「悪いのは社会機構じゃないか。僕は被害者じゃないか」
「でも、社会機構を殺す訳にはいかないでしょ。テレビ塔は殺せないわ。
人間が殺せるのは、人間とその他の動物だけ。」
十人の愛人を作った果てに、「籠の鳥」にされてしまった男に、岸恵子が言い放つセリフ。
この映画の公開は、1961年。
この映画というのは、「黒い十人の女」です。
岸恵子は、この当時、フランス人映画監督と結婚。居をフランスに構えて、映画の撮影のたびに、日本とパリを往復という華麗なライフスタイルが話題を呼び、当時のマスコミは、彼女のことを「空飛ぶマダム」と呼びました。
この映画の予告編にも「パリ帰りの岸恵子!」なんて、テロップがドカーンと流れておりましたね。
後に、彼女の書いたエッセイ「巴里の空はあかね雲」も読みましたが、これがなかなかの筆達者。
天は、見事に二物を与えていますね。
監督は市川崑。この痛快な映画のシナリオを書いたのが、市川夫人の和田夏十。
僕は恥ずかしながら、これをずっと、「わだかじゅう」さんと思っていたのですが、正しくはこれで「わだなっと」。
彼女は、脚本の校正をしたのがきっかけで市川崑と知り合います。
市川は文才とアイディアに満ちあふれる彼女を愛し、彼女は以後40年近くにわたって市川監督の公私におけるパートナーになります。
市川監督の、ほぼすべての作品に、彼女の名は、クレジットされています。ちなみに「久里子亭」というのは、市川監督と彼女の共同執筆名。
市川映画に、この人のシナリオありというところでしょう。
そして岸恵子と、並んで、もう一人この映画を彩ったのが、山本富士子。
この方、第1回ミス日本コンテストで、グランプリをとったという折り紙つきの美人。
今でこそ、モデルから女優へというトラバーユは、あたりまえのご時世になっていますが、その先駆けはこの方。
人気絶頂の頃、大映専属女優であることを嫌って、フリー宣言をしたのですが、これが当時の大映社長の逆鱗に触れ、「五社協定」により、映画出演がままならぬようになってしまったんですね。
それならばと、彼女は活躍の場を舞台にシフトし、以降ずっと「主演」を演じ続けてきました。
「とんでもございません」という言い回しがありますよね。
僕も、これは折りあるごとに、使わせてもらっている言い回しで、この映画でも、あたりまえに使われていましたが、これは、実は日本語の識者からいわせれば、なんとも「不適切な敬語」になるのだそうなです。
実は、この言い回しを、なにかのインタビューの場で、最初に使ったのが、この山本富士子さん。
彼女は、この映画で、浮気男を亭主に持った妻を演じていますが、彼女がこの映画の中で、終始使っていた、山手の奥様言葉はインパクトがありました。
俗に言うあの「ザマス言葉」ですな。
「ごめんあそばせ」というのが、彼女にかかると「ごめんあさーせ」とまあ、こうなります。
「同じことなんですよ」なんてのも、山手言葉でいえば。「同じことなあんだんすよ」
僕などは、ギャグマンガで、デフォルメされようなた山手の奥様言葉しか知らなかったものですから、まあ、こういった「ナマ」の言い回しを聞けたのは新鮮でした。
この言葉、この山本富士子くらいの気品と美しさのある方が使用しないと、おそらくそのセリフだけで、ギャグになってしまう恐れがあります。
この天下の美女二人が、男を殺してしまう相談をするシーンがあるのですが、このあたりは、ブラックユーモアのテイストが満載。
「枕で窒息させちゃうってのはどお?」
「フランス映画にあったわね。そんなの。でも、あれって案外力がいるのよ。」
「本当に殺しちゃおうか。」
「あーたが、やればいい。」
実にスタイリッシュで、洒落たセンスの映画ですよね。
実際、モテる男性というのは、この映画の中の、船越英二のように適当に二枚目で腰が軽く、一見、「いい人」風でありながら抜け目なく、愛と愛嬌を、どの女にも平等にふりまけるタイプなのでしょう。
この映画では、50年近くも前の、テレビ局の舞台裏が、生々しく描かれますが、秒単位の世界ゆえか、どことなく現実感がないイメージ。
船越もまた生活感というものを喪失しているキャラクターとして描かれています。
登場人物のなかで最も生々しく、肉感的で人間的な情に溢れていている未亡人に扮したのがラストでは幽霊になってしまう宮城まり子。
後に「ねむの木学園」を作る人です。
この映画、ジャンル分けをすると、サスペンス映画ということになりましょうが、プロットや、セリフの一つ一つを吟味していくと、見事にコメディにも成り得る映画。
この和田夏十さんの一級のシナリオ。
下手な監督が撮れば、「ありていのコメディ」にしてしまってもおかしくないのですが、それがそうならなかったのは偏に市川監督のセンスでしょう。
コメディとサスペンスという、相容れない素材を、見事に「ブラックユーモア」というテイストで料理しております。
この映画のラストで、岸恵子が車で擦れ違う交通事故の現場。
「暗示的なラスト」ということになりましょうが、うーん、僕にはちょいと理解できなかった。
あのカットはなんだったのでしょう?
