本書は、アガサ・クリスティの長編ミステリーの6作目。
彼女がミステリー作家として、認められることになった記念すべき作品です。
エルキュール・ポワロが活躍する小説としては、これが3作目に当たります。
執筆されたのは、1926年。ですから、今から、ほぼ100年前ですね。
実家が書店でしたので、ミステリーにはまっていた学生時代に、何度か手に取ったものの結局未読のままでした。
今にして思えば、なぜあの時に読んでおかなかったかが悔やまれます。
あの頃なら、インターネットもありませんでしたので、事前情報はほぼないまま読めたはずだからです。
そうすれば間違いなく、この驚愕のラストには、素直に感嘆の声をあげられたはず。
なんとも悔やまれます。
ミステリー小説の紹介にネタバなしは常識ですが、本作ほどの名作でも、やはり発表から100年もたってしまうと、この常識は通用しなくなるようです。
本作を読了後、Wiki で確認してみましたが、なんと本作の根幹をなすトリックも、犯人も堂々と開示しちゃってるんですね。ビックリです。
まだ、本作を未読で、「アクロイド殺人事件」について、なんの前知識もないという幸せな方がいらっしゃいましたら、アガサ・クリスティについても、エルキュール・ポワロについても、一切の検索行為はせずに、本ブログもここで中断して、1926年本作発表当時のまっさらないちミステリー・ファンになったつもりで読み始めてください。
それが、ミステリー史に偉大な足跡を残すこの傑作を100%楽しむ方法です。
僕の場合は、残念ながら、本作を未読のまま、この傑作についての前情報についていろいろと触れすぎてしまいました。
150年にわたる、ミステリーの歴史の中で、数々の推理作家がいろいろなタイプのトリックを編み出してきました。
密室トリック、アリバイ・トリック、物理トリック、心理トリックなどなど。
その中で、ひとつだけ少々毛色が違うトリックがあるんですね。
それが、叙述トリックです。
Wiki によれば、こういうことです。
「小説という形式自体が持つ暗黙の前提や、偏見を利用したトリック。」
つまり、通常のトリックが、形式上犯人が警察や名探偵の目を欺くために仕掛けるものなのに対し、叙述トリックは、作者が直接読者に対して仕掛けるトリックであるということです。
読者の「思い込みモード」を、巧みにミスリードして、ラストまで引っ張り、最後でひっくり返す。
これは、文章だけで、読者を最後まで騙し通さなければいけないので、作者にも最高レベルの文章スキルが要求されます。
そしてあくまで、作者は読者に対して、最大限に誠実であることが要求されます。
起こった事実を「書かない」ことは認められますが、噓をつくことは反則です。
大胆な叙述トリックが、公明正大に仕組まれれば仕組まれるほど、ラストの衝撃は大きくなります。
本作は、叙述トリックを駆使した古典ミステリーの大傑作です。
本書が公表された後は、このトリックがはたして、フェアか、アンフェアかで、ミステリー界は一時騒然となりました。
クリスティ自身も、本書の前書きで、「一度しか使えないトリック」と説明していますが、これがアンフェアにならないために、文書の一言一句には最大限の注意を払ったとも書いています。
そして、最終的に、明らかになったすべての事実が、論理矛盾なく読者に提示されたうえで、「その人物」が犯人であることが理路整然と示されれば、叙述トリックは成功というわけです。
クリスティと同時代に、密室トリックの名手として活躍していたディクスン・カーは、アンフェア派でした。
「読者に対し仕掛けられている(この)トリックは、推理小説の作者の合法的な手法とは言いがたい。」
コテコテの密室トリックでファンを魅了していた彼にとっては、本筋のトリックからは離れて、作者の文章技術で、読者を翻弄するようなトリックは、トリックとしては認められないということだったのでしょう。
しかし、謎を解くすべての事実は、作中のポワロ同様、読者にもすべて提示されたうえで、事件を解決させているのは間違いなく、ミステリーとしては何の問題もないという支持派も多数いました。
事実、本作以降、作者自身が一度しか使えないと言っているにもかかわらず、このトリックをそのまま拝借したものや、さらに発展させた様々な叙述トリックを駆使した推理小説が多く発表されるという経緯になっていきますので、本作はその先駆けとして、次第にその評価を不動のものにしていくことになります。
