本書の存在を知ったのは、YouTube動画でした。
「アバタロー」の名著紹介動画です。過去にも、この動画を参考にして、ゲットした本は何冊かあります。
本作もそのうちの一冊。
この動画によれば、なにやら僕が定年退職後に選んだライフスタイルを、こそばゆいくらいに応援してくれる内容でしたので図書館で見つけたときにすかさず借りて来てしまいました。
Scansnap SV600で、スキャニングした上で、いつかは読もうと、iPad図書室にずっと保管してありました。
そんな本書でしたが、開こうと思ったきっかけは、つい先日読了したディーリア・オーエンスの「ザリガニの鳴くところ」の影響です。
主人公の少女が、湿地の自然を生きる糧としてたくましぐ成長する物語でしたが、この少女の生き方を、彼女の時代より遡ること100年も昔に、同じアメリカ東海岸の湿地で実践していた秀才男子の渾身の報告書が本書。
「ザリガニ~」の少女カイアは、家族に捨てられて、湿地に残された家でやむなく一人だけのサバイバルをしていく物語でしたが、本書の著者デビッド・ヘンリー・ソローは、自ら進んで森の中に入り、池の畔に家を建て、自然の中で生きていくことを「実験」と称して実践し、それを細かく記録しました。
1845年の7月4日。本書によれば、この日が、27歳のソロー青年が森での生活を始めた日です。
そこからおよそ2年間にわたる生活の日々を、1年間のサイクルにまとめ、本にまとめて出版したのが1854年。
この年は、日本でいえばまだ幕末の頃。明治の夜明けは迎えていません。
日本男子のほとんどはチョンマゲでした。
アメリカでいえば、南北戦争の直前。奴隷制度反対運動の強化と奴隷制度擁護論の対立が国を二分していた時代です。
これはそのまま、北部製造業と南部農業経済の対立の構図になっていました。
ニューヨーク、ボストンなどの東海岸諸都市では急激な人口増加と、様々な都市問題が発生。
資本家と労働者の格差は、深刻な社会問題になっていました。
インディアン強制移住政策は継続され、テキサスが併合され、米墨戦争とメキシコからの大規模な領土獲得。
外国人排斥運動なども起きて、大きなアメリカが揺れていた時代でした。
そんな時代に、ソロー青年はどう生きていたのか。
ちょっとこの人のキャリアを、AI でリサーチしてみました。
ソローは1817年7月12日にマサチューセッツ州コンコードで生まれました。
彼はコンコード・アカデミーを経て、1833年にハーバード大学に入学し、1837年に卒業しました。
正真正銘、頭脳明晰なコテコテの秀才です。
彼は大学卒業後、教師として働いたり、父親の鉛筆工場で働いたりしながら、詩やエッセイを書き始めました。その後、兄と共に私立学校を経営。
特に、恩師ラルフ・ウォルド・エマーソンとの交流は、彼の思想に大きな影響を与えました。
しかし、その兄が突然他界。彼は愛する兄と、生活の糧を同時に失ってしまいます。
ソローは、人生の岐路に直面し、自己発見を求めるために森の生活を始めました。
彼は、人々が無駄な物事に忙殺されていることに疑問を持ち、質素で誠実な生活を通じて真の自分を見つけることを目指しました
彼が「実験」を始めたウォールデン池周辺の土地の所有者は恩師エマーソンです。
本書の出版に先立ち、 1849年に発表されたソローの『市民的不服従』は、メキシコ・アメリカ戦争に反対として税金を拒否した経験から生まれたエッセイです。彼はこの税金未払いの件で投獄も経験しています。
しかし、この作品は、非暴力的な抵抗の重要性を強調したものの先駆として、後のガンディーやキング牧師などの指導者に多大な影響を与えました。
ソローは、自然と個人の自由を重視する思想を展開しました。
また、ストア派やヒンドゥー教・仏教の影響を受け、独自のアメリカ思想を築きました。
まあとにかく、彼の文章には、インド哲学、孔子や孟子などの東洋思想、ギリシャ哲学の蘊蓄など、古典哲学の教養があふれんばかり。
その深い哲学思考は、環境主義や存在主義にも先駆的な考えを示しています。
また、彼はこの当時の最新の自然科学の知見も熱心に吸収。
その幅広い教養をフィルターにして、自分の目の前に広がるウォールデンの森の美しい自然とむき合いました。
ソローはシンプルな暮らしを提唱し、物質的な所有物を最小限にして暮らすことで真の幸福と充実感が得られると主張。
彼は小さな小屋を建て、お金を細かく管理するという自身の実験を通じてこれを実証しました。
そして、30 ドル未満で小さな小屋を建て、自給自足と販売用の野菜を育てるために畑を耕しました。
また、日雇い労働者として働き、わずか 6 週間で 1 年間生活できるだけのお金を稼ぎました。
彼は友人にこういいます。
「贅沢や洗練された暮らしへの憧れのために、人々は無理なジャンプをしています。」
「人は窮乏のためではなく、贅沢のために飢える」
ソローは、物質的な贅沢を捨て、必要最低限のもので生活することを重視しました。
