あまりにも有名なデビッド・リーン監督の映画叙事詩です。
いろいろと聞きかじった知識の断片が、脳内でごちゃ混ぜになっていて、さもこの映画を見ていたような錯覚をしていましたが未見でした。
昭和時代は、ハリウッドの大作をダイジェストで紹介するようなテレビ番組もけっこけっこうあって、ハイライトシーンだけは、断片的に記憶にあるのですが、インターミッション付き3時間20分を全編通して一気に見たのは、間違いなく今回が初めてでした。
「ドクトル・ジバゴ」との最初の出会いは、ハッキリしています。
それは、僕が中学生当時、我が家にあった全24曲入りの「映画音楽大全集」という2枚組企画LPレコード。
1970年代初頭に編集されたものでしたから、選曲の中心は60年代の映画でした。
その中のC面の4曲目に納められていたのが、「ラーラのテーマ」。
「ドクトル・ジバゴ」のメインテーマとなる楽曲です。これは好きでしたね。
あの当時、繰り返し聞いていたのを覚えています。
この曲を作曲し、本作の音楽を担当したのは、モーリス・ジャール。
この時代の映画音楽の大御所です。
ジャールはロシア音楽からインスピレーションを得つつも、普遍的な感情を表現するために独自性を追求しました。バラライカやハープシコードなどの楽器を重視し、多様な音色を用いてロシア革命期の雰囲気を再現。
このスコアはアカデミー賞作曲賞やグラミー賞など、多くの賞を受賞しています
ジャールは、デビッド・リーン監督の作品のうち4本の映画で、音楽を担当しています。
本作の他は、「アラビアのロレンス」「ライアンの娘」「インドへの道」。
オーケストレーションの極地といってもいい彼の重厚な音楽は、映像叙事詩の名匠デビッド・リーン監督が創り出す映像との相性が抜群です。
「ラーラのテーマ」は、本作のここぞという場面で、アレンジを変えて繰り返し使用されていますが、それがこの曲の印象をひときわ印象的にさせています。
本作の原作は、ボリス・パステルナークの同名小説です。
ボリス・パステルナークは、ロシアおよびソ連を代表する詩人、小説家、文学翻訳者です。
『ドクトル・ジバゴ』は彼の代表作であり、ロシア革命から第二次世界大戦までの激動の時代を背景に、普遍的人間性や究極の愛を描いた抒情的文学作品です。
彼は本作でノーベル文学賞を受賞することになりましたが、当時のソ連のダークサイドを克明に描いたことにより、ソ連政府の圧力を受け辞退を余儀なくされました。
本作の主人公ユーリ・ジバゴには、かなり色濃くパステルナーク自身が投影されています。
ボリス・パステルナークはその詩の才能、小説家としての実力、そしてインテリ階級受難のこの時代において、革命成立後のソ連の非人道的な圧政を記録した功績はよく知られていて、今なおロシア文学の重要な存在として認識されています。
1917年のロシア革命後、ボリシェビキ政権は「新しい社会主義国家」の建設を決意しましたが、実際には徹底した独裁体制を敷きました。
知識人層への弾圧も激化、多くの作家や芸術家や学者が粛清されていきました。
多くの労働者が強制的に招集され、法外に安い報酬で労働に従事させられ、農業の集団化政策の結果、多くの農民が飢餓に直面しました。
秘密警察による監視と密告が日常化し、ほんの細やかな嫌疑でも停止・投獄の対象となりました。
芸術・文化活動は厳しい検閲の下に置かれ、社会主義リアリズムという公式の政策方針からはずれた表現はすべて禁止されています。
パステルナーク自身も、自分の作品の出版は国内では拒否されています。
映画は、この時期のソ連の政治的状況を克明に描き出しています。
もちろん内容が内容ですから、ソ連領土内での撮影は一切できません。
映画は、スペインやフィンランドに、3年がかりで大規模なオープンセットを構築し、真夏のスペインに人工雪を敷き詰めるなどの力技で、前代未聞の製作費をつぎ込んでいます。
本作のプロデューサーは、カルロ・ポンティ。イタリア人です。
イタリア人の手で、ハリウッドに負けない超大作を作りたいと奮闘していた人物。
イタリアの名女優ソフィア・ローレンのご主人でもあります。
パステルナークが秘密裏に書いていた原作小説は、ソ連国内では発表できる状態ではありませんでしたから、この本は関係者によって密かに持ち出され、最初イタリアで発表されています。
この小説に目を付けたのが、カルロ・ポンティ。
しかし、映像化不可能と思われるその内容に恐れをなして、なかなか出資者が獲得できません。
そんな時期に、デビッド・リーン監督が、「アラビアのロレンス」でアカデミー賞を受賞します。
早速、ポンティは、デビッド・リーン監督に、「ドクトル・ジバゴ」のアイデアをプレゼン。
彼はこの時期、親密でロマンティックな物語を軸とした、一市民の目線から歴史を描くような作品を撮りたいと次回作を模索していたこともあり、ポンティから提示されたアイデアに大きな関心を示します。
