まずは、田中絹代。
1909年(明治42年)生まれといいますから、僕の祖母とほぼ同世代。
田中絹代というと、僕のリアルタイムな記憶で言えば、ドラマ「前略おふくろ様」や
映画「サンダカン八番娼館」のおばあさんのイメージ。
ですので、美人女優というというと、正直僕の中ではピンとこないのですが、
日本映画の歴史を語る上で、やはりこの方を「美人女優」のくくりからからはずしてしてしまいますと
怒られそうなので、いれておきます。
日本初のトーキー映画「マダムと女房」の主演に抜擢されたりもしましたが、
やはりこの人を決定的にスターダムに押し上げたのは「愛染かつら」。
「花も嵐も踏み越えて」のあの映画です。
その後、溝口健二などの映画で着実に映画女優としてのキャリアを積み上げていきましたが、
渡米して、帰国した際のあの「ハロー投げキッス」騒動で、大バッシング。
その後低迷していましたが、1952年の、溝口監督の「西鶴一代女」で、一世一代の演技を見せ
見事にカムバック。
監督業にも進出しましたが、晩年は不遇のうちに67歳で死去。
このイラストは、1951年の「お遊さま」での田中絹代。監督は溝口健二。
お次は、山田五十鈴。
彼女も、戦前から活躍していた日本映画界のトップスター。
「浪華悲歌」や「祇園の姉妹」あたりが、美人女優盛りの頃の代表作ということに
なるでしょうが、僕のイメージは、やはり黒澤作品での彼女。
「どん底」も印象的でしたが、やはりなんといっても圧巻だったのは「蜘蛛巣城」で
浅茅を演じた彼女。
あの発狂するシーンには、ゾーッといたしました。
父に連れられて、彼女の正月公演の舞台を見に行ったことがありましたが、
口上で、「今年18の春を迎える山田五十鈴でございます。」なんていってましたね。
このイラストは、昭和24年「蛇姫道中」での彼女。
32歳の頃です。
こちらは、木暮実千代。
1918年(大正7年)生まれといいますから、山大五十鈴とほぼ同世代。
日本人離れしたクールな顔立ちで、純情可憐なタイプの女優が多かった当時の
松竹の女優の中にあって、大人の色気を醸し出せる貴重な女優さんでした。
悪女やヒロインの恋敵という役回りが多かった人ですが、
「大人の女」嗜好の、僕にとっては、けっこう魅力的。
生涯にわたって、350本近くの映画に出演した彼女。
日本の名だたる映画に数多く出演していますが、主演よりは、
助演でいい味を出していました。
このイラストは、昭和26年の「自由学校」での彼女。
お次は、京マチ子。
1924年生まれといいますから、今年で御年90歳。
大映の屋台骨を支えていた看板女優でしたね。
彼女の大映映画でのイメージは強烈です。
まず、1950年の「羅生門」。
1953年の「地獄門」や「雨月物語」。
海外でグランプリを受賞した作品には、ことごとく彼女が出ていたという
イメージです。
このイラストは、昭和25年「復活」での京マチ子。
美人女優といえば、やはり山本富士子。
昭和25年の第一回ミス日本コンテストで、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた筋金入りの
美人女優ですね。
当時の映画会社の大争奪戦の末、大映に入社しましたが、大映とは、最後は五社協定を
めぐって喧嘩別れ。
映画界からは、干されてしまう形になりましたが、舞台に進出して活躍しました。
とにかく、1950年代当時の彼女は大映映画には、出ずっぱり。
映画を見るよりは、彼女の美貌を鑑賞するような空気でした。
そんな中でも、印象的な作品を一本あげろといわれたら、僕の場合は「黒い十人の女」。
あの映画で彼女が使った上流階級婦人言葉は、インパクトがありました。
こちらは、花柳小菊という女優さん。
昭和23年の「千姫御殿」という映画の彼女ですが、残念ながら僕は、このイラストを描くまで、
彼女のことは知りませんでした。
坂東妻三郎や、片岡知恵蔵の相手役を多く務めたようですが、残念ながら、映画での
イメージはありません。
コメント