1905年の出版といいますから、世は明治。
「武士」という地位も、すでになくなっていた時代に書かれた本です。
日清戦争、日露戦争に勝利して、アジアの中でも、日本が頭一つ抜け出ようとしたいた時代。
おそらく世の中のムードは、明治政府の掲げた富国強兵政策にイケイケ。
ある意味では、アベノミックスで、盛り上がっている今と、時代の空気は似ていたのではないでしょうか。
おそらく、そのうかれた世の中を冷静に見つめていたのが新渡戸稲造。
彼は、あえて過去の遺物となろうとしていた「武士道」の精神を示すことで、軍国路線まっしぐらの、当時の我が国に警鐘を鳴らそうとしたんだろうと想像いたします。
まず、戦争に対して新渡戸はこういいます。
「武士道は刀の無分別なる使用を是認するか。答えて曰く、断じてしからず!武士道は刀の正当なる使用を大いに重んじたるごとく、その濫用を非としかつ憎んだ。」
また、こうもいいます。
「血を流さずして勝つことをもって最上の勝利とす。負くるが勝ち。」
質の低下が叫ばれる教育問題。
武士道では、こう捉えます。
「知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。」
さらにー
「武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。美的なたしなみが武士の教育上重要なる役割を占めた。」
「武士は食わねど高楊枝」というと、体裁を重んじて、やせ我慢という負のイメージが先行してしまいますが、新渡戸の武士道は、けっしてそうは言いいません。そのプライドと徳があったからこそ、たとえ貧乏長屋の片隅で、傘張りをしていても、武士は「お侍さん」として、町民からその「品性」を認められ尊敬されていたというわけです。
武士道とは、つまり人を切り捨てられる武器である刀を持つことを許された者たちが、当然持つべき「品性」を説いた道。
この「品性」というものをつきつめていくと、お金を儲けるという経済活動そのものが、武士道からは外れた、憂慮するべきこと。エコノミックジャパンそのものが、「武士道」からは、大きく外れた道であるのかもしれません。
しかし、それでも品性は品性。経済大国日本ならではの「品格」ともいうべものははあっていい。
やはり、日本人であるなら、根っこに「武士道」がなくてはいかんかだろうというお話です。
目先の「金儲け」に背を向けてまでも、人としての「品性」。国家としての「品格」を、堂々とアピールできるかどうか。
新渡戸の語る「武士道」がそっくりそのまま、今の世の中に受け入れられることは、もはやないのかもしれませんが、それでも、今の我々が失くしているものを補うエッセンスは、この100年以上前の著書にはふんだんに盛り込まれています。
僕は、商人だった父親から、特に「道徳」めいたことを教えられた記憶はありませんが、かつて軍人だった祖父からは、こう言われたことをかすかに覚えています。
「いいか。卑怯なことはしちゃだめだ。じいちゃんは見てなくても、お天道様は見てるぞ。」
さて、今の世の中、お天道さまが見ているというだけで、自分の行いを戒められるサムライたちが、どれほどいましょうか。
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