天下のアカデミー賞監督が撮るならと、ハリウッド資本も製作費の出資を決定。
「ドクトル・ジバゴ」プロジェクトは、こうしてスタートを切ります。
話は脱線しますが、「ドクトル・ジバゴ」でリサーチしていたら、ちょっと面白い資料がヒットしました。
1960年代当時に、CIAによる「ドクトル・ジバゴ計画」というプロジェクトがあったんですね。
これは、冷戦時代における文化的プロパガンダ戦略として実際に行われた極秘作戦です。
これは小説「ドクトル・ジバゴ」を利用し、ソ連国内および東側諸国における社会主義思想を攪乱させようというもの。
CIAはオランダの出版社に、ロシア語版「ドクトル・ジバゴ」を秘密裏に印刷させ、文庫本より小さく製本しました。
これをヨーロッパに観光に来ているロシア人たちに無料で配ったり、密輸させたりしたわけです。
この本はロシアでは発禁でしたが、誰もが心の底では求めていた内容のこの本は、瞬く間に市民の間に流通。
この計画により、市民が自国政府による言論統制や文化的抑圧を再認識し、体制への疑問を抱かせることに一定の効果があったされています。
冷戦時代においては、「文化」も情報戦略して立派な武器となり得ることをした証明した象徴的な作戦でした。
さて本作は、1917年のロシア革命を背景に、詩人であり医師でもあるユーリ・ジバゴと、彼を愛する女性ラーラとの悲劇的な恋愛を描いています。
物語は、ユーリ・ジバゴ(オマー・シャリフ)が孤児となり、裕福な叔父一家に引き取られるところからスタート。
彼は成長して医師となり養父母の娘トーニャ(ジェラルディン・チャップリン) と結婚します。
しかしユーリは自殺未遂をした夫人の治療のために、恩師と向かったコマロフスキー(ロッド・スタイガー)の家で、夫人の娘ラーラ(ジュリー・クリスティ)と運命的な出会いをします。
しかしラーラは、コマロフスキーの庇護から逃れるために、革命家のパーシャ(トム・コートネイ)と結婚。
第一次世界大戦中、ユーリとララは野戦病院で再会し、そこで一緒に働きながら二人はお互い惹かれ合っていきます。
しかし、それぞれの配偶者への忠誠が、ギリギリのところで、二人を親密な関係には進展させません。
家に戻ったユーリは、革命政府に支配されているモスクワを捨て、家族と共にヴァリキノに疎開。
そしてユーリは隣町のユリアティンで働いていたラーラと再会します。
再び出会った二人は、お互いに家族を持ちながらも、まるで、それが運命であるかのように愛し合うようになります。
しかし、二人の女性の間で揺れ動くユーリに、運命は過酷な試練を与えます。
ユーリは共産主義のパルチザンに拉致され、強制的に医療活動を強いられる中、家族はモスクワに避難。
パルチザンから逃げ出したユーリは、極寒の大地を放浪しながらラーラの元へ。
しかし、そこには夫がラーラの元へ行くとわかっていた妻トーニャからの手紙が届いていました。
ここにいても、やがて革命政府の手が伸びてくることを理解していた二人は、せめて残された時間を一緒に過ごそうと、雪と氷に閉ざされたヴァリキノに向かいます。
しかし、そこに現れたのはコマロフスキーでした。
彼は、今はバリバリの革命政府の指導者になっていたラーラの夫が死亡したことを伝え、ラーラの身にも危険が迫っていることを伝えます。
コマロフスキーにラーラを託したユーリは、断腸の思いで二人を見送ります。
そして、年月が経ち、ユーリはもう一度だけモスクワの街中で、ラーラの姿を見つけますが・・・
というわけで、あらすじをかいつまんでみれば、本作はガチガチのダブル不倫のメロドラマなのですが、ここに低俗性を微塵も感じさせないのは、ひとえにこの映画のスケールの壮大さと、デビッド・リーン監督の類まれなる芸術的映像センスの賜物でしょう。
そして、ユーリを繊細かつ内向的に演じたオマー・シャリフ の「物憂げな目」や静かな存在感は、観客にこの主人公の詩的で理想主義的な性格を伝えることに成功しました。
そして、なんといってもジュリー・クリスティの美しさ。
その美しさの奥に強さを秘めた女性として描かれたラーラを的確に演じた彼女は、本作と同じ年に「ダーリング」でアカデミー賞主演女優賞を獲得していて、本作の演技にはその自信も垣間見えました。
しかし、それよりも個人的に印象的だったのは、ロマコフスキーを演じたロッド・スタイガー。
この人も1967年には「夜の大捜査線」で、アカデミー賞主演男優賞を獲得しますが、本作でのエロおやじながらも純愛を貫く存在感には、捨て置けないこの人の演技の底力を感じました。
ユーリの妻トーニャを演じたのは、あのチャールズ・チャップリンの娘ジェラルディン・チャップリン。
魅力的な女優ですが、やはり美しさという点では、ジュリー・クリスティには及びません。
しかし、そんな彼女が演じるからこそ、トーニャの健気さや切なさは、観客の胸を締め付けます。
そして、本作の中での影の主人公ともいえる存在が、ユーリの異母兄エフゲラフ(アレック・ギネス)です。
