8月15日は、終戦記念日ですが、僕にとっては、母の命日でもあります。
母が他界したのは、平成11年の8月15日、享年74歳でした。
このお盆は、実家から弟が引っ越しましたので、空き家になった実家の片付けをしていました。
父と母の遺品には、ほとんど手を付けずに10年以上が過ぎてしまいましたが、
弟が自分の荷物を持って引っ越してしまうと、もうそこに残っているのは両親の遺品がほとんど。
父親は、平成15年に他界しておりますので、ふたりの遺品は、当然そこで時間が止まっています。
もちろん、ふたりの遺品だけでなく、僕たち兄弟の子育て時代の奮闘の記録もあちらこちらから出てきます。
感傷にふけっていると、いちいち手が止まってしまいますので、とにかく意を決して、捨てると決めたら捨てる。
結局、2日間で、トラック2台分の遺品をゴミとして処理してきました。
本来であれば、両親がなくなった時に、行うべきことだったのかもしれませんが、
二人がなくなって、およそ12年経ってから、両親がこの世に存在した痕跡はなくなり、
残されたのは、僕たち家族の記憶と、スキャニングしてデジタル化した写真のみになりました。
「あんたたち、何をのんびりしてるの。あんたたちが使うわけじゃないんだから、
とっとと始末しちゃいなさいよ。」
両親からは、このお盆が来る度に、ずっとせっつかれているような気がしていましたので、
長男としては、これでやっと任務を果たし、一段落したという思いですね。
我が母親は実は、バツイチです。
父親も、先妻(つまり、僕の実の母親)とは死別していますので、ふたりはバツイチ同士。
特に仲がいいということでもありませんでしたが、父親は完全に母親に依存した
人生を送っておりましたので、最終的には姉さん女房の母親とは、平和で
温厚な人生を送れただろうと思っています。
母親の別れた旦那がどういう人であったかは、僕はまるで知りません。
ただ、その両親というのが、我が実家の先代のオーナーだったんですね。
母親の最初の結婚相手は、そのオーナーの息子。
話に聞けば、相当な女好きの放蕩息子だったようです。
母親が別れたのも、亭主の浮気が原因と、親戚のオジサン、オバサンたちからは
それとなく聞いていました。
母親は、三宅島から出てきて、ずっと、その本屋で住込みで働いていて、
そこのオーナーの息子と結婚したというわけです。
昭和30年代後半の話です。
というわけで、そんな事情を知っいた僕は、母親はずっとバツイチだと思っていたのですが、
今回実家を売るにあたり、二人の戸籍をたどっていくという作業をして確認できたことは、
母親の生涯の戸籍抄本に、我が父親以外の男性との婚姻の記録はなかったということ。
これはちょっと意外でしたね。
まあ、結婚生活はほんの僅かだったようですから、入籍をする間もなかったということでしょうか。
今となっては、そのあたりの事情を説明してくれる人はいません。
弟達はそのことをずっと後まで知らなかったようですが、僕だけは知っているということを
母親はどうもうっすらと感じ取っていたかもしれません。
僕が20歳になって、車の免許をとった時、母親から、「おまえに、連れて行ってもらいところがある。」
と頼まれたことがあります。
確か、秋だったと思います。
とある日曜日、母親を車に乗せて向った先は、埼玉県の寄居町でした。
小高い山の中腹にある、農家でしたが、作りはかなり立派だったことを覚えています。
そこに住んでいたのは、我が実家の先代のオーナー。
つまり、母親の義理の両親(?)である夫婦です。
僕が東京の大学に通っているといったような、ひと通りの挨拶が終わると、
弱い日差しの当たる縁側に座って、母親とその老夫婦は、話しを始めました。
老夫婦が、とにかく母親に向って、頭を下げている様子を見て、
なんだか、僕がその場にいるのはまずいような気がして、柿の実がたくさん実っている
農家の裏山へ散歩しにいったのを覚えています。
小一時間もあるいたでしょうか。
老夫婦の家に戻ると、老夫婦の奥さんの方は顔をくしゃくしゃにして泣いており、
母親の目にも、うっすらと涙が光り、ご主人は黙っていましたが、母親にこういったのだけは
覚えています。
「これだけは、受け取ってもらわにゃ、わしら死んでも死にきれん。」
帰りの車の中で、母親は、ゆっくりとたばこを吸いながら、大きくため息を付いて僕にこういいました。
「さあ、謙二。なんでもいいよ。いらないっていってるのに、お小遣いもらっちゃったから、
なんか美味しいもの食べて帰ろう。」
料理の得意の母は、基本的にあまり外食はしないので、少々ビックリしましたが、
せっかくですので、帰りの道からちょっとそれて、僕の知っている「うなぎ屋」へは母を案内しました。
そこで、彼女は、僕に何も聞かずに、特上のうなぎと、天ぷらを二人前注文。
そして、「おまえは、飲めないよな。」といって、ビールの大ジョッキを、僕の見ている前で
あれよあれよという間に一杯分をグビリ。
飲み物といえば、烏龍茶専門だった母親が、自分で注文したビールを飲みほす姿を
見たのは、後にも先にも、長男としてはそれ一回きりでした。
彼女が、老夫婦から受け取ったのは、おそらく現金だったのでしょう。
それがいくらだったのかは、今となってはわかりませんが、これは、それから両親が亡くなるまでは、
僕と母だけの暗黙の秘密になっていましたね。
父親は、おそらくこのことは知らないまま、亡くなっているはずです。
僕が、この話を弟達にしたのは、父親の四十九日の時でした。
さて、本日は終戦記念日でもあるわけですが、柿沢家に戦争の記憶はあったか。
もちろん、終戦の昭和二十年前後は、父親の兄弟は、みなティーンエイジャー。
その頃の写真は残っているのですが、昭和6年生まれの我が父親は、
終戦の時14歳ですから、戦争にはもちろんいっていません。
父は長男ですので、オジサンやオバサンたちも同様です。
一家は東京の下町に住んでいましたので、歴史の本からたどれば、東京大空襲は
経験しているはずですが、親戚たちの話から、当時の戦争の話を
聴いたことは、僕自身はありません。
ただ、父ではなく、祖父が従軍していたという話は、割りとよく聞かされましたね。
コックだった祖父の軍服を着た写真が手元に残っていますが、
我が祖父が従軍したのは支那事変。
歴史の教科書的で言えば、日中戦争で、太平洋戦争ではありませんでした。
おじいちゃん子だった僕は、「おじいちゃんは、満州で戦ったんだぞ。」という話は、
確かによく聞かされた記憶があります。
今回、実家の遺品の廃棄をしている中で、古い小箱の中から出てきたのが、
「支那事変従軍記章」でした。
太平洋戦争での従軍記章も、作られた記録はあるのですが、GHQの指導により
これは配布されることはなかった。
これは僕も聞いていましたので、日清戦争以降では、これが最後の従軍記章にだった
ことになります。
終戦記念日の前日に、これが出てきたというタイミングでしたので、おもわずこれは、
捨てないで、ポケットの中にしまって持って帰ってきてしまいました。
8月15日。69回目の終戦記念日。
本日、終戦記念日の夜に、このブログを書きながら、改めて、これを眺めているところです。
コメント