Amazonプライムの目玉として、去年の6月に公開されたばかりの「怪物」がラインナップに加わっていましたので、早速鑑賞させていただきました。
本作の監督は是枝裕和。
脚本を手掛けたのが坂元裕二。
そして音楽を担当したのが、これが遺作となった坂本龍一。
多層的な視点から人間関係や社会の問題を描いた意欲作です。
舞台となるのは大きな湖のある郊外の町。
シングルマザーの早織(安藤サクラ)は、息子の湊(黒川想矢)と二人暮らしをしています。
湊は同級生の依里(柊木陽太)と親しくしていましたが、学校で起きた喧嘩をきっかけに、事態は担任教師・保利(永山瑛太)を巻き込んで思わぬ方向へ。
本作の大きな特徴は、同じ時間軸で起こった出来事を、3つの視点から繰り返し描いている点です。
黒澤明監督が「羅生門」で披露して有名になったスタイルです。
その後、多くの監督がこのスタイルの秀作を発表していますが、本作はこのスタイルをさらに進化させています。
物語で語られるのは、以下の3つの視点。
映画の第一章は、湊の母親・早織の視点です。
早織は湊の様子を見て、担任の保利教師からモラハラや体罰を受けていると考え、学校側に強く訴えます。
しかし、学校側は謝罪するふりをするだけで誠実な対応を見せません。
校長を演じる田中裕子の、人間性を一切遮断した不気味な対応は、まさに怪物。
この視点では、母親として子供を守ろうとする早織の必死さが、安藤サクラの超絶演技で強調されますが、気がつけば、その中で彼女自身もモンスター・ペアレンツという「怪物」になっています。
第二章は、担任教師・保利の視点。
彼は不器用ながらも生徒思いの教師であり、湊や依里に対してもできる限りの心配りをしています。
第一章では、怪物の一端を担わされていた保利先生の、別の顔が披露されます。
しかし、彼の優しさは、生徒たちの小さな嘘や誤解によって空回り。
彼自身が加害者扱いされ、追い詰められていきます。
彼の目には、湊が依里をいじめているように見えており、それを沙織に告げてしまいます。
学校からも、社会からも「怪物」と見なされる彼の苦悩が浮き彫りになっていきますが、彼は依里の書いた作文から事件の真相に気づきます。
第三章は、湊と依里の視点。
最後に子供たちからの視点が語られることで、観客は第一章、第二章の裏に秘められた真実を知ることになります。
依里は、学校では男子よりも女子の輪の中にいることが多く、それをクラスの悪ガキどもにからかわれ、いじめのターゲットになっています。
湊は依里に好意をもっていますが、みんなの前ではそれをひた隠しにしています。
依里は家庭内でも父親から虐待を受けており、その孤独感を湊と共有することで二人はいつしか心を通わせていました。
二人は秘密基地として使っていた廃線跡地に放置された電車で遊びながら、自分たちだけのユートピアを築いていきます。
しかし、大人たちや社会から理解されない中で、自分たちに「普通ではない」感情が芽生えていることに気がつく二人。
この感情に罪悪感を抱き、自分の秘密を誰にも知られたくない湊は、母親にも学校にも嘘をついてしまいます。
そして、依里も湊を守るために、学校に嘘をつき、ついには学校を追われることになる保利先生。
しかし依里の作文から二人の関係に気づいた彼は、自分の勘違いを謝罪するため、嵐の中、湊の家へ。
ところが、湊と依里は、その朝、忽然と姿を消してしまいます。
二人の少年はどこへ消えたのか。
廃電車の中で、二人が無邪気に「怪物だーれだ?」というゲームに興じるシーンが印象的に描かれます。
怪物とはいったい誰なのか。
この問いかけを通じて、坂元裕二の脚本は、それぞれの登場人物や観客自身の中に潜む偏見や先入観、無意識的な攻撃性そのものを「怪物」として描いてゆきます。
つまり、「怪物」の正体は一人ではなく、人間関係や社会全体に存在する歪みそのものだと指摘してくるわけです。
それぞれの登場人物が、それぞれに内包している多面性。
どの登場人物を取り上げても、漫画のキャラのように、一言で語れるようなわかりやすい人物は一人もいません。
そして、その登場人物たちが、視点を変えれば、またそれぞれ違う顔になるという秀逸なプロット構成。
「一言では語れない映画作りを目指した」という是枝監督の言葉には大いに納得させられるところです。
これまで是枝監督は自身で脚本を手がけることが多かったですが、今回は坂元裕二の脚本を最大限にリスペクト。
数々のヒット・ドラマで磨き上げられた坂元の脚本は、長台詞や登場人物同士の会話で関係性を描くスタイルです。
一方で是枝監督は映像や空気感で物語を語る手法を得意としています。
この異なるアプローチが融合することで、本作には、従来の是枝作品にはない新しい化学反応が生まれた気がします。
本作では、性的マイノリティの少年たちが抱える葛藤や社会的抑圧が重要なテーマとして描かれています。
