49年間生きているうちで、全身麻酔による手術を受けた経験は一度だけです。
もう、8年前ですね。
右耳下腺に袋みたいなものが出来てしまい、そこに唾液がたまりだしてしまって、みるみる「こぶとり」じいさん状態になってしまったんですね。
腫瘍というわけではなかったのですが、袋ができてしまったところが、非常にデリケートでやっかいな場所であったため、全身麻酔の手術になりました。
僕の右あごの下でふくらんでいった袋が、ちょうど内側から僕の顔面の神経を押す形になってしまい、手術はこの神経をかきわけて行われるということになりましたので、後で執刀医から聞かされた話では、たっぷり4時間もかかった大手術だったようです。
最近は、インフォームド・コンセントとやらで、医師は患者に、正しい情報を伝えたうえでの合意の下に手術が行われるようになっているため、僕も、この手術の前にはだいぶ脅かされました。
「神経をひとつひとつ袋から、剥がしていく手術になるので、もし神経にダメージがあれば、最悪、顔面麻痺のタケシ状態になるリスクもあります。」
そういわれても、じゃあ「怖いからいやです」とも言えないわけで、僕としては、けっこうドキドキものの手術でした。
手術の前に注射二本。
このとき、生まれてはじめて、おしりに注射針をさされました。
「この注射痛いから、おしりなのよ。」
ベテランの看護士おばさまに、そう脅かされましたが、これはしっかり覚悟してイメージした分だけ、痛みはありませんでしたね。
手術室に入る前、足のどこかに、たぶんマジックで、「柿沢謙二」と書かれたのをハッキリ覚えております。
手術室に入ると、自分でもわかるくらい心臓の鼓動がたかなります。
「柿沢さん、麻酔担当の若林です。」
マスクで、顔の4分の3は、見えませんでしたが、間違いなく「美人」系に属すると思われる女医さんが、麻酔のセットをテキパキとこなしています。
そのうち
「では、柿沢さん、麻酔入りますよ」
この若林先生の声を聞くか聞かないかのうちに、本当にテレビドラマなんかでよく見るように、目の前がクラクラと揺れだして、スーッと意識がなくなってしまいましたね。
僕は、それまで、まだ「気絶」という経験がありませんでしたので、「気を失う」とはこういうことを言うんだなと実感した瞬間でした。
そして、次の瞬間、まっくらな意識の中で、誰か僕を呼ぶ声。
その声に呼ばれるように、目を覚ますと、ベッドに横たわった僕の顔の上で、母親と弟が、実際に、僕の名前を呼んでいたんですね。
実感としては、意識がなくなって、あたりが真っ暗になった、次の瞬間には、もう名前を呼ばれていた感じ。
しかし、実は、気を失ってから、我に帰るまでの間には、なんと8時間もの時間が経過していました。
全身麻酔がきいていた手術の間は、ちょうどすっぽり、その8時間だけが、切り取られて、抜け落ちてしまったような印象でした。
さて、目が覚めて、僕が一番最初に確認したこと。
それはもちろん、僕の顔がタケシのように、顔面麻痺になっているかどうかでした。
おそるおそる顔の下半分を、動かしてみましたが、どうやら自然に違和感無く動くのを確認して、ホッとしましたね。
しかし、この手術の後遺症はありました。右耳下あたりの生え際に、毛髪が生えてこなくなってしまったエリアが一箇所。
このため、この手術以来、散髪に行くと、最後に必ずいわれてしまいますね。
「あれ、お客さん、ここんとこ、自分で剃り込みいれちゃいました?」
説明するのも面倒くさいから、「ええ、若気の至りで」ということにしています。
まあ、耳鼻科とはいえ、あれだけの手術をしてもらいましたから、これくらいは、よしとしましょう。
さて、華岡青洲です。
この人は、世界ではじめて、全身麻酔による手術を行った人です。
青洲は、1760年(宝暦10年)に紀伊国に生まれます。名は震(ふるう)。京都で医術の修行を積み、1785年帰郷。
父・華岡直道の後を継いで開業することとなります。
青洲は、手術で、患者の苦しみを和らげ、救える命を、より確実に救うためには、麻酔薬を開発する以外にないという確信の元、研究に没頭します。
そして、曼陀羅華(まんだらげ)の花の他、草鳥頭(そううず・・・トリカブト)を主成分とした6種類の薬草などに麻酔効果があることを発見。
猫などによる動物実験を重ねて、なんとか麻酔薬の完成にまでこぎつけます。
さあ、後は人体での実験のみ。
さて、ここから、嫁と姑による、女の意地をかけた凄まじいまでの愛憎劇の幕が切って落とされるわけです。
「薬の実験は、私で試してのし。」
「いえ、それは妻である私の勤めよし」
妙な語尾の江戸弁で繰り広げられる、嫁姑バトル。
映画の中で、このバトルを繰り広げるのは、僕のごひいき高峰秀子と若尾文子(クレジットは逆でしたが)。
この映画は、この二人の女と青洲をめぐる愛憎劇が、ハイライトになってきますが、これは、けっこう見ごたえありましたね。
華岡青洲を演じるのは、この2年後に、37歳で亡くなる市川雷蔵。あの、元祖「眠狂四郎」を演じた大映の看板スターです。
さて、全身麻酔に話を戻しましょう。
実は、この手術、アメリカでも行われていました。
アメリカで、ジエチルエーテルによる麻酔手術が執り行われましたのは、1848年。
しかし、我らが華岡青洲による全身麻酔手術が執り行われたのは、それよりなんと40年以上も前のことです。
このエポックメーキングな手術のあと、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が彼のもとに殺到。
また、青洲は、門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けました。
麻酔薬の他にも、青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒なども行っており、腫瘍摘出術などさまざまな手術法も考案。
この当時、この医学の分野で彼の残した業績は、文句なしに世界のトップレベルだったといえます。
しかし、本当の意味で彼の名前が全国区になったのは、有吉佐和子によって、小説『華岡青洲の妻』が出版されベストセラーとなったからでしょう。
この小説により医学関係者の中で知られるだけであった華岡青洲の名前が一般に認知される事となったわけです。
映画の監督は、増村保造。脚本は新藤兼人。昭和42年度芸術祭参加作品。
しぶーい、モノクロの日本映画です。
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