「ごくつぶし」という言葉があります。
これは、家族や他人の家に居候し、働かずに養ってもらっている人のこと。
または社会的に何の役にも立っていないと見なされる人を侮蔑的に表現する言葉でもあります。
何人もの住込み店員のいる書店で幼少期を過ごしましたので、小学生の頃はよく母親にこういわれました。
「働かざる者食うべからず」
店の手伝いからいつも逃げ回っていた僕は、こういわれていたわけです。
本作の主人公もまさにそんな人。
森繁久彌演じる柳吉という人物は「優柔不断でお人好し、金と女にだらしないけどどこか憎めないダメ男」。
昭和初期の大阪・法善寺横丁にある大店(おおだな)の放蕩息子です。
森繁久彌はこの人物に圧倒的なリアリティを吹き込みました。
森繁の大阪弁ネイティブとしての資質や、戦前の船場の若旦那らしい雰囲気がこの役柄にどんぴしゃり。
『夫婦善哉』は、1955年に公開。織田作之助の同名小説を原作としています。脚本は八住利雄、監督は文芸映画の名匠・豊田四郎。
昭和初期の大阪が舞台です。ぼんぼんの柳吉と、しっかり者で商才もある芸者・蝶子の愛情と波乱に満ちた人生を、なにわ情緒豊かに、時にユーモラスに描いています。
森繁は、金縁の伊達眼鏡をかけ、男前でもなく、どこか頼りないが妙な愛嬌を持つ遊び人の老舗のぼん(若旦那)を、絶妙なさじ加減で演じています。
ダメ男のかわいらしさや、依存的な弱さを、笑いとペーソスを交えて嫌味なく表現できたのは、やはり森繁ならでは。
大阪出身の森繁ならではのネイティブな大阪弁や、ユーモラスな語り口も大きな魅力であり、特に「また、頼りにしてまっさかい、あんじょう頼んまっさ」と軽く挨拶する場面などはまさに、森繁節。
柳吉が、屋根瓦に朝日が差し込む中、窓辺で山椒昆布を煮ながら蝶子の帰りを待つ姿は、柳吉というキャラクターを見事に映像で表現していて絶品でした。
そして、二人が何もかも失ったラスト。
「…なぁ、あんた。みなワテが悪いねんなぁ」と蝶子が呟くのに対し、柳吉が「そ、そやがな。みな、お前が悪いのやがな」と返すシーンは、柳吉の優柔不断さと、セリフとは裏腹の本音を隠した優しさがにじみ出ており、森繁の絶妙な演技が光ります。
しかし、いかに森繁あっぱれといえども、やはり個人的にはなんといっても淡島千景です。
まあ、本作での彼女のなんと魅力的なことよ。
淡島千景は、当時「戦後の新しい女性像」を体現する女優として注目されていました。
小津作品に登場する彼女は、まさにアプレゲールの香りをプンプンとさせていました。
彼女にとって『夫婦善哉』は初の他社出演作でもあります。ゆえに気合十分。
淡島は、本作の蝶子役を通じて「しっかり者で懐の深い女性」を自然体で演じ、森繁の柳吉を支える存在として作品の完成度に大きく貢献しています。
淡島は宝塚歌劇団出身。
僕の知る限り、「リボンの騎士」の主人公サファイア王子(サファイア姫)のモデルとなった女優です。
手塚治虫は宝塚歌劇団の大ファンであり、特に淡島千景のファンだったことから、彼女をモデルにサファイアのキャラクターを創作したと複数の資料で明言しています。
淡島千景がたまたま男役を演じた舞台を手塚治虫が観劇し、その姿が「男装の麗人」として戦うサファイア像のヒントになったとも伝えられています。このため、サファイアの「男装の麗人」としての強さと、娘役としての可憐さが同居するキャラクター性は、淡島千景の舞台での魅力が色濃く反映されていたわけです。
森繁久彌は「この作品で男になりたい、協力してほしい」と直筆の手紙で淡島千景に出演を依頼したそうです。
森繁は相手役として蝶子を演じるのは淡島しかいないと確信しており、その強い信頼が淡島に大きな自信と責任感を与えたようです。
本作で淡島が演じた蝶子は、今までに、彼女が演じたことのない役柄でした。
駄目男を包み込む母性の塊のような懐の深い女性像であり、彼女の細やかな気遣いや表情、リアリティのある仕草は、映画公開から70年たってからはじめて鑑賞しているこちらのハートも見事に鷲掴み。
この役柄を通じて、淡島は単なる美人女優や娘役の枠を超え、情に厚く、芯の強いダメ男にとってはこれ以上ない“理想の女房像”を体現してくれました。
さらに、本作の成功によって、淡島千景は以降も、「駅前シリーズ」などで、森繁久彌と息の合ったコンビを継続していくことになります。
淡島は森繁との共演のオファーが来る度に、「次はどんな男になって現れるのか楽しみにしていた」と語るなど、毎回新鮮な気持ちで森繁との共演を楽しんでいたといいます
