土佐日記は、平安時代の歌人・紀貫之によって書かれた日記文学です。
934年(承平4年)に土佐守として赴任した貫之が、5年間の任期を終えて帰京するまでの船旅の様子を、侍女の視点から記しています。
なかなか凝った構成で、著者の遊び心が感じられます。
国司の重責を果たし終えた紀貫之が、京都の家に戻るまでの道中を、いっちょ日記にでもして楽しんでやろうかという開放感が感じられます。
肩の力を抜いたユーモアあふれる文体には好感が持て、思わず1000年前の平安時代にタイムスリップさせられてしまいました。
これだけの時間を隔てても変わることのない人間関係の悲喜こもごも、家族への情愛、自然への畏怖が、それぞれの場面で詠まれる短歌に凝縮され、世界的にも唯一無二の日本文化の奥深さを感じさせられました。
土佐日記は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という書き出しで知られています。
これは、「男が書くという日記というもの、女も書いてみようと思って書くのである」という意味。
簡単に言ってしまえば「成りすまし」というわけです。
今の感覚で言えば、ハンドルネームに近いかもしれません。
この書き出しは、当時としては非常に斬新な表現でした。
なぜなら、日記は本来、男性が公的な記録として書くものであり、女性が私的な感情を吐露するものではなかったからです。
地方国家公務員として、漢文による公的記録と5年間向き合ってきた彼が、当時の女性たちが使っていたかな文字を駆使することによって、その堅苦しさから解放されて、素直な気持ちを表現したいという思いに駆られたのでしょう。
公務のストレスから解放された彼が、本来持っていた茶目っ気とユーモアを、この日記に爆発させています。
貫之はこの書き出しによって、従来の男性中心的な日記文学の枠組みを打破し、男性の身でありながら、女性の声を文学に表現することに成功したといえます。
事実、「土佐日記」は後の女流文学に大きな影響を与えました。
特に『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品には確実に、大きな影響を及ぼしています。
さらに、本作には、日本語の文体に漢詩や和歌を埋め込む技法など、さまざまな文学的技法が用いられ、日本の古典文学の歴史においても重要な位置を占めているわけです。
紀貫之は、平安時代前期の歌人、官僚、学者だった人物です。
いわゆる三十六歌仙の一人。この時代の生粋の文化人ですね。
藤原北家良房の孫で、歌人・紀友則の兄。
幼い頃からその才能を発揮し、「学問の神様」としても有名な藤原道真にも師事しました。
優れた歌人として知られており、特に『古今和歌集』の編纂に大きく貢献しています。
彼の歌風は、優美で繊細な表現と、自然や情景を巧みに描写する点が特徴。
思ひ出は 花よりも猶 あだなりと 誰か教へし 春の夜の夢
古今和歌集では、なかなか秀逸な、恋歌を読んでいます。
さて、国府のあった大津から一行が出発する際には、送別会のラッシュが続きます。
「馬のはなむけ」という餞別を意味する言葉が出てきますが、この頃には、実際に馬ではなく、普通の餞別そのものをこう言っていたようです。
著者はそれを承知で、船旅であるのに、馬をはなむけに持ってくるのかと軽口を叩いていますね。
任官を解かれて都へ帰ることを祝ってくれる仕事仲間たちの好意は嬉しかったかもしれませんが、どうやら、彼(彼女)は素直には喜んでいないようにお見受けします。
海賊がウヨウヨしている海路への不安もあったでしょう。
あんたたち、送別にかこつけて、酒を飲むことを楽しみたいだけだろうと言う皮肉もこもっていたかもしれません。
びっくりしてしまうのは、こういう時に当時は子供にも酒を飲ませていたようです。
酔っ払った子供が、足をクロスさせてへべれけになっているなんて描写もありました。
国府から一行は、船が出る港のある浦戸に到着します。
当時の船は木造船です。
平安時代の絵巻物を見る限り、10人ほどの漕ぎ手を、楫取(かじとり)リーダーが指揮して進む帆船です。
船に乗り込んでいる人たちは、一度、海へ出れば、自分たちの命をこの楫取りに預けなければなりません。
ところがこの楫取りがなかなかの曲者。
この人物が実際にいたのか、それとも紀貫之の創作によるフィクションの人物なのかは分かりません。
ただ、こういう問題人物を配置することで、物語が俄然面白くなると言う事は計算していたかもしれません。
この楫取は、一行が意気消沈しているときに、その場の空気も読めずに、終始意味不明の鼻歌を歌い続けたりします。
こんなエピソードもありましたね。
航行中、突然の突風が吹いてきて、船が波間に揺れ始めます。
すると楫取りがいいます。
「住吉明神の怒りを沈めるために、何か大切なものを海に投げてくだされ。」
そこで、神事やお祓いに使う幣を投げるのですが、嵐は収まりません。
「もっと大事なものを」
そう言われて、やむなく当時としてはかなり貴重な鏡を投げ込むのですが、なんとこれで嵐は、ピタリとおさまってしまいます。
そこで読まれたのがこんな歌です。
ちはやぶる神の心を荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな
神様。こんなもので、怒りが静まるなんて、よほど欲の皮が突っ張っているとお見受けするみたいなことでしょうか。
著者は、嵐はやがておさまると分かっていた楫取のパフォーマンスではなかったかと疑っている気さえします。
もしかしたら、このクセのある人物に著者は自分自身を投影していた可能性もあります。
