劇場版MOZU
久しぶりに連続ドラマを見たんですね。
2014年にTBS・WOWOW共同で作られた「MOZU Season 1 〜百舌の叫ぶ夜〜」というミステリーです。
西島秀俊、香川照之、真木よう子という三人が共演するかなり重々しいテイストの宣材写真は、オンエア当時からチラチラと見ていたので、人気海外ドラマ「ツイン・ピークス」ファンのミステリー愛好家としては、ちょっと同じ気配を感じて、気にはなってはいました。
しかし、定年退職後は、現役時代に撮り溜めた、映画やドラマを少しずつ見ていく予定がびっしりで、新しいドラマを見る時間は割けないと思い、多少は気になるものがあってもやむなくスルーしていました。
とにかく、ハマりやすい性格ですので、よく出来ている、出来ていない関係なく、ドラマは一度見始めてしまいますと、よほどひどいものでない限り、大抵は最終回まで一気に見てしまいます。
この「一気に」と言うのがクセモノです。
つまり、ドラマに関しては、オンエアされているリアルタイムで、見る習慣がありません。
と言うのも、病的にせっかちですので、ドラマのいいところで、バサッと寸止めされて「また来週」とやられるのが大の苦手なんですね。
そのため、ビデオの時代になってからは、気になったドラマは、とりあえず第一話から最終回までを、全部録画しておいて、休みの日などに一気に見るというスタイルをずっと貫いておりました。
そう言うわけですので、ドラマは、一度見始めてしまいますと、ぶっ通しで10時間ぐらいの時間が持っていかれますので、サラリーマン時代の貴重なフリータイムの配分を考えると、ここはとりあえず録画だけしておいて、旬が過ぎるのは覚悟の上で、定年退職後にゆっくりと見ることにしようと決めたわけです。
こういう事情で、今でも、自前のDVD保管チェストの中には、未見のドラマがたっぷり眠っています。
ところが不思議なもので、定年退職後の人生は、やっと始まったばかりですが、意外にもこの在庫には手が伸びないんですね。
そう、世の中はサブスクライムの時代になってきたわけです。
ネットフリックスやディズニープラスなど、一定の月額視聴料を払えば、比較的新しいドラマは見放題。
個人的には、予算の都合で、現役時代ヘビーユーザーだったAmazon の会員特典であるAmazon プライムしか加入していませんが、それでも視聴作品はたんまり。
中には、有料課金の映像作品もあるのですが、無料視聴の作品だけ見るのでも、時間は足りないぐらいです。
こうなると、貧乏根性丸出しで恐縮ですが、いつでも見られる自前のストック作品よりも、無料ならと(正確には年間会員フィーを払ってはいますが)、Amazon プライムの作品を見ることのほうが多くなる訳です。
もちろん、見始めてしまえば、下手をすると丸一日以上を平気で費やすことになる連続ドラマよりは、およそ二時間もすればケリのつく映画を見ることの方が多くはなります。
そんなわけで、連続ドラマを見る機会は、ここ数年は激減していました。
とまあ、そんな状況の中で、久しぶりに見た「数年前」の連続ドラマが、本劇場版のベースになっていた逢坂剛原作のミステリーのSeason 1 でした。
当初、「百舌の叫ぶ夜」という副題から、異界の化け物が闊歩する京極夏彦寄りのホラーに近いミステリーかと想像していましたが、そこの予想は完全に外れました。
ドラマは、警察組織の腐敗に、連続殺人犯鬼や、国家プロジェクトの闇などを絡めた、かなり本格的なミステリー。
そこに、ハリウッドばりのカーアクションや、バイオレンスなどをふんだんに盛り込んだ正当ポリス・アクションといった趣きでした。
ハードボイルドなので、登場人物は、やたらと煙草をプカプカ。お酒もガブカブ。
今の時代を繁栄して、分別喫煙や禁煙コーナーなどの風俗も登場しますが、その執拗な描写は見ていて不自然なほど。
演者の喫煙シーンが妙に演技っぽかったのが、ハードボイルドのイメージによせすぎではないかとちょっと気になってしまいました。
さて、物語のベースになっているのは、妻を巻き込んだ爆弾テロの真相を追い求める公安の警部倉木の執念の捜査。これがストーリーの軸になっています。
これに、叩き上げのノンキャリア捜査一課警部補大杉と、公安の美人捜査官明星の人生を絡めて展開していきます。
原作は読んでいませんが、なかなか複雑に絡んだプロットを、ドラマならではの、丁寧な語り口で、上手に盛り上げてくれていたので、全10エピソードを、中だるみすることもなく、一気に見てしまいました。
最後は、テレビドラマとしてはかなり攻めた、空港爆破テロの阻止というクライマックスで締めくくり、ラストカットは、それまで一度も笑わなかった倉木が、大杉と飲み屋で語らいながらニッコリ微笑むと言うシーンで終わるのですが、エンドロールを眺めながら、ふと我に帰ります。
「あれ、待てよ。あれはどうなった? そういえば、あの件は?」
そんなんですね。
クライマックスの派手さに気を取られて、ドラマ中でふられた謎に対して、回収していないものがいくつかあるのに気がついたんですね。
グラークα作戦の件は?