彼は、食料、住居、衣服、燃料という基本的な必要品を挙げており、これらを確保するノウハウをきちんと記しています。
彼は自然との調和を重要視し、自然が人間の存在の本質を教えてくれると信じました。
ソローは、自然の中で過ごすことで精神的な成長と自己認識を深めることさえできると考え、孤独と自然との接触が、より深い自己理解と内面の平穏をもたらすと確信しています。
時間と自由を金銭よりも重視し、必要最低限の労働で生活を支え、残りの時間を精神的な成長や創作に費やすことが最も人間らしい生き方だということを提唱するわけです。
とにかく、ソローは徹底したミニマリストでした。
彼の思想の真髄は、「足るを知ることで宇宙の豊かさを受け取る」という逆説にあります。
現代社会が「所有」を通じて「自由」を求める矛盾に対し、ソローは「手放すことで真の豊かさを得る」というパラダイム転換を提示しました。
森での生活実験は、単なる倹約術ではなく、文明の幻想を剥ぎ取り「人間として生きる本質」を問い直す哲学的実践でもあったのです。
ソローは、時間と自由を金銭よりも重視し、必要最低限の労働で生活を支え、残りの時間を精神的な成長や創作に費やすことを実践したわけです。
ソローは、彼のライフスタイルを非合理的かつ型破りとみなす地元住民からの懐疑と批判に直面しました。
しかし彼は、自然の中で生活しながらも、社会との関わりを完全に断つことはありませんでした。
彼は定期的に村を訪れ、地元の人々との交流も楽しんでいました。
ソローは、周囲の評価よりも自己の内面の平穏と精神的な成長をより重視しました。
彼は、自然の中での生活が自己認識と精神的な成長を促進する手段であると考え、周囲の人たちとは、微妙な距離を保ちながら、自分の信念を貫きました。
本書は、基本的に「わたし」であるソローが、「あなた」である読者に直接語り掛けるような文体で執筆されています。
「~しようではありませんか!」という物言いが頻繁に登場するのも、自分の「実験」生活から得た確信を、自信をもって読者に伝えたいという心意気が現れているように思えます。
彼はたびたび、心ある村の人たちから依頼されて、講演にも出かけています
読んでいるこちらは、もちろんソローのような秀才ではないので、あまりに教養溢れる彼の物言いには閉口してしまうこともあるのですが、彼がウォールデンの森を毎日のように散歩しながら、目に映る自然の樹木や花たち、そこに集まる昆虫たち、池を泳ぐ魚たち、空を渡る鳥たちの品種名をスラスラと言って、その生態をレポートするのは、如何にも自然の中に生きる教養人然としてシビれるばかり。
今なら、僕のような凡庸な百姓でも、気になった草花にiPhone をかざせば、即座に品種名を回答してもらえる便利な時代になりました。
しかし19世紀には、こんな文明の利器は影も形もないわけで、ソローのようなビジュアルな自然の知識を得るには、自然と親しみながら、その造形をしっかりと記憶してから、図書館に出かけて、その名前を確認するしかないわけです。
静かな森の生活の中で、たくさんの本を読み、目に映る自然を心のままに文章にするだけで、ソローは満ち足りた時間を過ごせたのだと思います。
以下、本書から拾った彼の名言。
「生きるとは、私だけの実験です」
「私たちは、心配し過ぎのお人よしです。出来れば信仰など持たないで暮らせばいいのです。」
「私は自由定住者で、広い畑を次の年も続けて作るつもりはなく、たい肥は使わず、鋤で丁寧に土を返しもしませんでした。」
「がんじがらめの人とは、空身なら自由に抜けられる岩の裂け目に、ソリに乗せた家具の山が引っかかて身動きできない人。」
「贅沢にこだわることがすでに病気」
「たとえあなたが神の言葉を伝えようとして働いたとしても、お金が絡めば、商業の呪いがへばりつく」
「前に進めるのは、なにごともひとりで始める人です。」
「あなたが貧しい人を助けようというなら、本当に欲しているものを与えるのが当然です。与える人の生き方を押し付けては助けになりません。」
「私は、自分の暮らしに絶えず楽しみを見つけていましたから、社交や劇場などの外の世界に楽しみを見つける人に比べて楽でした。」
「貧しく暮らす方が、あらゆる点で美しい。」
「私は酒に酔わずに、いつもしらふでいたいのです。」
「私は、長期にわたる重労働が、粗暴な飲み食いの元になることを知りました。私は重労働に断固反対します。」
「食物の量や質は問題ではありません。美味を求める欲望の囚人であることが問題です。」
「私たちはみな、一人ひとりが、体という自分の神殿の建築家です。」
「私たちにとって自然を知るとは、いかに研究してもし尽せぬ、見果てぬ夢です。」
「未来や可能性を重く見るなら、靄を通してようやく見える像の曖昧さをよしとし、ゆったり、決めつけないで行きましょう。」
「私は、磁石のように私を引き付けるものに真正面から向き合い、そこにどんな意味があるかを問うて、静かに落ち着いていたいのです。」