これは、これまで家族や社会問題を中心に描いてきた是枝作品にはあまり見られなかった要素です。
特に、「普通」や「正常」とされる社会規範への疑問や抵抗が物語全体に反映されており、第76回カンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞を受賞したことからも、そのテーマ性は高く評価されています。
しかし、是枝監督自身は、本作がLGBTQに特化した映画ではないということを強調しています。
監督のこの意を汲んでのことか、本作の予告編や宣伝などを見る限りは、クィア・パルム賞の受賞はあまり表には出ず、宣伝段階ではLGBTQ要素は比較的伏せられていた印象です。
世界の標準に比べ、我が国のLGBTQリテラシーが遅れていることは間違いのないところ。
LGBT理解増進法は、日本における性的マイノリティへの理解促進という点で一定の意義はありますが、国際的には限定的な評価に留まっています。
特に具体的な権利保護や差別禁止措置が欠如している点で、この法律には多くの課題が残されています。
国際社会に対して、「やってる感」だけをアピールするための法律といわれてもやむを得ないところ。
カンヌ映画祭で、クィア・パルム賞を獲得すれば、フランスでは本作を見るために、多くのLGBTQパーソンたちがこぞって映画を見に行くのは間違いのないでしょう。
しかし、現状の日本では、これを全面的に押し出すと、かえって観客の足を映画館から遠ざけてしまう恐れがあるという判断が働いたのかもしれません。
しかしそれでも、LGBTQ後進国だった日本の作品が、カンヌでLGBTQ+やクィアに関連するテーマを扱った映画に贈られる独立賞を受賞したのは大いに意義深いところではあります。
とにかく本作には、練りに練られた映画的なギミックが溢れています。
これが映画好きにとってはたまらないところ。
「あのセリフの意味は?」「あのカットの意味は?」「あの演出の意図は?」
もちろん、それらのすべては制作段階で周到に用意されたものですが、その疑問への解答は、多くの場合意図的に伏せられています。
これが憎いほどうまい。
なので、観客は映画を見ながら一瞬たりとも気を抜けません。常に考えさせられることになります。
それもそのはず、本作「怪物」の初期段階での仮タイトルは「なぜ」だったとのこと。
是枝監督は、これまでも、解釈は観客に委ねるという手法を好んで使っていますが、本作ではかなりそれを意識して盛り込んでいます。
監督のこの手法が功を奏しているのは、YouTubeに上がっている解説動画の多さからもわかります。
画面の隅々に目を凝らし、セリフの一言一句に神経を研ぎ澄ませ、場合によってはオリジナル脚本をチェックしながら、独自の解説動画をアップしている映画系YouTuberの深掘り度には感心しきり。
その精度や視点の鋭さが、再生数に大いに影響するのでしょうから、当然彼らも張り切ります。
こちらも久しぶりに2回続けて同じ映画を鑑賞しましたが、2回目を鑑賞する際には、若き映画解説YouTuberの意見は大いに参考にさせていただきました。
ビルに火をつけたのは依里?
孫を轢き殺したのは校長?
ラストカットの二人は生きているの? 死んでいるの?
本作では三幕構成で同じ時間軸を見せることで、いろいろな真実が徐々に明らかになっていく過程が描かれていきますが、坂元脚本は、上記3点については最後まで明快な回答を避けています。
その回答はあくまで観客に委ねるという姿勢です。
委ねられた以上、こちらも考えます。しかしもちろん回答はありません。どう解釈しようと、それがあなたにとっての正解。
解答のための材料は、すべて映像の中に仕込まれていますので、是非あなたなりの解答を導いてみてください。
タイトルの「怪物」と「怪物だーれだ」という宣伝に引っ張られて、多くの観客は、怪物の正体を見極めようと必死に目を凝らします。
もちろん、怪物は映画の中でいろいろな顔をして現れますが、視点を変えれば、その怪物はたちまちその姿を変えてしまいます。果たして、怪物は存在したのか?
モンスター・ペアレンツは実は優しい母親でもあり、暴力教師は実は生徒想いの優しい先生でもあり、校長先生は・・・
怪物の正体は実は、「怪物」の顔を隠した「日常」であり、その「日常」は時として、「普通」の顔をしたまま「怪物」に姿を変えていくと言うわけです。
観客はこの秀逸なギミックに終始振り回されますが、最終的には一周回って、あの感動のラストに連れて行かれます。
複雑なプロット、ミステリー的な展開、タイトルに仕込まれたミスリード。
それら全てを取っ払うと、そこに出現したのは、なんともシンプルで切ないラブストーリーでした。
はたしてそれは怪物?
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