密室殺人のルーツとなると、どの辺まで遡るものかと思い立ち、いろいろと調べてみました。
ミステリーのファンにとっては、それは世界最初のミステリー小説「モルグ街の殺人」であることは常識。
但し、この作品は短編小説です。
そこで、今回探したのは、密室殺人を扱った長編小説。
ミステリー史においてこの分野で傑作の誉れ高いのは、ガストン・ルルーの「黄色い部屋の謎」。
これが1907年でした。
アメリカの推理作家ジョン・ディクスン・カーがカーター・ディクスン名義で1938年に発表した密室ものが「ユダの窓」。
この2冊の傑作長編は、去年すでに読了済みです。
それよりもっと前の作品はないかAI にリサーチしてもらったら、すぐにこの作品を教えてくれました。
作者は、イズレイル・ザングウィル(Israel Zangwill、1864年1月21日 - 1926年8月1日)。
恥ずかしながら、このリサーチで初めて知った方です。
この人は、イギリスの作家、劇作家、そして政治活動家であり、特にユダヤ人の生活やシオニズム運動に深く関わった人物として知られているとのこと。
ユダヤ人コミュニティの生活を描写した作品を何冊か著しているのですが、同時に推理小説もいくつか書いているという才人ですね。
本作はが発表されたのは、1892年。
ですから、シャーロック・ホームズの活躍した時代とほぼ重なります。
ちなみに、ホームズ・シリーズでの密室モノとして有名な「まだらの紐」も同じ年に発表されています。
本作は、密室殺人をメインにした長編(中編?)としては、最初期の作品といえるでしょう。
この作品は、ロンドン東部の労働者階級地区であるボウを舞台に展開され、ヴィクトリア朝時代の社会的背景を踏まえながら進行します。
スモッグに霞んだ空、ガス灯の仄暗い光、馬車の列、ゴシック様式の建物、馬車の蹄の音、街頭で叫ぶ売り声。
ホームズ・シリーズでおなじみの、あのロンドンが舞台です。
物語は、未亡人で下宿屋を営むドラブダンプ夫人がちょっと寝坊した朝、下宿人で労働者階級の権利擁護者として知られるアーサー・コンスタントを起こそうとするところから始まります。
しかし、彼女が何度呼びかけても応答がなく、不安になった彼女は近所に住む退職刑事ジョージ・グロッドマンに助けを求めます。嫌な予感に怯えるドラブダンプ夫人。
夫人に促されてグロッドマンが部屋の扉を破ると、内部は鍵と内側から掛けられたボルトで完全に閉ざされており、その中でコンスタントが喉を切られて死亡しているのが発見されます。
そして、その部屋からは凶器が見つかりません。
果たしてアーサー・コンスタンスは、自殺をしたのか? 殺されたのか?
ビッグ・ボウで起きた事件の噂は、たちまちロンドン中に、広がっていきます。
事件の調査にはグロッドマンとスコットランドヤードの現役刑事エドワード・ウィンプが関与しますが、二人は互いに反目し合うライバル同士。
容疑者として浮上したトム・モートレイクは、被害者と前夜に口論していたことが判明しますが、彼にはアリバイもあり捜査は難航します。
ちょうど本作が発表された頃、ロンドン東部では、あの有名な切り裂きジャック事件(1888年)などが発生し、治安維持が課題となっていた時期。
当然このあたりの時代背景は、本作の舞台であるイーストエンドにも反映されています。
『ビッグ・ボウの殺人』は19世紀末イギリス特有の社会問題や文化的背景を巧みに取り入れています。
1件の密室殺人事件のトリックだけで、長編の尺を引っ張るのはなかなか至難の業。
作者は、読者を飽きさせないよう、ユーモアなどもふんだんに織り交ぜて、この密室事件をどんどん膨らませていきます。
労働者階級と社会的不平等、犯罪と治安問題、科学と合理主義、大衆文学としての娯楽性など、多面的な要素がこの物語には意識的に組み込まれ、ストーリーに深みを与えています。
物語の中盤になると、一気に被害者を中心とした人間関係が広がりだし、読者はこの巧妙なミスリードに混乱させられます。いったい犯人は誰だ?
しかし結局、最初の容疑者のモートレイクが警察に捕らえられ、彼は被告席へ。
物語の後半では、この裁判の模様が中心に描かれていきますが、このあたりの展開は「ユダの窓」と一緒ですね。
モートレイクは12人の陪審員に結局有罪の判決を下され、死刑が確定します。
しかし、彼の冤罪を信じて疑わない市民たちが、死刑執行の命令を下す内務大臣の屋敷に押し寄せて・・
物質的なトリックだけでは、全編を引っ張るのは難しいと考えた作者は、本作の中でいろいろな仕掛けを用意しています。
ネタバレにならないように、文章からそのニュアンスだけ。
「半面の真理を意図的に世間の目にさらしておくのは、世間の目を完全にくらます最も確実な方法なのです。」
「ビッグ・ボウの怪事件の鍵は、女性心理なのです。」
「見ることは信ずることと諺にありますが、たいていは、信ずることが見ることになるのです。」
「人間の目というものは、見たいと思っているものしか見ません。多くの場合、期待している通りにしか見ないのです。」
本作のトリックは物理的な仕掛けと心理的な要素を組み合わせた巧妙なものです。
真相が明らかになった時、「黄色い部屋の秘密」のトリックを思わず思い出してしまいました。
密室殺人を扱ったミステリーは、最初期からかなり完成度が高かったといえるでしょう。
読者へのフェアなヒントも十分に含まれており、本作が、後の密室殺人事件を扱った作品に多大な影響を与えているのは確実。
これはネタバレにはならないと思うので言ってしまいますが、本作には、事件を解決する名探偵は登場しません。
モートレイクを裁く裁判官も警察も、結局真実にはたどり着けません。
紹介した意味深なセリフを吐きながら、最後に事件の真相を読者に披露するのは、あっと驚く真犯人その人。
これは本当にビッグりしたなボウ!
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