本作で彼女が演じた蝶子は、以降の多彩な役柄や長寿シリーズ出演への道を大きく切り拓く、キャリアの金字塔となったわけです。
撮影現場における森繁久彌と淡島千景の関係は、プロフェッショナルでありながらも、互いの実力と個性を尊重し合う信頼関係に満ちたものだったようです。
森繁久彌は当時からアドリブを多用することで知られていましたが、淡島千景との共演シーンでは一切アドリブを出さなかったといいます。
これは、淡島が大阪弁に苦労していたことを知っていたからに他なりません。
「もし森繁さんがアドリブを言われたら、私は大阪弁でどう答えていいか分からなかったでしょう」と淡島自身が後に語っています。
淡島は松竹の看板女優として単身で東宝の現場に参加しており、「あれが松竹の淡島か」と言われたくない一心で強い気負いを持って撮影に臨んでいました。
その姿勢を森繁がしっかりと理解した上でフォローし、現場の雰囲気を良くしていたことが伝えられています。
撮影中、淡島が森繁を桶に突っ込むシーンがあるのですが、このシーンでは、淡島がカメラが回ると手加減を忘れて本気で演じたため、森繁が「水を何度も飲んだ」と語っています。
つまり、互いに全力で役に向き合い、リアルな演技を追求していたということでしょう。
このように、森繁久彌と淡島千景は撮影現場で互いを思いやり、信頼し合いながら、名作を生み出す理想的なパートナーシップを築いていました。
お気に入りのシーンをひとつ。
柳吉と蝶子が二人連れだって、難波の自由軒という洋食屋でライスカレーを食べるシーンです。
昭和七年という時代設定ですから、カレーライスではなくライスカレー。
柳吉はいまでいうところのB級グルメ派で、安くてうまいものにこだわるわけです。
「どや? うまいやろ?」といいながら、テーブルの下では蝶子の足を突っついていたりします。
この子供のような無邪気さが、まさにダメ男の天下の宝刀。
これが作り物でない素のキャラだからたまりません。
心ある女なら絶対に、こんな男を憎めないだろうなあと思ってしまいます。
あとで、柳吉と喧嘩した蝶子が一人で自由軒にやってきて、ライスカレーを思わず二つ注文してしまうのがなんとも切ない。見事に二人のシーンが伏線になっているわけです。
本作より、生活力のないダメ男がしっかり者の女房に捨てられないために必要な条件を3つ考察してみます。
まずひとつめ。
相手への深い愛情と感謝の気持ちは忘れないこと。
これは言葉にしなくても、相手にはしっかりと伝わります。
生活力がないわけですから、精神的な支えとなることは重要です。
柳吉の場合、口先だけではなく、時折見せる優しさや気遣いが蝶子の心を繋ぎ止めていました。
ふたつめ。
共感力と寄り添う姿勢を忘れないこと。
蝶子の苦労や気持ちを理解し、共感する姿勢は大切です。
自分の弱さを自覚し、彼女の頑張りを認め、常に寄り添うことで、一方的な負担感を軽減できるはずです。
柳吉は自分勝手ではありましたが、時には蝶子の話に耳を傾け、彼女の感情を体で受け止めていました。
感情的になると男はしばしば暴力的になってしまうものですが、本作では暴力的なのはむしろ蝶子です。
叩かれ、どつかれ、水の入った桶に顔を突っ込まれても、柳吉は一切抵抗しません。
ただ逃げ回るだけ。
彼女がそうしたくなる気持ちを、柳吉は「無理もないわな」と、しっかり理解しているわけです。
そしてみっつめ。
ささやかでも良いから、自分なりの貢献をアピールすること。
大きなことはできなくても、家事の手伝いや彼女の好きなことをするなど、自分にできる範囲で何かをすることで、夫婦としてのバランスを保つ努力を示すべきです。
柳吉の場合、例えば蝶子の好きな音楽を一緒に楽しむ。彼女の愚痴を聞くなどに心を配っていました。
小さなことでも良いので、彼女にとっての心の支えとなるような貢献方法は絶対に見つけるべき。
もしもあなたに、相手ほどの生活力がないのなら、この三つはけっして忘れるべからず。
この三条件を満たすことで、あなたも、しっかり者の女性との良好な関係を長く続けることができるかもしれません。
そして、そんな彼女に捨てられないかどうか知る方法が一つあります。
それは本作本作における最後の柳吉のセリフを、相手にささやいてみること。
「おばはん。あんじょう頼みまっさ。」
これでもしあなたが、年下の相手にひっぱたかれなかったら、あなたは柳吉になれる見込み大です。
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