Wiki によれば、叙述トリックを使用した小説は、本作以前にもあったようですが、ミステリーの「どんでん返し」のトリックとして本格的に使用したという意味では、やはりアガサ・クリスティの功績は大でしょう。
今回僕は、残念ながら、本作が叙述トリックを使ったミステリーであることを前情報として知った上で読んでいますので、もちろん犯人が誰かは分かってしまっていました。
ですから、今回は本作発表後に紛糾したフェア・アンフェア問題を、図らずも自分なりに検証しながら読むという形の読書になってしまいました。
叙述トリックを扱ったミステリーは、叙述トリックと言うジャンル分けをするだけで、既にネタバレになってしまいますので、ここは扱い方が非常に難しい。
しかし、ミステリーの女王の筆力は大したもんです。
犯人が誰かわかっていながら読んでも、本書は十分に面白いんですね。
フェアだろうが、アンフェアだろうが、ミステリーとして面白ければすべての問題は雲散霧消。
問題なしというのが個人的な結論です。
アガサ・クリスティ恐るべし。
とにかく、このアイデアを成立させるために、彼女が構築した物語のプロットが見事なんですね。
アクロイド殺し発生後の関係者の証言は、犯人は外部からの侵入者し、発生後は行方をくらましたある人物であることを示しています。
僕がすでに知っている「その犯人」も、その状況では、絶対にアクロイドを殺せない。
さあ、ここからどう事件を解決するのだろう。
すでに、答えを知っている僕の興味はそういうことになります。
館の令嬢からの依頼でエルキュール・ポワロが、この事件の解決に向けて動き出します。
物語の中盤、ポワロは関係者を一堂に集めて、こういいます。
「ここにいらっしゃる皆さんは、一人残らず、私に対して嘘をついていらっしゃる。」
謎だらけの殺人事件は、ここから一気に動き出します。
館の関係者の大きな嘘、小さな嘘が次々にポワロに依って暴かれ、関係者の証言で成立していた事件の全容が次第に事実に近づいていきます。
そして、最後に、ポワロが関係者を再び一堂に集めて、彼が指示した犯人は、もちろん「その人物」。
こちらも、なるほどと納得です。
もし仮に、本書に叙述トリックが仕掛けられていなくても、それ以外にクリスティが本作で使ったアリバイ・トリックや密室トリック、心理トリックは、一つの長編ミステリーを成立させるのに十分な内容でした。
そのうえで、最後はあのどんでん返し。
本作がミステリー史に残る傑作になったことは大いにうなづけます。
アガサ・クリスティあっぱれ!
さて、本作を読みながら、頭に浮かんでいたことは、ヘイスティング大尉のことでした。
名探偵シャーロック・ホームズなら、ワトソン博士に当たる、エルキュール・ポワロの仕事上の相棒です。
ワトスン博士同様、ヘイスティング大尉も、ポワロとの事件を記録して、世間に公表しています。
しかし本作には、ヘイスティング大尉は登場していません。
本書内でのポワロの説明によれば、結婚してアルゼンチンに移住したとのこと。
ポワロ自身も、それを機に探偵業を引退して、この村に隠居し、新種のかぼちゃを育てているという設定でした。
そして、この村でこの「アクロイド殺し」に巻き込まれ、それを見事に解決すると、ポワロはアルゼンチンから帰ってきたヘイスティングとともに、再び現役復帰をし、コンビで数々の難事件を解決していくことになります。
なるほど。
ということはつまり、前二作で名コンビだったヘイスティング大尉のアルゼンチン移住は、本作には彼を登場させないための設定だった?
おそらくそうなのでしょう。
作者は、この前代未聞のトリックのアイデアを思い付いた時、同時にヘイスティングはこの物語には出せないと思ったんでしょうね。
それ故、ポワロには、一時引退をしてもらったと、僕の「小さな灰色の細胞」は推理します。
だってそうでないと・・
おっと言い過ぎました。
この辺りにしときます。
全くもって、ミステリー小説の紹介は、それが名作であればあるほど、うかつなことは言えなくなります。
歯がゆいったらありません。
アクロイド殺しの真犯人は誰か?
その人物は、そうとうアクロイド。
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