「どれほど貧しかろうと、あなたは自分の暮らしを愛し、楽しみましょう。」
「余分なお金があれば、余分なものを買うだけです。魂が欲するものを買うのに、お金はいりません。」
「私たちは、地球の表面にようやく秩序らしきものを作り上げただけで、十分に賢いと思い込んでいます。」
いやはや、どの一文も、胸にしみいります。
十分に現代社会にも通じる金言ばかりです。
この一文のひとつひとつにコメントしていたら、このブログが終わらなくなりそうなので、紹介するだけにとどめておきます。
ソローが本書を執筆したのは30代でしょうか。
僕は今年66歳になったばかりですが、思い起こせば30代の頃は、仕事のストレスで身悶えしておりました。
到底、こんな達観の境地には至っていません。
両親がなくなり、自分の人生の終点あたりがおぼろげに見え始めたころ、それまでは流されるままに送ってきた人生で、初めて立ち止まり、残りの人生のあり方を熟考してみました。
幸か不幸か、嫁も子供も持たなかった人生でしたので、ならばそんな身でしか出来ない後半生にしないと元は取れないと判断しました。
その結果、おぼろげに浮かんだのが農業です。
百姓の道を選択しておけば、自分一人くらいなら、貧乏も楽しみながら、細々と暮していけるだろうと踏んだわけです。
幸い務めていた会社が農地を持っていて、現役の頃から、野菜作りの勉強はさせてもらいました。
定年退職後も、引き続き同じ畑で野菜作りだけは続けさせてもらい、現在に至ります。
修行不十分で、野菜作りを始めてしまったので、いまだに、毎日が学習です。
何を試しても1年にワントライですので、野菜作りのスキルが身につくのはまだまだ先の話。
たまたま上手にできた野菜は、メルカリなどで販売もしていますが、恥ずかしい話、これがまともな収入になるとは思えません。
しかし、幸いかなそうやって、いろいろ試せること自体は十分に楽しめますので、この辺はソローのマインドに近いものがあるような気がしています。
この間、プライベートにおいて、徹底的にやっていたことは断捨離です。
「触らないものはいらないもの」と自分に言い聞かせて、いらないビデオ、カセットテープ、CD、本をすべて整理したら、二部屋がまるまる空きました。
ソローほどのミニマリストになるにはまだまだですが、本書を読んで、体が動くうちに、第二次断捨離プロジェクトを決行する決意を固めました。
捨てなければいけないものは、まだまだあります。
前期高齢者となり、年金生活を始めてからは、もちろんサラリーマン現役時代のように贅沢は出来ません。
しかし、よくしたもので、お金はなくとも時間だけはたっぷりあります。
そうすると、俄然読書の時間が増えました。
もともと、本屋の息子で、読書は好きだったので、定年退職後は、地元の図書館に足しげく通って、お金をかげずに、この道楽をエンジョイしています。
インプットがあればアウトプットも必要。
現役の頃は無理でしたが、今は一冊読了すれば、必ずその本についてのブログをアウトプットをすることを、残りの人生の自分に課しました。
ソローも、清貧な森の生活の中で、読書と物書きというインプットとアウトプットは、彼の生活の充実感を支えていました。
人間は一人では生きられないと誰もが言います。
確かに、誰かとの関わり合いは一生なくならないとは思いますが、誰かと暮すとなるとまた話は別。
個人的には、今更誰かと暮すことのストレスを背負いこむことより、一人暮らしの快適さとメリットを最大限に堪能したいところです。
最後は独居老人として死を迎えることになるのでしょうが、寂しく死んでいったと思われるのだけは心外です。死に顔をどう演出するかは現在検討中。
ソローは、森での生活において孤独を独自の方法で捉えていました。
彼は孤独を否定的ではなく、むしろ精神的な成長や自己認識のための重要な要素と考えました。
彼は自然の中にいれば孤独を感じることはなく、むしろ自然が彼にとって「親しい友」として機能していると繰り返し書いています。
彼は自然の音や景色を通じて、むしろ精神的な安らぎを得たと述べています。
ソローは、孤独と孤立を区別し、孤独はむしろ自己との対話や自然との調和を通じて得られるものとしました。
読書によるインプットとアウトプットを道楽として楽しんでいく限り、独居老人でも、死ぬまで退屈することだけはなさそうです。
すでに66歳と大きく出遅れてしまいましたが、ウォールデンの森の中で若きソロー青年が至った明鏡止水の境地に少しでも近づければ、残りの人生は十分に楽しめるものと思う次第。
今も、図書館から、リクエストの本の用意が整ったというメールが届いたところです。
ランチを食べたら、さっそく受け取りにでかけましょうか。
ゆっくりと春が忍び寄ってきています。ソローソローと。
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