1922年に発表された芥川龍之介の有名すぎる短編小説。
これを、僕は今回初めて、オーディオブックという形で読みました。
といいますか、聞きましたですね。
なんで、オーディオブックかというと、実は畑作業をしながら聞いたんですね。
短編とはいえ、歴史的傑作ですから、居住まいを正して、しっかりと読書すべきでしょうがさにあらず。
働きながらでも、空いている耳は何かに使いましょうという貧乏根性で聞いた次第。
文学ファンには怒られそうですがご勘弁を。
もちろん、「藪の中」は、作品の情報としては、かなり以前から刷り込まれていました。
なんといっても、あの有名な黒澤明の「羅生門」の原作ということで名高い作品。
そして、物語が関係者の証言だけで構成されるという形態。
その証言が、すべて食い違うという内容。
真相は、あえて提示しないで、未完のまま終了するという斬新さ。
一つの事象を複数の視点から見つめる、内的多元焦点化の手法を確立させた作品。
まあいろいろとね。
これだけこの作品に関して耳年増になっていますと、なんだかすでに読んでいたんじゃないかとも思ってしまいますが、確かに小説として接するのは今回が初めて。
それはやはり、多分に、黒澤明の「羅生門」の影響だと思われます。
黒澤明フリークですから、もちらん、「羅生門」ならなんども見ています。
ですから、この原作を聞いていても、頭に浮かんでくるイメージは、「羅生門」のシーンばかり。
まあ、それもやむなしというところでしょう。
この名作「藪の中」は、短編であるにもかかわらず、その衝撃的内容ゆえ、小説本編をはるかに上回る量の研究書が書かれていますよね。
それは、未完のまま終わっているこの「藪の中」の真実はこうだと指摘するものであったり、芥川の本意はこうだと推察するものであったり。
多くの評論家、作家、知識人の知的好奇心を今尚刺激しているわけです。
未完だからこそ、補完したくなる人間のサガでしょう。
では、もしも、芥川がこの物語に、真実を書き加えていたら、「藪の中」の評価はいったいどうなっていたか。
おそらくは、未だに語られ続けるほどの名作としての評価は、与えられなかったのではないか。
僕はちょっとそんな気がしています。
つまりこの物語は、結論がないところが結論。
それが傑作たる由縁なんでしょう。
それでいいんだと思いますね。
芥川はあえて、結論が導き出せないように、登場人物の証言を構成した。
これは明らかに確信犯です。
そして、その謎を読者に対して、投げつけた格好で物語を終了しているからこそ、この短編は読者を惹きつける名作になりえた。
ミステリーの基本は、謎解きの大円団がラストにあってこそ成り立ちますが、それは推理フィクションの世界のお約束。
現実は、そう簡単に何もかもが丸く収まることはない。
すべてのものが、謎を多少なりとも含んだままで、世の中は回っている。
そもそも、人間はなんでもかんでも、答えを知りたがるし、見つけたがる。
それが悪い癖。
多少の謎があったところで、なんの問題があります?
いやむしろ、現実社会はそれでこそ自然というもの。
なにか、この小説を執筆している芥川は、のちのそんな騒動も見越した上で、ニヤニヤしながら筆をとっていたのではないかとさえ思います。
結論や主張を押し付ける物語は、エンターテイメントとしては二流。
読者の知的好奇心を上手に刺激してこそ、極上のエンターテイメントというもの。
そんな、芥川も、この短編を執筆した5年後に、「ぼんやりとした不安」を理由に自殺してしまいます。
話は変わりますが、スタンリー・キューブリックの大傑作「2001年宇宙の旅」。
映画至上、もっとも難解で哲学的と言われたこの作品。
撮影当初は、かなりコンセプトもテーマもはっきりとした映画だったそうです。
その通りに作っていたら、スピルバーグの「未知との遭遇」のような作品になっていたらしい。
しかし、キューブリックは、作り込んでいく過程で、わざとそのはっきりとテーマのわかる描写を削っていったらしいんですね。
つまりわざと、わからない映画にしてしまった。
これも確信犯です。
そして、その結果あの大傑作が出来上がった。
わざとわからなくしているというのは、彼の一流の演出だったというわけです。ました。
その結果、この映画の公開の後には、「藪の中」の出版後と、まったく同じことが起きました。
著名な映画評論家たちは、この映画の難解さに対抗すべく、広辞苑でしかお目にかからないような難しい単語を引っ張り出してきて羅列し、小難しい解釈をつけ、完全に自己陶酔して評論を書いて、評論家ヅラしていました。
おそらくキューブリックは、してやったりと、鼻で笑っていたかもしれません。
謎は謎でいいでしょう。
あえて解決してもなんの問題はない。
なんでもかんでも解決したがるのは、人間の悪い癖。
キュブリックが、「藪の中」を読んでいたかどうかはわかりませんが、どこか通じるものを感じます。
答えを提示する映画よりも、観客に考えさせる映画の方が、作品としては一流。
これは、小説についても、映画についても言えるエンタテイメントの法則かもしれません。
芥川もキューブリックも、一流のクリエイターはちゃんとそれをわかっていた。
そんな気がしますね。
とはいえ、すべてがそんな小説ばかりでは、やはり読者も疲れる。
中にはそんな作品があってもいいというくらいがちょうどいい按配なのでないでしょうか。
ちなみに、映画「羅生門」では、原作の証言の他に、志村喬演じる樵の証言を最後に再度登場させて、とりあえず一応の結論らしき内容を提示します。
しかし、そこにも嘘があるぜと指摘されるのがラスト。
芥川の原作は、真実が混沌としたまま未解決で終了するという、読者にとっては衝撃のラストで終わりますが、映画では、とりあえず、映画的収束があったということですね。
ところで、僕が実際に「藪の中」を知ったのは、実はさだましの「印象派」というアルバムに収められていた「検察側の証人」という曲の歌詞で聞いたのが最初。
この曲は、とあるカップルの別れを、それぞれの友人からの視点で語る内容が、そのまま歌詞になっている楽曲。
多元焦点化を駆使した歌詞は、僕の知っている限りではこの曲のみで、その歌詞の最後に「藪の中」という歌詞が出てきます。
アルバムタイトル通り、印象的な曲なので、聞いていない方は、ぜひは聞いてみてくださいませ。
果たして、フォークシンガーさだまさしが、この「一流」の法則を知っているかどうかは、「藪の中」。
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