山本富士子が、愛人の宮城まり子に言うセリフ。
これなんて、今のトレンディドラマに持ってきても、立派に通用するセリフです。
「誰にでも優しいということは、誰にも優しくないってことよ。」
けだし名言。
「でも、社会機構を殺す訳にはいかないでしょ。テレビ塔は殺せないわ。
人間が殺せるのは、人間とその他の動物だけ。」
十人の愛人を作った果てに、「籠の鳥」にされてしまった男に、岸恵子が言い放つセリフ。
この映画の公開は、1961年。
この映画というのは、「黒い十人の女」です。
岸恵子は、この当時、フランス人映画監督と結婚。居をフランスに構えて、映画の撮影のたびに、日本とパリを往復という華麗なライフスタイルが話題を呼び、当時のマスコミは、彼女のことを「空飛ぶマダム」と呼びました。
この映画の予告編にも「パリ帰りの岸恵子!」なんて、テロップがドカーンと流れておりましたね。
後に、彼女の書いたエッセイ「巴里の空はあかね雲」も読みましたが、これがなかなかの筆達者。
天は、見事に二物を与えていますね。
監督は市川崑。この痛快な映画のシナリオを書いたのが、市川夫人の和田夏十。
僕は恥ずかしながら、これをずっと、「わだかじゅう」さんと思っていたのですが、正しくはこれで「わだなっと」。
彼女は、脚本の校正をしたのがきっかけで市川崑と知り合います。
市川は文才とアイディアに満ちあふれる彼女を愛し、彼女は以後40年近くにわたって市川監督の公私におけるパートナーになります。
市川監督の、ほぼすべての作品に、彼女の名は、クレジットされています。ちなみに「久里子亭」というのは、市川監督と彼女の共同執筆名。
市川映画に、この人のシナリオありというところでしょう。
そして岸恵子と、並んで、もう一人この映画を彩ったのが、山本富士子。
この方、第1回ミス日本コンテストで、グランプリをとったという折り紙つきの美人。
今でこそ、モデルから女優へというトラバーユは、あたりまえのご時世になっていますが、その先駆けはこの方。
人気絶頂の頃、大映専属女優であることを嫌って、フリー宣言をしたのですが、これが当時の大映社長の逆鱗に触れ、「五社協定」により、映画出演がままならぬようになってしまったんですね。
それならばと、彼女は活躍の場を舞台にシフトし、以降ずっと「主演」を演じ続けてきました。
「とんでもございません」という言い回しがありますよね。
僕も、これは折りあるごとに、使わせてもらっている言い回しで、この映画でも、あたりまえに使われていましたが、これは、実は日本語の識者からいわせれば、なんとも「不適切な敬語」になるのだそうなです。
実は、この言い回しを、なにかのインタビューの場で、最初に使ったのが、この山本富士子さん。
彼女は、この映画で、浮気男を亭主に持った妻を演じていますが、彼女がこの映画の中で、終始使っていた、山手の奥様言葉はインパクトがありました。
俗に言うあの「ザマス言葉」ですな。
「ごめんあそばせ」というのが、彼女にかかると「ごめんあさーせ」とまあ、こうなります。
「同じことなんですよ」なんてのも、山手言葉でいえば。「同じことなあんだんすよ」
僕などは、ギャグマンガで、デフォルメされようなた山手の奥様言葉しか知らなかったものですから、まあ、こういった「ナマ」の言い回しを聞けたのは新鮮でした。
この言葉、この山本富士子くらいの気品と美しさのある方が使用しないと、おそらくそのセリフだけで、ギャグになってしまう恐れがあります。
この天下の美女二人が、男を殺してしまう相談をするシーンがあるのですが、このあたりは、ブラックユーモアのテイストが満載。
「枕で窒息させちゃうってのはどお?」
「フランス映画にあったわね。そんなの。でも、あれって案外力がいるのよ。」
「本当に殺しちゃおうか。」
「あーたが、やればいい。」
実にスタイリッシュで、洒落たセンスの映画ですよね。
実際、モテる男性というのは、この映画の中の、船越英二のように適当に二枚目で腰が軽く、一見、「いい人」風でありながら抜け目なく、愛と愛嬌を、どの女にも平等にふりまけるタイプなのでしょう。
この映画では、50年近くも前の、テレビ局の舞台裏が、生々しく描かれますが、秒単位の世界ゆえか、どことなく現実感がないイメージ。
船越もまた生活感というものを喪失しているキャラクターとして描かれています。
登場人物のなかで最も生々しく、肉感的で人間的な情に溢れていている未亡人に扮したのがラストでは幽霊になってしまう宮城まり子。
後に「ねむの木学園」を作る人です。
この映画、ジャンル分けをすると、サスペンス映画ということになりましょうが、プロットや、セリフの一つ一つを吟味していくと、見事にコメディにも成り得る映画。
この和田夏十さんの一級のシナリオ。
下手な監督が撮れば、「ありていのコメディ」にしてしまってもおかしくないのですが、それがそうならなかったのは偏に市川監督のセンスでしょう。
コメディとサスペンスという、相容れない素材を、見事に「ブラックユーモア」というテイストで料理しております。
この映画のラストで、岸恵子が車で擦れ違う交通事故の現場。
「暗示的なラスト」ということになりましょうが、うーん、僕にはちょいと理解できなかった。
あのカットはなんだったのでしょう?
山本富士子が、愛人の宮城まり子に言うセリフ。
これなんて、今のトレンディドラマに持ってきても、立派に通用するセリフです。
「誰にでも優しいということは、誰にも優しくないってことよ。」
けだし名言。
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