明星美希の父親の件は?
倉木千尋は本当に・・?
待て待て。
10時間も付き合ったのに、そこはスルーかよ。
もうこの時には、久しぶりの連続ドラマにすっかりハマってしまっていたので、このモヤモヤは捨ておけません。
視聴者に投げた伏線を回収しないのは、ミステリー・ドラマとしては、反則だろうと思いつつ、続けて Season 2 全5話も一気に視聴。
まあこれも、評判だったSeason 1 の視聴者を、巧みに、Season 2 に誘導するための手段と考えれば、理解できないこともないので、「乗りかかった船」の途中下船はやめて、最後まで付き合うことにしたわけです。
Season 2 は、この手のドラマとしては、Season 1 よりも、さらに攻めてはいました。
「ドラマ化は不可能」とまで言われた原作なのですが、ラストに登場する「あれ」も含めて、このドラマの解決編には通常の警察モノよりは、かなりの予算がつぎ込まれたものと思われます。
キャストにも、蒼井優や佐野史郎といった芸達者も加わり、日本のドラマとしてはかなりのクゥオリティに到達していたと思われます。
WOWOWの制作するドラマには、今までもバスれはなかったという実績は認めるところで、このドラマ・シリーズは、それまでの日本ドラマの一定の到達点にはなっていただろうとは推測します。
もちろん、Season 1 での、謎も、ここでは卒なく回収。
倉木警部は、これでよく死ななかったと言うくらいの満身創痍の活躍の末、「これまでに見飽きた捏造された真実」を蹴散らして、「本当の真実」にたどり着きました。
このラストも、大杉と明星の待つレストランに向かう倉木の「微笑み」で無事エンドロールが上がってくるわけですが、またここでハタと我に帰ります。
「あれ? そういえば、あれはどうした?」
なんと、ここに至ってもまだ回収の謎が残っていることに気がついてしまいます。
「ダルマとは?」
「倉木の娘の死の真相は?」
謎はまだ残っていました。
これは明らかな確信犯。
なんでそんな中途半端な終わり方をするんだと、半分憤りつつ、Wiki を確認。
案の定、このドラマがオンエアされた、翌年に、同じキャスト、同じスタッフで「劇場版MOZU」、つまり本作が公開されていることを知るわけです。
映画興業では、本場ハリウッドに比べてしまえば、苦戦の続く我が国ではありますから、こういったメディア・ミックス戦略もわからないこともないですが、いかにメディアを超えた連続シリーズとはいえ、前作を見ていない人を念頭に置かないやり方で、メディア横断をするのはいかがなものかという疑問は残りました。
レンタルDVDや、サブスクライムが常識となった今では、新作を見るにあたっては、いつのまにやら、視聴者のシリーズ予習は常識だろうと言うことなってしまっていたようです。
思えば、あの「ツイン・ピークス」(旧作の方)も、ドラマの大ヒットの後に作られた「ローラ・パーマー最期の七日間」で、未解決の謎が映画になっていましたが、これはドラマの前日譚という建てつけでしたので、映画単独でも楽しめるようには作ってありました。
いずれにしても、どんなリメイクであれ、パート2であれ、スピンオフであれ、映画と言うものは、それぞれが単独でも楽しめるように作ってあるのが常識だと思っていた点は否めません。
そこを無視したら、見ようと思う観客の絶対数は減るだろうと思ってしまうわけです。
「007」も全作見ていますが、見た順番はバラバラ。寅さんシリーズも同様。
もちろん、それでも問題なく映画は、どこから見始めても楽しめました。
「スター・ウォーズ」の第二作目「帝国の逆襲」を見たときには、映画で初めて、一作単体で完結しないスタイルを見せられてちょっと動揺しましたが、それでも映画はそれなりに楽しめていました。
「ゴッドファザー」も「猿の惑星」も「ターミネーター」も、名作と言われるシリーズは、けっして、順番通りに見ないとわからないという脚本にはなっていません。
劇場版といえば、最近では「新世紀エヴァンゲリオン」を、同じくAmazon プライムで鑑賞いたしましたが、それまでのテレビ放送版は、一切予習しなかった親父世代であるにもかかわらず、劇場版は劇場版で、十分に楽しめました。
今回の本作に関しては、たまたまSeason 1 からストーリーを順番に追っていった流れで、図らずも、一気に劇場版の鑑賞にまでたどり着いてしまいましたが、如何に超豪華キャストをそろえた劇場版とはいえ、前シリーズ未見のまま、本作を単独で鑑賞していたとしたら、果たしてついていけたかどうか。
「宿題を忘れた小学生」の気分だったかもしれません。
