で上林にアイスピックで殺されてしまいますが、Wiki を見てみると、この方には、若かりし頃、暴走族ブラックエンペラーの7代目総長を勤めていたというキャリアがあり、凄みの利かせ方には、そのポテンシャルが効いていました。
前作にも登場していた人物で、本作でよりスポットライトが当たっていた役者が2人いました。
広島県警の管理官・嵯峨を演じた滝藤賢一。
前作ではほぼ情けないだけのキャラから、本作では、日岡を相手にタイマンを張るような凄みのある演技を披露します。
元々、演技力には定評のある人ですから、恫喝したり、涙目になるような振り幅のあるキャラを、巧みに演じ分けていました。
もう1人は、安芸新聞の記者・高坂を演じた中村獅童。
彼は、前作での出番の少なさを監督に直訴したようで、本作では、ラストの局面でかなり重要な役回りを与えられていました。
本人は、ヤクザ役を希望していたようですが、最終的にはこの役に大いに満足していたとは、白石監督の弁。
前作で殺された五十子会長の未亡人に扮したのが、あの「極妻」のかたせ梨乃。
白石監督の話によれば、久々のヤクザ映画出演に、現場ではノリノリだったようです。
Wiki してみると、この人が、「極妻」に出演して「覚悟しいや」と凄みを聞かせていたのが、ちょうどこの映画に設定された暴対法が施行された時代です。
この映画で描かれている時代の空気を、肌で知っていたと言う意味では、貴重なキャスティングだったと言えます。
ちなみに、可笑しかったのが、前作で大上の仕組んだハニートラップにまんまと引っかかって、睾丸の真珠を抜き取られるという構成員・吉田を演じたコメディ・リリーフの音尾琢磨が、本作では同じ役で、ヤクザから足を洗った後に、会社の社長になっているのですが、その会社の名前が「パールエンタープライズ」。
上林にヤキを入れられて、薬指までちょん切られた上に、その会社まで乗っ取られていました。
北野武のヤクザ映画でも常連の寺島進は、会長亡き後の五十子会会長・角谷を演じていましたが、彼も上林の前に・・・
本作で、日岡のバディを務めた定年間近のロートル刑事・瀬島を演じた中村梅雀は、さすがの演技力でしたが、個人的にやられた思ったのは、その妻を演じた宮崎美子。
老刑事の古女房感を出しながらも、その笑顔の表情の中に、巧みにラストへつながる伏線を忍ばせていたことを、後になって気づかせるという絶妙な演技でした。
本作で初めて知った俳優が、上林組の構成員だけれど、実は日岡が上林組に送り込んだスパイという本作のキーマンになる若者チンタを演じた村上虹郎。
その設定だけで、この男は絶対に最後は上林に殺されるというのが予想ができてしまう役でしたが、その悲しきチンピラぶりが、本作のラストを盛り上げるのには重要なポイントになるという大切な役どころを上手にこなしていました。
そのチンタの姉で、クラブのママを演じたのは、元「乃木坂46」の西野七瀬。
彼女は、チンタの姉としてはリアル感がありましたが、クラブのママとしては、少々若すぎたかなという印象です。その貫禄においては、前作の真木よう子に軍配が上がりますね。まあ、これは個人的感想。
と言うような具合で、白石監督の過去作品の実績により、実に豪華な俳優陣たちが、コロナ禍の中、広島に集結して本作は撮影されたわけです。
さて、本作のクライマックスと、ラストに言及したいと思いますので、ネタバレ勘弁という方は、ここまでにしておいて下さい。
本作のクライマックスは、日岡と上林の、壮絶なタイマン・バトルです。
先のことなど何も考えずに、凄惨な暴力で、敵味方関係なく血祭りに上げていく上林は、自分が死ぬ事など1ミリも恐れていない迫力があります。
虐げられた少年時代から積み上げられてきたルサンチマンを、ただ一人親のように慕う前会長の仇を取ると言うだけの目的で、敵味方関係なく、破壊と暴力をエスカレートさせていくスーパービラン上林。
彼のキャラクターだけは、過去の東映ヤクザ映画に登場したどのヤクザにも、そのモデルが見当たりません。
強いて言えば、「ダークナイト」のジョーカーでしょうか。
彼は、時代と共に変遷していくヤクザ組織からは、完全に浮き上がったまま暴走し、映画の後半では、もはやその死に場所を探しているようにさえ見えます。
一方の日岡も、自分の未熟さから、チンタを失い、警察組織の中でも、次第に居場所を失っていきます。
そんな、ある意味似た者同士の二人が、命を懸けてタイマンを張るラストの肉弾バトルを、白石監督は「ランデブー」と称し、相思相愛同士の「セックス」とまで言います。
最後は、上林は日岡に射殺されてしまうわけですが、その死顔は、「俺を殺してくれるのは、お前しかいなかったよ」と言っているようでしたね。
そして、ラスト・シークエンス。
日岡は、広島県北部の村の駐在に移動させられますが、ここで村人と一緒に、絶滅しているはずのニホンオオカミを探しに山に入り、岩影にその一匹を発見して、それを追っていくというのがラスト・カット。
不思議な余韻が残るラストでしたが、頭をよぎったのは・・
は? なにそれ?
あの壮絶なクライマックスの後で、なんだか肩透かしを食らわされたようなこのラストは、いったいなんだったんだと、正直キツネ(ニホンオオカミではなく)につままれたような感じでした。
しかし、これは間違いなく、ちゃんと脚本構成として、練り上げられたラストであることは間違いないはずですから、これはいかんと思い直し、見終わってからしばし、その答えを自分なりに考えてみました。
思いついた解答は3つです。
まずは、単純に「孤狼の血」という本作に付けられたタイトルへの伏線回収ですね。
しかし、これではややベタ過ぎます。
もう少し、深掘りしてみると、二つ目に思いついたのはは、このニホンオオカミを、前作で命を落としている大上に被せていると言う解釈です。
このオオカミを日岡が追っていくというカットがラストと言うことは、つまり彼がこの先もまだ大上の意志を継ぎ、追いかけ続け、呉原市民をヤクザの手から守っていくんだという意思表示がこのラストの意味だろうという解釈。つまり、パート3、パート4もあるよという伏線ですね。
そしてさらに、深掘りしたのが、3つ目の解釈です。
これは、セリフとして、映画の中でわざわざ「ニホンオオカミ」とその種まで断定して言わせているところから、これに絡ませているなと踏んだ考察です。
ご存知の通り、ニホンオオカミは、生物学上は、1905年にはすでにこの世から姿を消している絶滅種です。
ニホンオオカミは、生息していた当時は、たった一匹でも、生息地域の食物連鎖のトップに君臨していたという動物です。
19世紀までの日本人たちは、人間さえも襲うこのニホンオオカミを恐れ、徹底的に捕獲し、ついには根絶やしにしてしまいます。
しかしその「狐狼」を絶滅させてしまった結果、彼らが捕食していた野生の猪や鹿や猿などの大繁殖を招くことになり、結果それらの動物が、農作物などを荒らすこととなり、人間社会への被害総体としては、ニホンオオカミ一匹による被害よりも甚大になってしまったという結果を招くわけです。
つまり、この「狐狼」を排除したことで、均衡を溜まっていた社会に何が起こるのかという暗示が、このラストの「ニホンオオカミ」の意味かなという深掘り。
まあ、映画ですから、その答えは、観客の皆様のお好きなように解釈して下さいと言うことでしょう。
令和の時代ともなると、もはやヤクザ自体も絶滅危惧種。
この種が、細々と保存されていくのは、もうスクリーンの中だけかもしれません。
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