畑作業をしながらは、もっぱらYouTubeを聞いていますね。
「聞く」というのがミソで、作業をしながらですから、画面は見られません。
もっぱら音声だけ。
それも、土いじりをしていますので、手先はたいてい泥だらけ。
そんな手で、携帯はちょくちょくいじれませんので、出来るだけ再生時間の長いものを選んで聞いています。
BGM系動画も長いものが多いのですが、この時期によく聞くのは国会中継。
これだと3時間、4時間はザラです。
しかし、本国会では野党のツッコミ質問がそれほど面白くないので、最近は新しい分野を開拓いたしました。「朗読」です。
著作権の問題もあるようで、朗読チャンネルで主に取り上げられるのは、パプリックドメインになっているような古典名作が多いのですが、仕事をしながら事実上の読書ができるというのは悪くありません。
そこで、今回チョイスしたのは、堀辰雄の「風立ちぬ」。
1938年発表の私小説的作品で、著者堀辰雄の実体験が色濃く反映されていて、「青空文庫」で読むことも可能。
ジブリ作品に、ゼロ戦をテーマにした、同タイトルのアニメがあり、本作のテーマや時代背景は巧みに取り入れていますが、基本的には別物。
それよりも、僕らの世代としては、1981年にヒットした、松田聖子の7枚目のシングルのタイトルとして記憶に残っています。
この曲は作詞・松本隆、作曲・大瀧詠一という元はっぴーえんどコンビ。
高原のテラスで、別れの手紙を認めている少女のハートブレイク・ソングで、本書からのエッセンスは「高原」という舞台のみ。これも全く別物です。
そもそも、「風立ちぬ」というのは、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩の一節。
本書で引用されている部分では、「風立ちぬ いざ生きめやも」と続きます。
「生きめやも」とは、「生きようじゃないか」くらいの意味で、結核で若くして死んでいった婚約者・節子と「私」の、濃密な時間を、八ヶ岳の流麗な自然の中で、日記風に綴った中編小説。
下手をすれば「御涙頂戴」にしてしまいそうになる設定ですが、堀辰雄の文章に、ドラマチックな感情的表現や悲壮感はなく、実に物静かで淡々とした語り口になっています。
節子の直接的な臨終のシーンなども描かれておらず、最終章の回想でそれがわかるのみ。
朗読の時間としては、3時間41分。
ちなみに、朗読チャンネルは、YouTubeには結構あるのですが、個人的には女性が朗読する方が好みです。
朗読ですから、小説内のセリフは、男女のどちらのものも、朗読者が演じ分けるわけですが、男性朗読者が、女性っぽい出すのが、どうも生理的にダメなんですね。
反対に女性朗読者が、男性っぽい声色をするのは、それほど苦になりません。
今回拝聴した朗読は、海渡みなみという方のチャンネルで、節子の台詞回しが絶妙で、小説の世界にすっぽり入ってゆけました。
実は、僕の父親も、伴侶(つまり僕の母親)を若くして亡くしています。
僕が3歳の時で、弟が生まれてすぐでした。
弟には当然ながら、母親の記憶はまるでないらしいのですが、3歳だった僕には、僅かに母親の記憶の断片が残っています。
彼女は乳癌で亡くなっていますので、息を引き取るときには、骸骨のようにガリガリに痩せてしまっていたようですが、本人の希望で、その姿は息子には見せないようにしていたようです。
後に父親から聞いた話では、休みの日になると、父は僕と弟を乳母車に乗せて、母親が入院している病棟の下を何往復もしたと語っていました。
手のかかる年頃の息子が二人もいて、当時の父は、本作の「私」と節子のように、高原のサナトリウムで、二人きりのロマンティックで濃密な時間を過ごすことは出来なかったようですが、本書にも描写されているような、病床のベッドに添い寝をして、頬をすり寄せるくらいのシーンは何度かあったようです。
母親が亡くなってから3年ほどして、父親は再婚することになります。
晩年になって、父は当時を振り返ってこう語っていました。
「お母さんとは、お前たちがいて、父さん1人ではどうしようもなかったから、結婚してもらったようなもの。だから、母さんには、感謝しかない。
父さんの愛情は、あの時に全部使い果たしたな。」
実は母も再婚で、再婚同士の我が両親は、その後約40年の人生を添い遂げることになりますが、息子の自分から見ても、穏やかな夫婦でした。少なくとも、二人が喧嘩をしている場面には、生涯一度も遭遇していません。
映画好きだった父親とは、一緒にテレビの洋画劇場を見ることも多かったのですが、「慕情」やら「愛情物語」といったようなコテコテの恋愛映画を見終わると、照れるでもなく、よくしれっとこんなことを言っていました。
「こういう大恋愛を、人生で一度くらいは経験しておけよ。但し、結婚する前に。」
今にして思えば、なかなか含蓄のある言葉ですが、その両親もすでに他界。
生前、特に悪いこともしていないようなので、二人とも天国には行けていると思いますが、我が父親と二人の母親が、あちらの世界で、果たしてどういう人間関係を築いているかと想像してみることがあります。
父親はともかくとして、我が二人の母親は案外意気投合して、仲良くやれているような気がするんですね。
結局、その長男は、生涯結婚することもなく、百姓をしながら、現在独居老人をしているわけですが、もしも僕がいずれ3人のいるあちらにいけたとしたら、間違いなく大目玉を喰らうことになりそうです。
おそらく、口を揃えてこう言われますね。
「嫁は❗️孫は❗️」
これを言われては親不孝息子としては一言もありません。平身低頭して、肩身を狭くするのみ。
大失恋なら、恥ずかしながら何度かしましたが、大恋愛の方は怪しいもの。
この先、小説は死ぬまでに、何か書いてみようという色気はありますが、もしも仮に、自分の父親や堀辰雄のように、自分の伴侶を不治の病でなくすという悲しい経験があったとしても、それを本作のような凛とした純文学に昇華させる文章力が、自分にあるとは到底思えません。
自分の恋愛経験をネタに、陳腐なラブ・ソングくらいなら何曲か書いた事はありますが、どれも若気の至りで、今聞くと、顔から火が出るようなシロモノばかり。
振り返ると、ロクな人生を送ってこなかったなと、恥いるばかりです。
しかし、もしかしたら、父親の体験を想像しながらなら、ライト・ノベルくらいは書けそうな気もします。
「風立たぬ」人生ではあっても、それなりに・・
これは、いずれあちらの世界にお邪魔する時の、両親への手土産くらいになれば上等です。
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