まあ、そんなことに文句を言ってもしょうがないですが。
さて、この劇場版のために残された二つの謎は、もちろん本作においては、きちんと回収されてはいます。
その意味で、ミステリー作品としての大円団にはなっていますが、そこにはドラマと映画の「壁」が歴然としていたと言うのが個人的な感想。
ヒットしたドラマの映画化な訳ですから、一定のファンたちが劇場に足を運ぶことは計算できるわけで、ある程度のヒットは読める作品になりますので、当然ながら制作費は、ドラマ以上にかけられます。
製作費がかけられるとなれば、まずは豪華俳優のキャスティング。
レギュラー陣だけでも、このシリーズは、通常のドラマに比べてかなり豪華になってはいますが、本作にはそれに加え、伊勢谷俊介、松坂桃李、そして、超大型ゲスト・アクターとしてビートたけしをキャスティング。
フィリピン・ロケを敢行したり、一般公道でのドンパチも、ドラマよりは格段にスケール・アップ。
かなり鳴り物入りで、宣伝もされました。
しかし、映画というものは、不思議なもので、制作費をかければかけるほど、面白くなるという法則が成立しないというのがミソ。
本作も、映像的に出来ることがドラマとは格段に増えてしまった分、それを繋げる脚本の方が完全に映像に追っついていませんでした。
脚本が、映像素材を結びつける単なるガイドライン機能か果していなかったことという点は否めないところ。
ビートたけしのラスボスは、ちょっと「地獄の黙示録」の、マーロン・ブランドを彷彿とさせましたが、確かに存在感はあるものの、芸能界におけるたけし崇拝が、ドラマの空気に馴染まずにビジュアル化されているようで、お金をかけた割には、効果が伴っていない印象でした。
タイトルの「百舌」を1人で体現していた池松壮亮も、このタイトル維持のために、無理やり登場シーンをねじ込んだような配役で、松坂桃李との一騎打ちで、それなりのスポットは当てられていましたが、劇場版においては、完全に浮いていました。
ドラマ・シリーズの方では、明らかにドラマのコアとなる部分を、彼にしか出せない狂気の演技で締めてくれていましたので、ここも消化不良。
ミステリーというものは、謎を全て、回収すれば、それでいいと言うものではないと言うことですね。
それだけならば、ミステリー小説を読むだけでも十分なわけです。
映画というものは、まずは脚本ありきが基本。
脚本に仕込まれた謎を解決するのに、効果的なシーンを得るために高額な製作費がつぎ込まれるのならまだ話も分かりますが、お金をかけた場面をつなぎ合わせるために「謎」が仕込まれるのでは、ミステリーとしてはまさに主客転倒。
メディア・ミックスもよろしいですが、連続ドラマの長所を利用して、時間をかけて、丁寧に積み重ねてきた細やかなミステリーの提示と解決のサイクルを、最後の最後で、目を見張る(日本映画としては)アクションの中で、力技でねじ伏せられたような強引な印象はありました。
気がつけば、長谷川博己も松坂桃李も、ヒール役はイッチャてる目つきでケタケタ笑い、主人公たちも、ドラマでは丁寧に描かれていた普通っぽさが消え失せて、ヒーロー然として、どれだけ満身創痍になりながらも、次のシーンではケロッとして登場し、公共物を破壊するだけ破壊しても、何食わぬ顔で現場を立ち去るジェームズ・ボンドになってしまっていました。
映画のリアリティはどこへ?
もちろん、日本のドラマでここまで出来るのは「西部警察」を知る世代としてはなかなか感慨深いものがありますが、同じ分野なら、もっと桁違いの製作費をかけて作るハリウッド大作には、まだまだ遠く及ばないのも悲しい現実。
ここは無理して同じ土俵で戦うのは避けて、アニメしか評価されない、弱小映画国家にしかできない、我が国ならではの「オリジナリティ」を模索して世界に認めてもらう方が、現段階では得策なのではと思ってしまいます。
とにかく、まる3日かけてはまっていたドラマ・シリーズからは、本作をもってやっと解放されました。
露地栽培の百姓は、雨の日には畑に行けませんので、この時期は良しとしましょう。
そういえば、「ツイン・ピークス」の新シリーズも、まだ未見のままチェストに眠っているんだよなあ。
ところで、やはりどうしても、最後までわからなかったことが一つ。
確かに、ダルマの正体は判明しました。
でも、その映像が、どうして不特定多の人の夢の中にだけ登場する?
彼らの共通点は?
そして、そのメカニズムは?
まさか、「その答えは、原作小説を読んで」とおっしゃいます?
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