昭和30年代の日本の映画がけっこう好きです。
基本は、時代劇よりは現代劇ですね。当時の文化や風俗が、リアルタイムで描かれているような作品が好きです。
僕は昭和34年生まれですから、30年代の記憶といっても、かすかに毛穴にしみこんでいる程度。
「懐かしい」というよりは、「へえ、こうだったんだ」もしくは「そうそう、こうだった、こうだった」と、おぼろげな記憶の確認が楽しくて、ハマっています。
昭和30年代の日本では、映画は、庶民の娯楽の王様でした。
ですから、この時代の映画には、確かに、「映画産業黄金期」のパワーがあります。
映画館に集まる観客たちにも、今の観客よりは、はるかに「熱」がありました。
「帝銀事件 死刑囚」は、1964年の作品ですから、ギリギリで、昭和30年代作品ということになります。
但し、本作で描かれた「帝銀事件」は、終戦の混乱がまだ尾を引く昭和23年に発生。
いわゆる「帝銀事件」とは、昭和23年1月26日に、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で発生した強盗殺人事件です。
戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない、まさに昭和史の暗部です。
事件発生は、同日午後3時過ぎ。
銀行の閉店直後に、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が現れます。
男は、厚生省技官の名刺を差し出し「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」と行員たちを偽ります。
そして行員と用務員一家の合計16人に青酸化合物を飲ませ、その結果11人が直後に死亡。
さらに搬送先の病院で1人が死亡。
計12人が殺害されたという知能的で、残忍極まりない事件。
犯人は現金16万円と、安田銀行板橋支店の小切手、額面1万7450円を奪って逃走。
これが帝銀事件発生当日の経緯です。
熊井啓の「帝銀事件・死刑囚」は、この「帝銀事件」の経緯を忠実に再現するかたちで、事件発生から最高裁の死刑判決までを、社会部の記者たちの取材活動を主軸にドキュメンタリータッチで撮った作品。
シナリオを書き上げた熊井は、まず旧知の俳優・宇野重吉に読んでもらっています。
当時の宇野は帝銀事件を舞台化するために松本清張と組んで、事件を調べている最中で、この事件に対する認識がかなり深かったようですね。
宇野は意見を述べたうえで、「やりなさい」と熊井を激励したそうです。
そして、さらにこんなアドバイスをしたといいます。
「こういうノンフィクションものは、名の通ったスターは使わんほうがいい。地味だが力のある役者がうちには大勢いる」
そして、平沢貞通役にと宇野が推薦したのが信欽三。
(これで、「まこときんぞう」と読みます)
熊井は信欽三をはじめ、北林谷栄、内藤武敏、鈴木瑞穂、佐野浅夫、草薙幸二郎といった劇団員に出演を要請し、宇野の推薦に沿って主な役どころを固めました。
死刑囚・平沢を演じた信欽三の演技は、見事でした。
死刑確定後、狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)を患っていたというあたりの平沢(映画にその説明はありませんでしたが)
を絶妙に演じました。
平沢は獄中で三度にわたって自殺を図ったが、すべて未遂。
松本清張なども、その著作を通じて彼の犯行を否定。釈放運動を行ったのは有名な話。
映画の中でも描かれていましたが、当時、読売新聞の記者が、陸軍第9研究所でアセトシアノヒドリンという薬を開発していた事実を突き止めました。
青酸カリという毒物は通常は即効性。しかし、帝銀事件では、「集団を確実に殺す」ために、飲んでから1分から2分ほどで効果が現れる遅効性の毒薬が使用されました。
この遅効性をもった青酸化合物がアセトシアノヒドリン。
この薬は、検死をしても青酸化合物とまでしか分析できないことや、日本陸軍がこの薬を使って捕虜を大量虐殺したことなどが、報道の取材で明らかになります。
このアセトシアノヒドリンは、その特殊性から、市井の一般人では、到底入手できるものではありませんでした。
ここで、俄然捜査線上に上がってきたのが、旧関東軍管轄で防疫・給水業務を行う目的で設置された731部隊。
731部隊は、そのお題目的な設置目的の裏で、細菌・化学戦研究の為に生体解剖などを行ったとされている極秘の特殊部隊。
この帝銀事件で扱われたアセトシアノヒドリンは、この部隊の関係者がなんらかの形で関わらなければ、入手および使用することは不可能。
これで、いっせいに世論が色めきたちます。
しかし、この捜査報道を差し止めたのがGHQ。
彼らは、この731部隊の生体実験データを極秘裏に確保する為に、「東京裁判」でも、この部隊の行動に一切触れなかったという経緯があります。
つまり、平沢は、GHQの陰謀により、この事件の真犯人として祭り上げられ、スケープゴートにされたという図式が成り立ち、以降この説は、真実は明らかにされることはないものの、この事件の「真相」として、平沢冤罪を支援するグループの主張の核となります。
1987年5月10日、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死。享年95。
代々の法務大臣も、この世論のために、ついに彼が生存中に、死刑執行命令にサインすることは出来ませんでした。
平沢の死後も支援者は、彼の名誉回復の為の再審請求を続けています。
「帝銀事件死刑囚けむについてのブログ、拝読しました。私は、6才頃、この映画を見ました。何度、見ても、ラストの平沢と末娘の分かれの面会シーンには泣かされます。末娘は、今もアメリカで健在です。事件については、最近にいたっても新たな事実が判明しています。詳しくは新刊本の「秘録帝銀事件」(祥伝社文庫)をお読みいただけましたら幸いです。
投稿情報: 平沢武彦 | 2009年9 月 2日 (水曜日) 午後 09時46分
ニュースで訃報を聞きました。
心より、ご冥福をお祈りいたします。
投稿情報: sukebezizy | 2013年10 月 2日 (水曜日) 午前 09時57分