本文とは関係ないのですが、「怖い絵」で、覚えていることが二つ。
ひとつは、小学生の頃に浴びるように読んだシャーロック・ホームズ全集の中のとある一冊の挿絵。
これは、ポプラ社発行の、子供向け推理小説でした。
その中の一冊。
もうタイトルは思い出せませんが、子供向けでしたので、割と頻繁に挿絵がありました。
問題の「怖い絵」は、その挿絵の中の一つ。
その挿絵は、殺人のシーンでもなければ、殺人鬼が微笑むというような、わかりやすいシーンでもない。
ただ、広いお屋敷の廊下に、ひとりの女性がこちらを向いて立っている。
ただとりたてて、恐怖シーンをカットしたという図柄ではないのですが、どういうわけだが、小学生の僕には、その一枚が、やたらと怖くて仕方がなかった。
他の挿絵は、なんともないのに、なぜかその一枚だけが異様にインパクトがあった。
その挿絵の女性は、楳図かずおのホラー漫画に出てくるようなおぞましい顔をしているわけではないし、ストーリー展開上、この女性が後の恐怖シーンの伏線になっているというわけでもない。
ただ、挿絵を入れるページの前後から、便宜的に拾ったというようなさりげないシーンです。
表情も、微笑むでもなく、怯えるでもなく、ただ普通に立っている。
その絵がとにかく怖かった。
その絵がなんで怖かったのかはいまだに不明です。
とにかく、「怖い絵」という記憶だけが残っているんですね。
おそらくは、なんで怖いかわからないことが、さらに僕の恐怖を煽っていたのでしょう。
そんなに怖いなら見なければいいし、飛ばせばいい。
それだけのことなのですが、これが不思議なもので、実際にはそのページには栞を挟んで、何度も戻って見れるようにしていた記憶があります。
試しに、その本を弟にも読ませましたが、彼はその挿絵は、なんの問題もなくスルーだった模様。
後から、その挿絵のページを教えて「怖くなかった?」と尋ねても、彼は不思議そうに「え、なにが?」
そして、そんな訳はないだろうと、またのぞいて見ると、その絵は、僕にとっては、やっぱり怖い。
「なんで、自分だけが怖い」という状況が発生するのか。
その挿絵の得体の知れない恐怖を、さらに増幅させていたようです。
「怖い絵」という本書のタイトルから、まず浮かんだのは、この幼い頃の記憶。
それからもうひとつ。
それは絵ではなくて写真だったのですが、それはこともあろうに自分の母親の写真でした。
写真とは言っても、それは遺影。
僕の母親は、僕が三歳の時に、乳癌で亡くなっているのですが、その実の母親の遺影が、怖くて仕方がなかった。
おそらく、その頃の僕は、5歳から6歳。
僕がその写真をあまりに怖がるので、やむなく、祖母がその写真を下ろしたと聞きました。
実の母親の写真が「怖い」というのですから、父の気持ちは複雑だったことでしょう。
母親は乳癌で死にましたから、最後は、割とふくよかだった生前の面影はないほどに痩せ衰えていったと後で聞いています。
母は、その姿を子供達には見せたくないと切望したようで、僕には、死に際の母親の姿の記憶は一切ありません。
「ママ」と呼んでいた女性が、或る日突然いなくなって、しばらくしたら、写真になって帰ってきたというイメージ。
そのことが、子供心にどう影響していたかは定かではありませんが、とにかく、「絵」になって帰ってきた母親は、幼い僕には、なぜかしらとても怖かった。
もちろん、その写真の母親のビジュアルが怖かったということではありません。
遺影は、僕が生まれた時の家族写真から、抜き取った絵柄で、彼女は着物姿の正装。
当時のことですから、きちんと写真館で撮影した一枚でした。
ですから、ちょっとおすましでポーズしている母の遺影。
でも、その背景にある「なにか」を幼い僕は感じていたのかもしれません。
自分をじっと見つめるその遺影が怖くて、仏壇のあるその部屋では、けっして一人では遊ばなかった記憶があります。
その写真は、デジタルスキャンして今でも持っていますが、流石にこれは今では普通に見れます。
というよりも、今になってみれば、なぜこの写真が子供の頃の自分には怖かったのか。
それが不思議でなりません。
「怖い絵」には、そのビジュアルだけではなく、その背景に潜む物語がある。
そして、その物語を知れば知るほど、その恐怖は、ジンワリと鑑賞するものを包み込む。
さて、本書に戻りましょう。
本書に紹介される「怖い絵」は、すべて中世から近代ヨーロッパの名画ばかり。
中には、ゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」や、アルテミジア・ジェンティレスキの「ホロフェルネスの首を斬るユーディト」のように、ビジュアル一発で理屈なく怖いという作品もありますが、そのほとんどは、著者の圧倒的なこの時代の知識に裏打ちされた、歴史的背景の説明とシーンの解釈から浮かび上がるインテリジェンスな恐怖。
著者は、描いた画家のプロフィールとそのキャラ、作品が描かれた当時の状況、時代背景を綿密に調べ、どんな細かい描写も見逃さずに、わかりやすく、恐怖へと誘う「絵解き」をしてくれます。
つまり、知識を得れば得るほど、一枚のその絵は、徐々に怖くなるという寸法。
インテリジェンスの高い恐怖は、非常にお上品。
それは、血しぶきがほとばしるスプラッター映画よりも、巧みな伏線でジワリジワリと恐怖を盛り上げていくヒッチコック映画の味わいです。
「怖いもの見たさ」という人の本能と、知的欲求を見事に満足させてくれる、まことにお上手な企画。「怖い絵」というタイトルもよかった。
この本はシリーズ化されていますが、こりゃ売れるわな。
面白かった!
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