映画の冒頭とラストで登場し、要所要所でも顔を出す作品の狂言回し的存在です。
映画は、ユーリとラーラの娘である少女に、本当の両親の存在を伝え、今後の援助申し込むところで終わりますから、出演場面は少ないものの、エフゲラフは本作では完全なもうけ役。
超大作の美味しいところをさらっていった感があります。
しかし、本作を完全にコントロールして世に送り出した功労者は、なんといってもデビッド・リーン監督でしょう。
スティーヴン・スピルバーグ監督も心酔するこの監督は、日本の黒澤明にも匹敵するような完全主義者です。
その鬼監督ぶりは、本作においても如何なく発揮されています。
デヴィッド・リーンは、俳優やスタッフに対してかなり厳しい要求を課しました。
例えば、衣装デザインでは俳優たちに見えない下着まで時代考証をベースに再現させるなど、その徹底ぶりは技術スタッフや俳優たちとの緊張関係を生むことになりました。
限られた期間内で、ロシアの壮大な自然環境を違和感なくフィルムに再現するために、茶色く枯れた葉に緑色のスプレーをかけたり、青々とした葉に枯葉色のスプレーをして、色彩コントロールするくらいは朝飯前。
スペインで撮影された春のシーンでは7,000本以上のスイセンが植えられました。
しかし暖冬による早咲きを防ぐため、一度掘り起こして保存し、再び植え直すという手間をかけさせられたため、やはりスタッフとの間には微妙な緊張感が生まれたといいます。
真夏に雪景色を再現するのに、蜜蠟で一軒家をコーティングしたり、コンセプト上、必要のない色は、画面の中から徹底的に排除させました。
革命政権に支配されたモスクワの街は、黒と茶色と赤で完全にコーディネートされていたので、その中で唯一ブルーだったジュリークリスティーの瞳は強烈な印象を残しました。
とにかく、スケール感いっぱいのこの監督の完全主義ぶりは桁違いです。
シネラマスコープいっぱいの、ロシアの広大な自然をすべて、自分のコントロール下に置こうというわけですから、そのための予算の獲得も、スタッフとの軋轢も計り知れないものになるわけです。
大自然そのものと、デジタルやCGではない人力で加工した自然が混然となったデビッド・リーン監督の圧倒的な映像設計が、妥協なく展開されていく本作の撮影はまさに圧巻。
映像叙事詩と呼ぶのにふさわしいものです。
さらにエジプト人であるオマー・シャリフにロシア人を演じさせるために、額の生え際を綺麗に剃らせて前髪を被せたり、ロマコフスキーがラーラから嫌われているという生々しさをリアルに出させるために、ジュリー・クリスティには内緒で、ロッド・スタイガーにディープ・キスを要求。
メイン・キャストだけでなく、彼の徹底した演技要求は、エキストラにまで及びます。
廃墟にされた街の横を、ユーリたちの乗った列車が通り過ぎます。
焼け出された住民たちは走る列車に群がります。
一人の母親が、自分の赤ん坊をユーリたちに渡し、ユーリに手を取られて自分自身も列車に引き上げられようというシーンで事故が発生します。
なんと、その女優の足が走行する列車の車輪に絡めとられて、その女優は両足を切断。
現場には、救急車が急行して現場は一時騒然とします。
しかし、救急車が去った後、デビッド・リーン監督は、女優の代役を立てて、そのまま撮影を続行しました。
現場には、一時異様な雰囲気が漂ったそうです。
これだけの大プロジェクトを指揮する監督には、いったいどれだれけのプレッシャーがかかっているのかは、ちょっと想像できませんが、映画製作を中断することで発生するリスクは、彼の人間性も凌駕してしまうということなのでしょう。
しかし、デヴィッド・リーンの完璧主義は、『ドクトル・ジバゴ』を映画叙事詩と呼ばれる視覚的に美しい作品まで仕上げる原動力となったことは異論のないところ。
もちろんその過程において、キャストやスタッフには容赦なく多大なストレスと負担を与えました。
けれど、このような緊張感と努力の積み重ねが、最終的に本作を映画史に残る名作として結実させたことは紛れもない事実。
本作の後、「ライアンの娘」で批評家たちから酷評を浴びることになるデビッド・リーンは、以後14年間沈黙することになりますが、1984年の「インドへの道」で復活することになります。
戦争という歴史を背景にした壮大な人間ドラマというコンセプトとしては、1939年の「風と共に去りぬ」が思い浮かびますが、あの映画のメインテーマは「タラのテーマ」でした。
本作の「ラーラのテーマ」を作曲するときに、もしかすると、モーリス・ジャールの脳裏の中には「タラのテーマ」が鳴り響いていたかもしれません。
だとするとそれは、アレック・ギネスの最後のセリフではありませんが、映画音楽家マックス・スタイナーからの「ギフト」だったかもしれません。
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