日記の中には、この海路に出没している海賊たちへの恐怖心が度々話に出てきます。
平安時代、瀬戸内海は海賊の活動が盛んな場所でした。
特に、三島村上氏と呼ばれる海賊団が有名で、彼らは来島・能島・因島を拠点に、瀬戸内海を支配していました。
これらの海賊は、単なる略奪者というよりは、海のスペシャリストであり、海上の安全や交易・流通を担う重要な役割を果たしていたとされています。
そんな時代背景を受けて、「土佐日記」には、海賊の脅威に対する記述が見られます。
船頭たちが神仏に祈りを捧げる様子や、海賊に追われる恐怖を表現した歌が記されています。
これらの記述は、当時の海賊の存在がいかに身近な脅威であったかを物語っています。
三十日。雨風吹かず。「海賊は夜歩きせざなり」と聞きて、夜中ばかりに船を出、阿波の水門を渡る。夜中なれば、西東も見えず。男女、からく神仏を祈りて、この水門を渡りぬ。
海路で最も海賊と遭遇する確率の高い鳴門海峡を渡る夜の一行の緊張感が伝わってくる描写です。
海賊は、夜には現れないと言う定説を信じて、あえて危険な夜間に畿内に入ろうとする一行。
船に乗っているものは、皆、手を合わせて神に祈るのみと言うわけです。
このように、平安時代の瀬戸内海は、海賊による支配が常態化しており、その影響は政治や経済にも及んでいたことが伺えます。
そして、文学作品にもその影響が色濃く反映されていたのです。
この海賊は、中世には村上水軍として名を馳せます。
そして、それは、豊臣秀吉の時代、1588年(天正16年)に海賊停止令が発布されるまで続くことになるわけです。
京の都から土佐へ下向するときに、国司と女房の間には子供がいました。
しかし都へ戻るこの船の中にその子供の姿はありません。
土佐での5年間の間に、夫婦はこの子供を病で失っています。
この日記には、折に触れ、子供をなくした夫婦の哀歓の情が度々秀逸な短歌となって表現されています。
子をこひし 人の恋しきは 夜ぞ更けて かたぶく山里の つらぬきとぬ
I
この短歌は、紀貫之が土佐で勤務中に、地元の夫婦が子供を亡くした悲しみを歌ったものです。
夜が更ける中、山里に響く夫婦の悲嘆や涙が、作者の心にも深く共鳴しています。
子供の死によって破れた親の心情や、それが周囲に及ぼす影響が、この短歌によって感じられます。
見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや
55日間の長旅を経て、荒れ果てた京都の自宅にたどり着いた著者は、最後は、自分が侍女に扮していることもかなぐり捨てて、親として、我が子を失った悲しみの心情を吐露した短歌を詠んでこの日記を終わらせています。
土佐日記は、ユーモアと皮肉、遊び心が光る作品です。
作者は、短歌で鍛え上げた様々な表現技法を用いて、旅の喜びや悲しみ、そして人生の様々な側面をユーモラスに描き出しています。
これらの描写は、作品をより魅力的なものにするだけでなく、時代を超えて読者に深い共感を与える効果も果たしています。
求めしもおかず。ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎、もし思ふやうあらむや。
押鮎は土佐の名産品ですが、「押鮎をの みぞ食ふ」ではなく「押鮎の口をのみぞ吸ふ」と表現しているあたりがクセモノ。
もちろん、人々は本当に押鮎の口だけをチューチュー吸っていたわけではないでしょう。
つまり頭からかぶ りつく様子をキスに見立てているわけです。
さらに作者は、「こんなことされ れば、押鮎だってヘンな気を起こしはしないかしら?」と悪ノリしているわけです。
侍女と言う女性目線から書き出した日記ではありますが、著者の脇は非常に甘いわけです。
その目線のほころびは、当時の読者にも十分に理解できたはずです。
しかしそれを承知でも、そのユルさが、かえってこの作品の魅力になっている事は確かなようです。
紀貫之と言う人物のユーモアのセンス、懐の深さ、皮肉っぽい視線、人としての情愛。
そのすべての様子が絶妙なハーモニーを奏でて、この作品を極上のエンターテイメントにしているように思います。
旅の道中を面白おかしく描いて江戸時代に大ヒットした十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」のユーモア小説としての原点は、この土佐日記にさかのぼるのかもしれません。
土佐日記には、紀貫之のダジャレがふんだんに出てきます。
今で言うところの親父ギャグですね。
教科書にも、載るような古典の名作に、オヤジギャグがふんだんにあると言うのは、僕のような不良老人にはなんとも喜ばしい限りです。
もしも、紀貫之が現代に生きていたら、間違いなくYouTuberをやっていたと想像します。
その独特な世界観とユーモアのセンスを発揮して、平安時代の歴史や文化を、自身の体験談を交えてわかりやすく解説。
教科書では学べない、当時の生活や人々の暮らしを、ユーモアを交えて紹介。
全国各地を旅しながら、風景や文化、グルメなどを紹介。
旅先での出会いやハプニングも満載。
和歌: 和歌の歴史や作法を、現代風にアレンジして解説。
視聴者と一緒に和歌を作ってみようなんてコーナーもあるかもしれません。
日本文学の古典ではありますが、堅苦しいと敬遠するものではありません。
現在の視点から見ても、十分に共有できる日本文化の奥深さが詰まっていますね。
スマホも、パソコンも、インターネットもない時代でも、人々は、いかに文化的であったかが伺い知れる作品です。
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